八
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鬼蜘蛛一味の手掛りを掴んだという報せもないまま、四日が過ぎていた。
町方連中の連日連夜の探索も徒労に終わるのではないかと、皆口々に噂し始める。中には口汚く罵る者までいる始末で、町方同心などはそれと知れないように、編み笠を被って探索に当たっているとか、いないとか。
「── んなことあるわけねえだろ。阿呆が」
昼間から甘酒片手に絡むのは、香上である。
ちなみに、彼は編み笠など被らず大っぴらに仏頂面を晒していた。
どうして馴染みの甘味処にいるのかと、向かいに座すさくらは頬杖の間から何度目かの溜め息を漏らした。
稽古の間の一服に来てみれば、背の高い厳つい黒羽織が店の奥に陣取っていたのだ。思わず踵を返そうとしたが、
「よ、奇遇だな」
などと声を掛けられたら、知らぬ振りをして逃げるわけにもいかない。
渋々腰を降ろした彼女を前にして、出るは出るは、日頃の鬱憤が。
「必ず一味は捕らえてやるさ。見てろよ、そん時は市中引き廻して『能無し』と呼ばわった奴にぎゃふんと言わせてやる」
それも甘酒で絡まれるのだから、聞いてるほうは堪ったもんじゃない。
汁粉を突付きながら、さくらはげんなりした顔を作った。
「なら、こんな所で油売ってないで、さっさと探索に行けばいいじゃないですか」
「フン。言われなくてもそうするさ。だがなあ、鬼蜘蛛ばかりにもかまっていられないのさ」
ぐいっと湯呑みを飲み干す。甘いものを飲んだはずが、こちらに向けた顔は苦々しい。
「かどわかし、さ」
コトリ。
湯呑みを置く。混ぜ棒が縁を滑って、板床へ落ちた。
汁粉の椀を口に運んでいたさくらが、その手を止める。
「かどわかし? いったい、どこで」
「ここ、日本橋平松町だ」
薄い茶を、甘ったるくなった喉へ流し込んだ。
「この裏の古着商、井筒屋。四つになる一太って倅の姿が、昨夜から見えない。家の者も近所の者も誰も姿を見ちゃいない。またひとり、ガキが消えやがった」
「八丁堀の目と鼻の先……」
「厭味な奴だねえ」
「旦那よりはマシですよ。でも、かどわかしが、そうそうあるものでしょうか。自分から出て行ったってことはないんですか」
「そいつはないな。木戸番も子供の姿なんか見ちゃいねえし、何より四つのガキが家出でもなかろう」
「じゃあ、一体誰が何の目的で?」
「それを調べてるんだ。鬼蜘蛛の行方も捜さなきゃならねえっていうのに。まったく、どこのどいつだっ」
渋い面で、もう一杯甘酒を頼んだ。
「こんなむしゃくしゃする時は酒に限るんだが、生憎、昼間から酒を飲むわけにゃいかないんでな。甘酒で自分をごまかしてんのさ」
「そんな甘いもので、ごまかせるんですか」
「そう思い込むことにしている。それに甘味処ってやつは、世の憂さを忘れさせてくれそうでな。――いいだろ。俺がどこで和もうと」
「そりゃかまいませんが。ひとつ聞きますけど……ここ、馴染みなんですか」
「いや、今日が初めてだ」
内心ほっと息をついて、さくらは汁粉を飲んだ。馴染みだったら、またいつ顔を合わせるか分かったものでない。会う度に憂さ晴らしをされたんでは、こちらが滅入ってしまう。
「いなくなったのは、飯屋の娘に次いで二人目だ。どっちも迷子って様子じゃねえし、手掛かりもない」
「二人にはなんの繋がりもないように思えますけど」
「繋がりなんて、端っからないのかもしれない。目に付いたガキを、手当たりしだいに攫って行ってんのかもな」
