九
九
溜め息をついて、明が呟く。
「結局、事実をなぞっただけみたいなものでしたね」
「ああ」
応えるさくらにも元気がない。
西の空が、淡い紫色を帯びていた。すっかり日が長くなったとはいえ、そろそろ帰らねばならない刻限だ。二人はとぼとぼと往来を歩いていた。
「おカヨはいつも夕方から店を手伝っていた。あの日も店の裏で洗い物をしていて、そしていなくなったんだ」
「裏のお稲荷さんに繋がる道に入って行くところを、見たって人もいたんですよね」
「ああ、あの晩、飲みに来ていた大工の棟梁な」
その大工は、店を出て塒に帰る途中にカヨを見ていた。
馴染みにしている店の自慢の娘が、暗い道を歩んでいる。不審に思い、「どこへ行くんだい」と声を掛けた。しかし、カヨはそれに答えなかった。前を見つめたまま路地を奥へと入って行ってしまった。
「そして、それきり帰っては来なかった……と。その時、棟梁が追っかけてくれたらよかったのに」
頬を膨らませる明に、さくらが苦笑交じりに言う。
「こんな事態を予想できたはずがないじゃないか。それより、おカヨはどうして稲荷のほうへ行ったんだろう」
「お稲荷様の先は、どん詰まりの行き止まりでしょ。左右は高い塀だし、行き場はないんですよねえ」
「明、においでおカヨの居場所を捜せないかな」
「ええ?」
突然の指名に素っ頓狂な声を上げる。さくらを見上げて猛然と抗議を始めた。
「無理よっ。何日前のことだと思ってるの。雨が降った日もあったし、においも何も残ってないわよ。それに、よりによってアタシを犬扱いするなんて、あんまりだわ」
「本気で言ったんじゃないよ」
可笑しそうに笑う。
明がますます臍を曲げた。
「ヒドイっ。からかったのねっ」
「いや、からかったんじゃなくて。あわよくばって想いはあったんだ。明の嗅覚は、人並み外れて鋭いから」
「それにしたって──あ」
不意に言葉を切った。右腕を突き出して、遠くを指差す。
「喧嘩かしら」
つられて、さくらも足を止めた。
左手の路地、一町ほど先から言い合う声がした。遊び人風の男三人が、揉みあっているようにも見える。
傍の店の者達は、関わり合いになるのを恐れて遠巻きに見守るだけだった。他の通行人も同様で、その場から足早に遠ざかって行く。
「酔っ払いの喧嘩かな」
なんて傍迷惑な。そう思い、知らぬふりを決め込んだ時。
「……助けて」
細い声が、確かに聞こえた。再びそちらへ視線を向ける。
腕を振り回し、踊るように足を蹴り出す男たち。彼らの足元に、もうひとり、誰かいる。
「――あれは喧嘩じゃないっ」
言うなり、駆け出した。
「やめろっ」
さくらの声に男たちが振り返る。どれもこれもいい人相とは言い難い。
「ああ? 誰だ、てめえ」
お決まりの台詞しか吐けないところを見ると、大物でもなさそうだ。脛にはいくつか傷がありそうだが、わざわざ気にする程度のことでもあるまい。
地に突っ伏している男を一瞥する。白髪交じりの頭がわずかに動いた。
「大の男が三人で年寄りいじめか」
「うるせえっ。こいつ、ぶつかっておいて謝ろうとしなかったからよ、礼儀ってやつを教えてんだ」
「兄貴、こいつ女ですぜ」
小柄な男が、ニヤニヤしながら隣の男に囁きかける。三人の中での兄貴分らしい長身の男が、嘗めるような目つきでさくらの全身を見直した。
内に広がる不快感を抑え込んで、さくらは一歩踏み出す。
「だったらもう充分だろ。それ以上やったら死んでしまう」
「お前さんが相手してくれるっていうなら、このジジィ、放してもいいけどなあ」
目つきの悪い、狐顔の男が言った。
「そうそう。ちょこっと酌するだけでいいからよ」
女だと油断して甘えた声音を出す。ここまでくると、薄汚い欲望が透けてよく見えるものだ。
