聖母の残像
この話には史実ネタが含まれておりますが、実在の人物、事件、子孫の皆様には無関係です。
――その男が部屋に入ってくると、涼やかな風が吹くようだった。
散歩ですかな、お若い方。
ほう、学生か。ああ、読書を。若い時分には私もそうして、書に耽溺しよく学んだものだ。
いやいや、退かなくて結構。ただし話を聞いてくれ。
……なに、老人は昔話が好きなのだ。しばしお相手願えないか。
ある男の話をしよう。
今でもはっきりと覚えている。彼と出会った、最北の地でのとある日を。
上背のあるその男には舶来物の軍服がよく似合っていた。役者のような白い肌、すっと細められた切れ長の瞳、散切りの似合うまっすぐな黒髪。外見こそ優男の風体であったが、その実彼は軍神とまで謳われるほどに戦に才長けているのだ。
颯爽とブーツを鳴らし、その男は会議室の戸をくぐった。
「……新撰組副長、土方歳三です」
慶応四年――
時は明治に移り変わろうとしていた。
未だ雪深い蝦夷地に足を踏み入れた旧幕府勢力は、それでもなお抵抗を続けていた。かつて徳川将軍家に忠誠を誓った武士が、今は錦の御旗を掲げた武士に追われている。我々は一体何に抵抗しているのだろう。何を恐れているのだろう。時代か? 異国か? 武士の終わりか? 考えるだけ無駄だと頭では理解しているのに。
「ここにいたのか」
「……榎本さん」
行儀悪く窓辺にもたれて外を見ていた彼は、私のほうを見てさっと居住まいを正す。ポケットへと連なる懐中時計の鎖がちゃり、と鳴った。普段気の緩んだ姿を見せぬ男だから、決まりが悪いのだろう。窓の外は、吹雪と積雪で見えない。
「何を見ていた?」
「雪を」
「雪?」
北へ北へと軍を進めていた私たちにはもう見慣れた白だ。いくら彼が武州の生まれとはいえ、かつては京に住んでいたのに。何を今更といぶかしがる私をよそに、至極当然だとでもいうように彼は答えた。
「綺麗じゃないですか」
句作が趣味だと言っていた。
もっとも、古参の隊士曰く「下手だ下手だと言って、見せてくれたことはないんですよ」との事だった。彼の句を見たことがあるのは、唯一、幼馴染の青年だけだったと言う。
「今はもう、その方も居ませんが」
時は流れ続ける。やがて雪は溶け、夜が明けるように。
私たちは黎明の光を拒み続けた愚か者だと、君は言うだろうか。けれど聞いてくれ。私たちにも守りたいものがあったのだ。
「……私が刀を取ったのは、お顔も存ぜぬ天子様のためでも、逃げ上手な将軍様のためでもありません」
それは地図を広げて、次の戦に備えて作戦を練っていたときだった。不意に気になって、私は目の前で書物を開きながら地図をなぞる男に問うたのだ。『君は何故戦うのだ?』と。
「――君、今の発言の意味を分かっているのか?」
私の声は随分と慌てていた。彼の言葉に敵が生まれかねないと思ったのだ。その狼狽した様子が面白かったのか、彼はふっと口元を歪めて、寂しそうに……そう、私はその時、彼を寂しそうだと感じた。寂しそうに、笑った。
「私が刀を取ったのは、幼いころに惚れ込んだガキ大将を、本当の大将にさせるためですよ」
彼が慕った大将は、すでにこの世を去っていた。
この戦が長引くものでないことは、私たちにもよく分かっていた。銃も兵士も戦艦も、われわれは政府軍に勝てなかった。
彼の直属の上司は、彼と違ってよく笑う男だった。おかげで、部下からは常敗将軍などと揶揄されていたが。
男は戦上手だった。一時とはいえ、宇都宮城を陥落させた実力の持ち主だ。上司は軍事理論に長けていたが、彼には実戦経験で磨き抜いた独自の理論があった。
「大鳥君が笑うのは、彼が生きようとしているからだ」
男はいつも、前線に出て戦っていた。怪我を厭わず、足を引き摺ってでも戦地に向かおうとする。初めは懸命になっているのだと思った。だが、やがて気付いた。この男には戦場しか見えていないのだと。そこには勇壮さなどではなく、もっと危なげなものしか感じられなかった。
「彼は生きて、生きて武士の誇りを護ろうとしている」
戦が激しくなるにつれて、彼は酒をやめ女を遠ざけ、穏やかで優しくなった。部下に食事をおごる場や、相談に乗っている姿もたびたび見かけた。彼の周りには、彼を「先生」と慕うものが輪を成していた。
「だが、君はどうだ?」
それは京にいた頃の「鬼の副長」の面影は薄れ、まるで慈愛に満ちた母のような姿で――……。私には彼が、どんどんとこの世から遠ざかっていく気がしたのだ。
「君は死にたいのか」
私の問いに、男は薄く笑んだ。あの慈愛に満ちた母のような微笑みで。見上げた黒い瞳の奥に、酷く思いつめた面持ちの、髭面の男が映っていた。
「私の命は、あの人のために使います」
私は彼を、この世に引き止めたかったのだ。
けれども可笑しな話だ。死なせたくない者ほど、失いたくない者ほど、失われやすく出来ているものだな。
「榎本総裁!」
あちらこちらから上がる煙。火の粉。砲弾の雨。鳴り止まぬ銃声と轟音の中、私は部下の悲痛な声を聞いた。
「土方先生がっ……!!」
ああ。
彼は孤立した仲間の陣を救うために、劣勢の中進軍したと聞いた。
(この門より退く者は、俺が斬る!!)
勇壮に刀を振り上げて、そして腹部に被弾し、馬上でくず折れた。側近が駆け寄ったときには絶命していたと言う。鬼の副長と恐れられ、修羅か羅刹かと謳われた戦上手の男の生は、それだけのことで幕を閉じられた。
「……君には、生きてほしかった」
硝煙の臭いが強くなった気がして、思わず顔を顰めた。
その時私は、この戦はもう終わりだと、もうお仕舞いだと悟ったのだ。戦の神様が、いなくなってしまったのだから。
「命は存分に使えたかね?」
弁天台場の方へ目を向けたとき、蝦夷の冷え切った、清らかな風が一筋吹いて、強まる硝煙の臭いをかき消した。
明治二年五月十八日――……戊辰戦争終結。
――ああ、随分と話し込んでしまったね。古い話だ。君は生まれていなかっただろう。
聞いてくれてありがとう。どうかこの話は忘れてくれ。
なに、ある男の話だ。