「それじゃあ、どう頑張ってみたって下手人の目星が付かないじゃないですか」
「かどわかしがどうでもいいとは言わねえが、せめて鬼蜘蛛がお縄になってから出て欲しかったな」
不穏当な言葉だとは思ったが、あえて聞かなかったふりを決め込む。厭味を言ったところで、倍以上の愚痴が返ってくるのがオチだ。
「人手が足りゃしない。夜通し走らされて、皆、限界だ」
「お疲れ様で」
言われて見れば、彼の目の下には隈ができていた。土埃に汚れた羽織も、どこかクタクタとしていて張りがない。走り回っているのは本当らしい。
甘いものがほしくなる気持ちも分かる。
「ところで、お前。あの娘は見つかったのかい」
「あの娘?」
「あの夜見たっていう、幻の」
「幻じゃないって」
口をヘの字に曲げた。馬鹿にされているようで、いい気分ではない。椀の中の小さな餅を口の中へ放った。
「その様子じゃ、まだ見つかっていないようだな」
「…… うっさい」
モチモチした触感を、甘い汁で喉に流す。椀が空になり、茶を啜ってようやく一息ついた。
「あれ以来、気を付けて見てはいるんです。辰巳屋の辺りを歩き回ってみたり、あの晩と同じ刻限に永代橋を通ったりもしました」
「それでも見つからねえのか。お前も暇だね。幻覚を捜すなんて、どだい無理な話だ。そろそろ諦めちまいな」
「あの子は確かにいた。私がこの目で見たんだから、確かなことです」
「まあ、そいつはお前しか見ちゃいないわけだし。お前が捜したいって言うなら、止めねえよ。──そのついでと言っちゃなんだが」
香上が、ぐいっと顔を近づける。張りがある地声を、ぐっと落とした。
「かどわかしの件、気に留めておいてくれ」
さくらの眉がわずかに上がる。
「それは、私に旦那の手下になってかどわかしの件を調べろ、ということでしょうか」
「そう言っちゃ、元も子もない」
さも面白い小噺を聞いたふうに、彼はからからと笑った。
「さっきも言っただろ。こっちも手が足りねえんだ。二兎を追うものは一兎をも得ず。俺は鬼蜘蛛、お前はかどわかし」
「どんな理屈ですか、それは」
盛大に溜め息をついてやった。
――体よくこき使おうって魂胆が見え見えだ。
さくらが捜す少女の件は、どうでもいいに違いない。ただ、自分の持ち駒を増やしたいだけなのだ。勝手な言い草に、呆れるほかない。
「お断りしますよ、旦那。私には、稽古がありますから」
立ち上がりかけたさくらを、「まあ、待ちな」と引き止める。
「お前が捜している、朱色の着物の娘。かどわかしにあったみたいに、いなくなったんだろう」
「ええ……まあ」
「歳は五つか六つだそうだな。飯屋のおカヨは十。一太は四つだ。年頃も近い。何か繋がりがあるとは思わねえかい」
「さっきは幻だと言っていたのに」
「まあいいじゃねえか。これで大っぴらに稽古放って、人捜しができるんだぜ」
確かに、時間はいくらでもほしいところ。
あの娘に会って聞きたいことがある。彼女がどこの誰で、なぜ、辰巳屋の惨状を知っていたのか。そしてなぜ消えてしまったのか。
あの娘にしか問いただせない。それが疑問として残っている限り、辰巳屋の残像を拭い去ることができなかった。
「かどわかしを調べたら、何か分かるかもしれないってことだ。闇雲に捜し回るより、ずっといい手だと思うがな」
香上が立ち上がり、懐から銭を取り出した。無造作に落ちた銭が、硬い音を立てる。
「貸しとくよ」
両手を懐に収めると、颯爽とした足取りで店を出た。先程まで見せていた疲れなど微塵も感じさせないその足取りは、さすがだと思う。
視線を卓上に移す。