――もうちょっと、マシなことは言えないのか。
不快感も然ることながら、さくらはすでに呆れかけていた。
どうしてこの手の連中は、女と見ると助兵衛丸出しで同じような台詞しか言えないのだろう。もう少し小粋な言葉でも使えるようになりゃ、身に釣り合うくらいの女はすぐにできるだろうに。頭を使わないのがいけないのか、使える頭がないのか。
――まあ、その両方だろうが。
「おい、てめえ。聞いてんのかよ」
小柄な男が、さくらの腕を掴む。長身の男と一緒にいるから小柄と思われたが、実際、さくらよりも背が低い。
「なんだ、本当に小さかったんだ」
見下ろしてわざと呟いた言葉に、男の顔が紅潮した。懐に手を突っ込んで匕首を取り出しかけた、その瞬間、
「――っうわぁ!」
男の体が、一回転して地面に叩きつけられる。
兄貴分と狐男の顔が一瞬にして強張った。
「相手、してほしいんだろ」
さくらが優雅に袖を払う。
「素手で相手してあげるからさ、かかってきなよ」
ここまで言われてカッとしない連中なら、今頃もっと上等な人生を歩んでいただろう。やはり使える頭を持たないらしい。
「このっ――」
「嘗めんなっ」
二人同時に匕首を取り出し、手加減なく突き出してくる。それを後ろへ引いて躱したさくらは、まず狐男の後ろ襟を取った。さほど力も入れずに引っ張ると、草鞋を滑らせ均衡を崩した男は、いとも簡単に背中を地に打ちつける。喉から漏れる呻き声が、なんとも情けない。
「貴様っ」
仲間の憐れな姿に、兄貴分としての責任が湧きでもしたのか、長身の男が怒りの目を向けた。
ここまで力の差を見せつけられて、逃げ出さない根性は認めてやってもいい。しかし、
「ぶっ殺す」
吐き捨てる文句は、陳腐そのものだ。
「人殺しは獄門だ。それを覚悟で言ってんのなら、遠慮することはないよ」
どうぞと、手を広げる。無防備だと勘違いした男が、勢いよく踏み込んできた。
「でりゃあっ!」
気合充分の掛け声と共に、匕首を真一文字に切る。
それを、さくらは足を一歩引いただけで躱した。
「間合いに入ってくるなんて、馬鹿だねえ」
呟き、足を蹴りだす。脛が男の脇腹に食い込んだ。「ぐえっ」と、蛙が潰れたような声が漏れる。
そのまま、男は頭から天水桶に突っ込んだ。桶が割れて水が溢れ出す。男は無様に吹っ飛ばされた挙句、水浸しになってしまった。
「水も滴るいい男……とは、到底言えないな」
さくらは、余裕の態で裾の埃を払い落とした。男たちは何やら喚き散らしながら、すごすごと逃げて行った。
「やれやれ。意気込みだけは、よかったんだけどねえ」
一息ついたさくらに、
「すごいっ、さくら様の圧勝!」
後ろから抱きつくのは、言わずと知れた明だ。
「ああいう手合いは好かないんだ。それより ――」
明の手から逃れ、すぐに老人に駆け寄った。ぐったりとした様子だが、それでもひとりで起き上がろうとしている。
「大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫じゃ。すまんの。助けてもらって、なんとお礼を言ったらいいか……」
そう言う老人の顔に、さくらも明も見覚えがあった。
「壱屋で!」
明がポンと手を叩く。前に壱屋を訪れた際、カヨがかどわかされたと教えてくれた酔っ払いの老人だ。
顔を上げた老人は、二人の顔をまじまじと見つめた。
「はて。どっかで会ったかな」
彼のほうは二人を覚えていなかった。あの時は相当酔っていたから、当然である。
「とにかく傷の手当てをしましょう。どこか休める場所に――」
「よければ、うちの店を使いなさいな」
辺りを見回したさくらに、恰幅のいい女将が親切に声をかけた。指差す店は老人が背を預けているまさにその店で、大店と呼ぶに相応しい店構えをしている。造り酒屋・篠崎屋の看板が掲げられていた。
