前編
見たこともない扉を開き、見たこともない場所を行く。逃げる様に、ひたすらに。
今日がこんな日になるなんて、朝起きた時には思ってもいなかった。
休日で、暇だった。同じく暇な友人と、映画でも観に行こうと言う話になった。
一番近い映画館は、ショッピングモールの中にある。いくつもの映画を上映していて、連れも私も別の作品が観たくなった。
「じゃ、あとで」
「そっちって何時に終わる?」
互いにジュースとポップコーンを両手に持って、そんな会話で別れと再会を約束する。
ポップコーンのケースをストラップで首にかけ、チケットの番号を確かめた。どうやら、上映スクリーンは二階の様だ。
映画館のエントランスは、たくさんの人で混雑している。連れの背中がその人ごみに埋もれて行くのを見送って、自分は近くのエスカレーターへ足を向けた。
人でいっぱいの中を通るのがやだな。なんとなく、そう思っただけのことだった。
「ほら、見て。すごいね」
二階に着いたところで、そんな声が聞こえてきた。小さな子供に、親らしき男性が話しかけている。
なんだろう。そう思って振り返ると、今降りてきたばかりのエスカレーターでショーグンが合図でもする様に軽く手を上げていた。
軍服っぽいかっこいい服に、のっぺりとした黒い仮面。必要性のないマント。日本の要素なんてまるでないのに、名前はショーグンと言う欧米センス。
SF映画に出てくる人気のキャラクターで、私も好きだ。今、首からぶら下げているケースもショーグンを模したものだった。
イベントでもあったのだろうか。実物大でなまものっぽいショーグンとか、初めて見た。どうしよう。写真撮りたい。
腕に引っかけたバッグの中には、スマホが入っているはずだ。映画の上映時間は大丈夫だろうか。大丈夫なら、ぜひ一枚。できれば一緒に。
少し迷った。そして一瞬バッグに落とした視線を戻すと、ショーグンはもういなかった。
イリュージョンかよ。と、おどろく前にがっかりした。数秒前は実物大のショーグンを見たってだけで喜んでいたのに、贅沢な話だ。
そうだ。会えただけで、充分嬉しい。
そう思い直し、止まっていた足を再び動かす。明るい通路の先にある、少し重いドアを押し開けた。
「あれ?」
私はてっきり、そこから上映フロアに行けるものと思っていた。でも、違った。本当は違わなかったのかも知れない。けれどこの時、少なくとも私には違った。
騒がしい。子供だ。きゃあきゃあと嬉しげに、おもちゃを振り回しながら小さな子供がそこら中を駆け回っている。
おもちゃ売り場、かな。と思う。目に痛いような原色と、軽い質感の安っぽいおもちゃ。商品として並んでいるのは、ただの玩具だ。映画のグッズとも思えない。
しまった。失敗した。
そう思った。結局、遠回りのルートを選んでしまったのかも知れない。
映画の時間に間に合うだろうか。そんな心配をしながら、騒がしい売り場を急ぎ足で抜ける。突き当りにそれっぽい扉を見付けると、よく確かめもせずに開いてくぐった。
「えっ、なんで?」
外だった。それも地上一階の。アスファルトの道路が、すぐ目の前を走っている。
二階にいたはずなのに?
なんだ、このめんどくさい構造は。消防法を知らないのか。私もよく知らないが。
見知らぬ設計者に文句を言いつつ、踵を返す。
これはもう、あれだ。映画館のエントランスに戻って、上映フロアに入りなおしたほうが早いやつだ。
最初から普通に、そうすればよかった。
最初からそうしていたら、違ったのだろうか。あとになって考えてみたけど、解らない。
この時も、何がなんだか解らずにいた。解らないけど、とんでもない失敗をした様な。それだけは、ぼんやりと肌で感じた。
思えば、外へ出てしまった時点で私は確かめるべきだった。その建物が、本当に自分がいたはずのショッピングモールだったのか。
けれど私はすでに振り返り、すぐそこにある扉を開いてしまった。確かめもせずに。
インクと紙の匂いがする。
戻ったはずの扉の先は、本屋だった。
「なんで」
おかしい。常識的に考えて、ここはおもちゃ売り場に戻るはずだ。だって、通ったのは同じ扉なんだから。
慌てて背後を確かめる。その動きに反応し、自動ドアが静かに開いた。さっき、この手で開けた扉とは明らかに違う。
ふらふらとさまよう様に自動ドアの外に出て、ほとんど呆然と周囲を見回す。
この本屋は、駅の中にあるらしい。すぐ外の通路には、天井から吊り下げられた看板に駅名や路線を記してあった。
なんだ、これ。
こんな駅名、私は知らない。路線でさえ、馴染みがない。
そもそも、私がいたショッピングモールは駅の機能を持っていないはずだった。
なんで。なんでなんでなんで?