甘酒と、汁粉の代金が転がっていた。
「仕方ない。貸されとくか」
借りは返さなくてはならない。
その借りが汁粉分とは、なんとも安いもんだなと、さくらはひとり呟いた。
店を出てさくらが向かった先は、古着商の井筒屋である。香上が言っていた通り甘味処の裏を行くと、その目印はあった。
塀の先に長い竿を刺し、先に着物を下げている。近づいてよくよく見ると、着物の背に井筒屋と屋号が書かれていた。この店で間違いないようだ。
しかし、店の戸は固く閉ざされている。
「さてと、どうするかな」
このまま帰るには惜しいし、かと言ってずかずか入り込むのも気が引ける。思案していた彼女の耳に、賑やかな太鼓の音が聞こえてきた。
デン、テ、トン。
飴売りが、でんでん太鼓を鳴らしながらこちらへ歩いて来る。
―― こいつはいい。
にやりと笑って、さくらは飴売りを呼び止めた。
「はいよっ」
陽気な動作で、飴売りが駆け寄る。
「おじさん、いつもこの辺で飴を売ってるの?」
せいぜい可愛子ぶってみせた。脇差を道場に置いてきたのは、図らずしも正解だったらしい。もっともこんなところを同門の者にでも見られたら、師範代の威厳形無しである。
「そうだよ。この界隈はおいらの縄張りさ」
機嫌良く答えてくれる。子供の無邪気な問いと思ってくれれば、それに越したことはない。
さくらは飴を一袋買うと、それを手にしたまま、井筒屋を指した。
「あのお店の一太ちゃんも、おじさんの飴買ってく?」
「ああ。ここを通るたびに、駆け出して来てな。『おじさん、飴ちょうだい』って」
そう言えば、今日は出て来ないなあと、井筒屋を見やった。一太がいなくなったという話は、まだ広まっていないらしい。
「一太ちゃん、ひとりで買いに出てくるの? お家の人は?」
「さあねえ。金持たせて中で待ってんのか、かまってやれないのか。とにかく買いに出て来るのは、いつも子供ひとりさ。親の姿なんか見たことねえ」
――いつも子供ひとりで、か。
生憎さくらは、幼少の頃は稽古稽古で、飴など買ってもらったことがない。それでも、親が子に飴を買い与えている姿はよく見掛けた。見ていると知らず顔が緩む、和やかな光景だ。
近くで遊んでいた子供達が、太鼓の音に集まって来る。そうして五、六人ほど集まると、飴屋は一本の丸棒を取り出した。棒状にした飴だった。
「さあて、何が出てくるかな?」
太鼓を包丁に持ち替え、首から提げた箱をテン、テンと叩く。子供達はきらきらした目で、「金太郎!」や「お多福!」と口々に叫んだ。
テンテンテン。飴を切りながら、調子を取る。小さく丸い切り口から、歪な顔が次から次へと現れる。
「飴の中から金太郎が出たよ」
飴屋の呼び声に、歓声が上がった。
――おもしろいもんだね。
子供達と一緒になってじっくり見入っていた自分に苦笑して、さくらは踵を返した。
さて次はと見回した目に、蕎麦屋が飛び込んでくる。井筒屋の斜向かいだ。ちょうど小腹が空く刻限で、中は結構な繁盛っぷりだ。手近に空いた席を見つけると、そそくさと腰かけた。汁粉を飲んだばかりなので腹は空いていないが、とりあえず、蕎麦を頼む。蕎麦くらいならなんとか腹に入るだろう。
本来ならば酒と蕎麦掻でも頼みたいところだ。後で道場に寄らねばならない身としては、酒のにおいをさせて行くのは憚られる。仕様がない。
来た蕎麦を、なるべく時をかけて食べた。
奥では、ここの主らしき親爺が蕎麦をうっていた。長年の慣れた手付きで、粉をしだいに丸い一塊にしていく。麺棒で延ばす調子も見ていて飽きない。力を入れ過ぎず、滑るような棒の動きだ。