「あたしゃ、あんたの腕に惚れたね。あのならず者たちが、店の前で乱暴働いた時はどうしようかと思ったけどさ、あんたがやっつけてくれて、こっちも助かったよ」
豪快に笑い、店の手代に老人を担がせる。
さくらがすかさず頭を下げた。
「すみません。勢いとはいえ、天水桶壊しちゃって」
「ああ、いいさ。あんなもん、古い漬物桶置いときゃいいんだからさ。それより、あんたも中に入りな。腕、怪我してるじゃないか」
「あ」
確かに、左腕にうっすら傷が付いている。どうやら男を投げ飛ばした時に、爪で引っ掻かれたようだ。
「大丈夫ですよ。これくらい」
傷の内にも入らないと遠慮するさくらに、
「駄目よ、さくら様。化膿したらどうするのっ」
懇願する明の視線が痛い。女将の強い勧めもあり、結局さくらも篠崎屋に上がることになった。
世話をやきたがる明と女将を、「本当に大丈夫だから」と押し止めて、自分で膏薬を塗りたくる。次に、老人の傷を確かめた。足にも腕にも、相当数の擦り傷や打撲が認められる。幸いなことに、骨は折れていない。内臓も無事だ。
「腹と頭だけは守っておったのでな」
老人が力なく笑う。目の回りの青痣が痛々しい。
「とにかく軽い傷ばかりでよかった。足は捻挫してるみたいだから、晒を巻いておきます。明、頼むよ」
「はーい」
さくらのために用意していた晒で、不承不承ながら丁寧に足を固定した。さくらは全身の傷に膏薬を塗っている。
慣れた様子の彼女を見上げて、老人が言った。
「お前さん、女のお医者かい」
「いいえ。でもこれくらいの傷は、道場に通っていれば毎日できるから。慣れているんです」
「道場ってことは、やっとうを振り回すのかい?」
女なのに?
そういう目で見つめる。さくらは、苦笑しつつわずかに頷くだけだった。
「そうかい。まあ、なんだ。助けてもらった礼をしなきゃならんな」
「いいですよ。通りかかっただけなんですから」
「よかねえ。お前さんが通りかからなかったら、俺はあのまま死んでたかもしれねえんだ。是非とも礼をさせてくれ」
「頭を下げないで下さい。傷が見えなくなる。それに、本当はこれで相子なんです」
「はあ? あいこ?」
眉を顰めて問い返す。まだ、さくらたちのことを思い出してはいないようだ。
「覚えていないかもしれませんが、前に一度、壱屋で会っているんです。私と、この明と」
「清次の店で?」
再度、二人の顔をマジマジと凝視した。
「そうだったような気もするがなあ」
「あの時、壱屋の娘が、かどわかしにあったっていう話を教えてくれた。それでお相子」
「相子になるのかねえ」
「私がなると言ってるんだから、いいじゃないですか」
老人は腑に落ちないといったふうながら、大人しく軟膏を塗られていた。
大方の手当てが終わった頃、篠崎屋の女将が手に盆を持って現れた。
「ま、一杯やってっておくんなさいよ」
見ると、白磁に青で絵付けされた杯と銚子が並んでいる。肴の小鉢も三種ほど載っていた。
「手当ての場所まで借りた上に、こんなことをされては──」
「そんなこと気にしちゃいけないよ。いける口なんだろう」
「……分かりますか」
――おかしいな。今日は一滴も飲んでないのに。
まさか酒の匂いが染み付いている、なんてことはあるまいが、思わず着物のにおいを嗅いでしまった。
女将が豪快に笑う。
「いやだね、違うよ。あたしゃ、人の顔見てどういう人かを見分けるのが得意なのさ。商売上、酒好きもたんと見てきた。自然と、上戸と下戸を見分ける目を持っちまった。あんたの顔は間違いなく酒好きの顔だよ」
「そうですか?」
こんなところで太鼓判を押されるとは。
ここは素直に、杯を受け取る。明が渋い顔をしているが、今は見逃してもらうとしよう。