知らない内に、駆け出していた。
多分、パニックになっていた。恐くて、心細くて、体が勝手に逃げ出していた。
息が苦しい。外に出たい。誰か、知ってる人を探さなきゃ。
こんな近くで迷ってたの? ばかだね。そんなふうに、笑って言ってくれる人。
途中、歩いている人にぶつかった。壁や、柱にも。角を曲がろうとした時に、肩をぶつけてジュースを落とした。
それでもなぜだか、首にかけたポップコーンはしっかり手で押さえたままだった。そうしてめちゃくちゃに走って、走って。
たどりついた先で、外へと続くガラスの扉を押し開けた。
はっ、はっ、と荒れた息を飲み込みながら、立ち尽くす。
今度は、なんだ。
暗い。外なのに暗い。夜だ。いつの間に。
昼過ぎに始まる映画を観たら、晩御飯を食べて帰ろう。連れとそんな話をしてたのに、もうすっかり夜だった。
さっき、ガラスの扉を押し開ける前はどうだった? 外は、こんなに暗かっただろうか。
……解らない。思い出せない。
周囲は暗い。暗いのに明るい。なぜなのかはすぐに解った。
首が痛くなるほど見上げても、てっぺんの見えない巨大な何かが目の前あった。
薄青い、いくつものライト。照らし出される、ごちゃごちゃと絡み合う無数の配管。何だかSFっぽい様な、工場っぽい様な。
あっけに取られたとでも言うか、もう訳が解らなくなってしまった。ぼーっと巨大なそれを見上げていると、背後で、バタンと閉じる音がした。
はっとして、弾かれる様に振り返る。多分、私はここから出てきたのだろう。そこには金属っぽくて、重たそうな扉があった。
元の場所には、帰れないのかも知れない。
やっと、そんな恐ろしさが体の内側をざわざわと這い上がる。恐い。誰か、家族に。電話。とっさにスマホを探そうとして、バッグに伸ばした手は空を掻いた。
腕に引っかけていたはずのバッグは、なくなっていた。一体いつ落としたか、覚えてもいない。スマホも財布も、あの中だ。改めて、目の前が暗くなる。
だから、間近になるまで気付かなかった。
足音が――。
する。そう思った時には、腕を強くつかまれていた。
「ここで何を?」
問うたのは、不機嫌そうに眉をひそめたスーツ姿の男だった。
相手が私を怪しんでいるのは、一目で知れた。だけど、それでも構わなかった。
人だ。知らない人。だけど、私を見て、腕をつかんで、話しかけている。
それだけなのに、泣きそうになった。ばかみたいにほっとした。不安と緊張で縮こまっていた脳細胞が、一気にふにゃっと弛緩した。そんな気がする。
「産業スパイなら、他の会社へ行くと良い。うちは宇宙事業じゃ後発だ」
「スパイ」
「……にしては、間抜け過ぎるか」
入ってはいけない場所だったらしい。男の態度と言い分に、なんとなく察した。工場っぽいし、企業秘密とかがあるのかも知れない。
宇宙事業ってなんだっけ。火星でゴキブリ育てるんだっけ。
それは、まあいい。置いといて、今も不機嫌そうな顔の男に一番知りたいことを問う。
現在位置だ。
「ここどこですか?」
「うちの研究所だ」
「研究所」
「筑波にある」
「つくば」
「茨城の」
「あっ、それは聞いたことある」
やっと知ってる単語が出てきた。そんな安堵で、今度は顔がふにゃっと弛緩した。
口を開けば開くほど、自分が非の打ちどころのない不審者になって行くことにはあとになるまで気が付かなかった。