店のほうを切り盛りしているのは、どうやらおかみひとりらしい。
蕎麦を食べ終え、ついでに蕎麦湯も腹に収めた頃には、ようやく店も落ち着いていた。客は、さくらを含め三人しかいない。
「おかみさん」
井筒屋について尋ねると、「ああ、ああ」と愛想のいい笑みを浮かべて、向かいに腰を下ろした。
「うちはここに店開いて長いですから、井筒屋さんのことも大抵は分かりますよ」
「そりゃ、助かる。あそこに、四つになる一太って倅がいるでしょう」
「そうそう、いっちゃん。よく顔見せてくれたけど。あの子、昨晩からいなくなっちまってねえ。うちにも爺さんが捜しに来たよ。本当に、どこへ行ったのか……。迷子ならまだ捜しようもあるが、人攫いにあったんじゃ、もう無理かねえ」
「諦めるのは、まだ早い。一太を無事に見付けようと、役人も動いているんだから」
その役人があの狸野郎なのが、どうにも引っかかるところだが。
そこら辺はもごもごとお茶を濁して、
「それより、さっき爺さんって言ってたけど」
「ええ、井筒屋さんの」
「あの家には、一太の親と爺さん、一太の四人が暮らしているのかい」
「いいえ。いっちゃんと爺さんの二人暮らしですよ。一太の親はいないんです」
「へえ」
ずず。温くなった茶を啜る。
話し好きらしいおかみは、ここだけの話だと、声を潜めた。
「いっちゃんは井筒屋の一人娘の、おふきさんの子でね。父親が誰か、分からない子なんだよ」
「分からないって?」
「おふきさん、一時家出していてさ。一年して帰って来た時には、もういっちゃんを抱いてたんだ。爺さん、そりゃすごい剣幕で怒ったよ。『どこの男のガキだ』って。でも、なんと言われても、おふきさんは男の名を言わなかった。言ったら相手の迷惑になると思ったのかねえ。そういう子だったから。健気じゃないか」
「それで、おふきさんと一太と、爺さんの三人で暮らし始めたんだね」
「ああ。三年前からね。頑固者の爺さんだけど、乳飲み子抱いた娘を放り出すなんてできなかったんだよ。ま、でも子供好きの爺さんじゃないから、渋々だったんじゃないかねえ」
「馬鹿言え」
奥から急須を持ってきた亭主が、おかみを嗜める。さくらの湯呑みに熱い茶を注いだ。
「どこに、自分の孫が可愛くない奴がいるってんだ。爺さん、いつも仏頂面で態度にゃ出さないが、一太のことをそりゃ可愛く思ってたさ」
「だって、いつも睨むようにいっちゃんを見てるじゃないか。自分は仕事だからって、いっちゃんをひとりにしてさ」
「だからお前は馬鹿だって言うんだ。男親の気持ちが全然分かってねえ。ありゃ、娘が帰って来て、建前で臍曲げてたのが染み付いちまってるのさ」
「そんなもんかね」
「そんなもんさ」
得心いかない様子のおかみに呆れて、亭主は奥へ戻って行った。
「ごめんなさいよ。うちの人、何も分かってないくせに、いろいろ口出しするんだ」
苦笑するおかみの言葉が、ほんの少し自慢げに響くのは気のせいではないだろう。仕方がないと思いつつ、そこもまた好いたところなのだ。
「さっき井筒屋は爺さんと一太の二人暮しって言ってたけど、おふきさんはどうしているの?」
「……ああ」
一瞬、眉間に皺を寄せて、視線を湯呑みに転じた。
「おふきさん、去年の流行病で、ね。あっけないもんさ。体が弱っていたのかもしれないねえ」
「それで、一太は爺さんと二人で暮らすことに……」
「でも、爺さんは日中店にいるからね。いっちゃん、ひとりで大人しく遊んでいたよ。ここに蕎麦を食べに来ることもあったけど、爺さんいつもの顰めっ面でさあ。あれじゃ、孫は懐かないよ」