一口、含む。舌の上に刺激が走る。飲み込んだ後に鼻を抜ける、爽やかで香りいい匂い。
この味には覚えがあった。
「これ、壱屋で飲んだのと同じかな」
呟いたさくらの肩を、
「あんた大したもんだ。酒を飲み分けられるなんて、長年修行積んだうちの杜氏たちが腰抜かすよ」
バシン、思い切り叩く。
「舌が間違っているのかと思ったよ」
「とんでもない。あんたの舌は正確そのものさ」
「この酒は、特別鼻から抜ける香りがいいんだ。だから覚えていたんですよ」
安心ついでに、もう一杯酒を注ぐ。杯を老人へ差し出した。
「飲みますか。傷が痛むかもしれませんけど」
恐らく同類であろう彼は、さくらの気遣いを鼻息で吹き飛ばす。
「これくらいの量なら、痛み消しにちょうどいいさ」
そうして、杯を一気に干した。
酒談議に花を咲かす三人の輪から外れたところで、明は盛大に溜め息をついている。
さくらの体を気遣えば、もう二、三日は酒断ちをさせるつもりだったのだ。まさか、造り酒屋で引っ掛かろうとは思いもしなかった。明にはどうしても酒の美味しさが分からない。子供の舌には、強すぎる刺激だった。
ふて腐れた明を取り残して、さくらと老人は杯を重ねる。女将も愛想よく酒を注いでくれた。
「この酒は、ちょっと他の店とは違うようですね。この店独特の造り方でもあるんですか」
肴を適当に摘みつつ、さくらが尋ねた。
「まあ、いろいろ工夫はしてるよ。上方の酒に負けちゃ商売にならないからね」
「私はあちらの酒より、この酒のほうが美味いと思うけど」
「お世辞が上手いね。でも、そう言ってもらえて嬉しいよ。壱屋の主人もそう言ってくれてね。ずっとうちの酒を使ってくれてるんだ」
「壱屋とは付き合いが長いんですか」
「そうさね。清次さんが永代橋の脇で夜店やってた時分からだから、もう十年以上にはなるだろうね」
「壱屋のご主人、ずっとこちらで店を構えていたんじゃないんですか」
「清次たち親子は、越してきてあの店を構えたのさ。俺はこっちに店ができた頃からの馴染みでな。あそこはいい。いつ行っても温かくってな」
顔を赤くした老人が教えてくれる。
「清次さん、いい男だろう。おみつさんは器量よしだし、あの夫婦は文句の付けようがないね」
「こちらには、壱屋のおかみさんも顔を出すんですか」
「ああ。……実はね─―」
そこで、女将は声を潜めた。どこか人目を憚るように身を縮める。
「――うちの店、前は佐賀町にあったんだよ」
佐賀町は永代橋の袂だ。清次の夜店があった場所とも言える。
「ああ、それで清次さん夫婦とも顔見知りなんですね。でも、なんでそんな声を潜めるんです?」
さくらも身を屈めた。なかなか腰が痛い体勢だが、女将の声が低いせいで、こうでもしないと聞き取れないのだ。
「いえねえ、三年くらい前だったか。蛤町で押し込みがあったろ?」
「…… ええ。鬼蜘蛛一味の仕業だとか」
名を口にした途端、苦いものが胸の内に広がる。さくらは表情を曇らせた。
「それ聞いて、うちの主人がびびっちまってさ。その頃も、まあ大きな店だったから不安だったんだろうね。奴らの目に付いたに決まってる。奴らが戻って来る前に、店を移すって言うんだよ。前から千住にあった酒蔵はそのままで、店だけこっちに移したんだ。まあ、目をつけられたんならどこへ逃げても一緒だけど、盗賊に尻尾巻いて逃げ出したなんて言われたら、あたしゃ恥ずかしくて外歩けないって思ったね」
「それで、両国に来たんですか」
「ああ。……でもね、今となっちゃ主人の言葉に従ってよかったと思ってるんだ。あの人臆病だけど、あの時は本気で家族や奉公人のことを心配していたと思うし。知ってるかい。三年前襲われた呉服問屋の子供が連れ去られたって」
「引き込み役として、使うためだとか」
視線を落とす。膝頭の上で、拳が震えていた。
女将も悲痛な面持ちで姿勢を正す。銚子を傾けてさくらの杯を満たした。
「うちにも子供がいてね。その子が盗賊の手先に利用されるなんて、考えただけで辛いよ。連れて行かれたのは、まだ七つと生まれて一年しか経ってない幼子だっていうじゃないか。親御さんはどんなにか無念だったろうさ。自分の半身をもぎ取られるようだったと思うよ」
「生きてたら十と四つか。今頃どうしてるんだか」
老人が顔をくしゃくしゃに歪めて呟く。
杯を口に運ぼうとしたさくらの手が、不意に止まった。
十と四つ。
その数には聞き覚えがあった。
「お爺さん、確かおカヨは十になったばかりでしたね」
半ば呆然と問うたさくらに、老人は「ああ」と頷いた。
「女将さんは、その呉服問屋の家族とは顔見知りじゃないんですね」
「ええ。知らないよ」
「清次さんのところに子供が生まれた時、見に行きました?」
「いいや。あたしゃ、あそこに子供がいるって、こっちに来るまで知らなかったから――」
ダン――ッ。
音を立てて、さくらが立ち上がる。杯が酒を撒き散らして床に散った。
「さくら様?」
明が驚いて見上げると、そこに思いつめたさくらがいた。ピリピリとした空気が、彼女の周りを包み込んでいる。
「――明、行こう」
それだけ言い残すと、さっさと土間へ向かった。女将と老人が目をパチクリさせる。
「あ、待って」
明は残る二人に丁寧においとますると、急いで後を追った。
空の紫は濃くなり、東のほうには星が瞬いていた。往来を歩く者の中には、堤燈を持つ者もいる。
さくらは、その黒く染まりつつある道を壱屋へ向けて足早に歩いた。
「――明……明。そうなんだろうか。本当に、そうなんだろうか――」
取り憑かれたように呟くさくらを、何がなんだか分からない明は心配そうに見つめる他ない。
やがて壱屋が見えた。灯りはない。二人が店を後にした時と同様、暖簾も出ていなかった。
障子に手をかける。手がわずかに震えた。
覚悟を決めて、開ける。
清次がひとり、座っていた。頭を垂れて泣き崩れている姿にも見える。
「聞きたいことが、できた」
後ろ手に障子を閉めた。薄闇が店を支配する。
さくらはそのまま、清次の前まで歩を進めた。背が迫りつつある闇に同化する。
「なんでしょう」
清次が、ゆるりと顔を上げた。そこに愛想のよさはない。泣き腫らした目だけで、ぼんやりとさくらの姿を認識していた。
その空虚な目を真っ直ぐに捕らえて、彼女は言葉を次いだ。
「おカヨは、貴方たち夫婦の本当の娘なのか」
一瞬、雷に打たれたように清次の体が弾ける。明がビクリと身を縮めた。
「三峰様――」
両手を握り締める。見返す目に、動揺の色がはっきりと生まれた。
さくらの内に生じた疑念が、確信へと変わる。
「おカヨは、三年前に襲われた、蛤町の染広屋の娘だね」
「それは――」
違う――。
そう言いたかったはずだ。
だが、否定をしたところで守るべき者はいない。それに思い至った清次は、がくりと肩を落とした。深く、腹の底から息を吐き出す。
「……確かに、あの子は本当の娘ではありません」
明が唾を飲む。その音が聞こえそうなほどに、店の中は静まりかえっていた。障子戸一枚隔てた外の喧騒も、今はただ通り過ぎるだけになっている。
さくらが、清次の向かいに腰を下ろした。
「永代橋の袂に、店を出していたそうだね」
「はい……小さな店でした」
「おカヨは――あの子は、どうしてご主人の所へ」
彼は緩やかに首を振る。悲しげな微笑が浮かんだ。
「たぶん、必死に逃げてきた目に灯りが見えたのでしょう。皿を洗い終えて屋台に戻ってみると、あの子が屋台の下に蹲っていました」
客足も細くなり、今日はもう店を閉めようかと思っていた矢先のことだったという。
洗い物を終えた清次は、屋台の隅に蹲る影に、息を止めた。堤燈の灯りの下にぼんやりと浮かび上がる、白い寝巻き。妖か河童かと、ビクビクしながら目を凝らして、それが子供の背中だとようやく気が付く。
全身で息をしながら震えている。唇から漏れる声は、はっきりとした言葉にならない。耳を塞ぎ、見開いた目で地面ばかりを凝視していた。
裸足の足。黒くこびり付いているのは、血――。
「あの時の姿が、今でも夢に出てくるんです」
悪夢だった。
体に触れるとすっかり冷えていて、焦点の定まらない目でぎょろりと辺りを見回す。ガチガチ震える歯。それが寒さからのものなのか怯えのためなのか、この時の清次には分からなかった。
「翌朝には、すぐに分かったでしょう。あの子が、染広屋からいなくなった娘だと」
「……はい。あの界隈は大騒ぎでしたから」
「では、なぜ役人に届け出なかったんだ。消えた子供たちを捜して、懸命に探索していたのに」
「あの子が――すべてを忘れていたからですよ」
初めて、さくらの目を強く見返した。
激しい情動が浮かぶ。抑えきれない想いが、強くそこに宿っていた。
わずか七つの少女が見たもの。
血の海に沈む、地獄の淵だったのかもしれない。それは、さくらが見た惨状よりも遥かに惨いものだったろう。悲鳴も断末魔も、幻聴ではないのだ。
生暖かい血の臭い。気が遠くなりかけながら、少女は走った。何度も躓いて、転んで、それでも悲鳴が追ってきているようで、ただ、がむしゃらに走った。
そうして辿り着いたのが、清次の灯りだった。
「役人に引き渡して親の死を直視させるよりも、このまま忘れたほうがいいと思いました。あの子がすべてを思い出しても、死んだ人はもうどうにもならない。そればかりか、あの子が生きていると押し込み一味に知れたら、今度はあの子の身が危険に晒される……。だから、自分たちの子供として、育てることにしたんです」
「そうして、両国に店を移した。こちらだったら、あの子の顔を見知った者がいないと思ったのでしょう」
「なんでもお見通しなのですね」
顔を歪めて小さく笑う。深く刻まれた皴に、涙の跡が見えた。
こんなに年老いた印象だったろうか。
忙しく立ち働いていた清次は、もっとずっと若々しく見えた。生き生きとした表情と笑顔を絶やさない人柄で、店を繁盛させていた。それが、今は背を丸め、何か得体の知れないものから自身を守るように身を縮めている。
その恐怖心が伝わってきて、さくらは知らぬ内に清次から目を逸らしていた。
「あの子は、自分が貴方たちの娘じゃないって、知ってるの?」
「……いいえ」
「七つまでの記憶がないことを、不思議に思わなかったのか」
「屋根から落ちて、頭を打ったのだと言ってあります。ですから、あの子も、本当の親子だと思っているんです」
そうだ。清次も妻のおみつも、カヨを本当の娘として可愛がっている。
今回のかどわかしがなければ、誰に知られることなく、親子として過ごせたに違いない。偽りもつき通せば真になる。
確かに、清次たちのしたことは褒められたことではない。だが、打算や謀など微塵も考えになかった。あったのは、傷付いた子供を守ろうという、一途な想いだけだ。
あの子を愛おしむ心が、慣れ親しんだ店や住まいを離れ、知り合いもいない土地に越すことをよしとした。
そんなこと、本当の親でなければできないことだ。
さくらは、静かに立ち上がった。
「おカヨは必ず見つける。――貴方たちの元へ、返してあげるよ」
言い置いて踵を返す。清次たち夫婦の愛情の深さ考えると、それが一番いいのだと、心から思えた。
「三峰様――」
清次が立ち上がる。腰掛が音を立てて倒れた。
「どうか……どうか――」
さくらの背に頭を下げた。
戸を開けると、外はすっかりと闇に覆われていた。