「でも、一太がいなくなって捜しに来た時は、心配した様子だったんでしょう」
「もちろんさ。あんな顔、あたしゃついぞ見たことないね。顔色なんて真っ青でさ、『神隠しだ。一太が神隠しにあっちまった』って」
「神隠し……」
「なんでも、庭にいたはずのいっちゃんが、ちょっと目を離した隙に消えたっていうんだから」
――まただ。
内心、さくらは思い出していた。
浅草の壱屋で会った老人も「まるで神隠しみたい」だと言っていた。
そして、辰巳屋から神隠しのように忽然と消えた少女。
―― なんだ? この一致は。
本当に神隠しがあったとでも言うのか。
まさか――。
頭に浮かんだ愚考を一蹴する。
いくら子供だからといって、容易に消したりできるものではない。回が重なれば、何者かの意図が働いているのは目に見えている。
それが誰で、何が狙いなのか、今は見当もつかない。
―― なるほど。こいつは厄介だ。
香上が手をやくのも、分かる気がする。
湯呑みを空にし勘定を済ます。少しだけ多いその銭を、おかみはにこやかに受け取った。
「ところでさ」
暖簾を潜ろうとしたさくらの背に、呼び掛けた。
「あんた、どこのどなた様?」
長屋に戻ると、ちょうど明が総の家から出てきたところだった。さくらを認めて走り寄る。
「お帰りなさい、さくら様」
「ただいま。明は今、稽古が終わったの?」
「うん」
「そうだ。いいものがある」
懐から飴の袋を取り出した。
「これ、あげるよ。食べきれないんでね」
「飴? こんなにたくさんどうしたの」
「ま、いろいろ教えてもらったし、これくらいは買っとかないと……」
「教えてもらうって、さくら様、飴売りにでもなるつもり?」
突拍子もない発想に、さくらが声を立てて笑う。
「違うよ。ちょっと人捜しをね」
「それって、女の人?」
「いや、今日は男の子。明日は女の子かな」
「ふうん」
明が思わせぶりに目を細めた。
しまったと思ったが、もう遅い。
「じゃあ、アタシも一緒に捜してあげる」
「いや、それは駄目だよ。たくさん歩くし、いつ見つかるかも知れない──」
「あら、じゃあなおさら一緒に行かなくちゃ。ひとりより二人よ、さくら様」
「駄目だったら。絶対について来ちゃ駄目だよっ」
駄目と言われると、したくなるのが人の性。そのことを、さくらは失念していたのだった。
翌日。
そろりと長屋を出ようとしたさくらは、戸を開けた瞬間に溜め息をついた。
「おはようございます、さくら様」
身支度を整えた明が、にこりと笑っている。
「まさか、本当について来る気じゃあ……」
「当然でしょう。さくら様のお供をアタシ以外の誰がやるっていうの」
「遊びじゃないんだけどな」
もうひとつ、諦めの大きな息をついた。
明を途中でまくわけにもいかない。楽しげに歩く少女に呆れた表情を見せながらも、さくらは彼女と並んで歩いた。
朝に多く浮いていた雲は、時たま強く吹く春風に流されていく。雲雀の伸びやかな声。虫を追って、雀も空に飛び立つ。日差しも暖かく、ぶらぶら歩くにはちょうどいいのだが。
――監視付きとはね。
苦笑顔のさくらと、それでも嬉しそうな明。
二人が壱屋の縄暖簾を潜った時は、昼をだいぶ過ぎていた。ちょうど客がひく頃合だったらしく、中に客の姿はない。
「いらっしゃい」
人の気配に奥から顔を出した主人が、二人の顔を見て一瞬、息をのんだ。
「また来たよ」
あえて軽い調子で言う。明もにこりと会釈した。
「これは、三峰様。いらっしゃいませ」
さすが商売人と言うべきか。すぐに愛想のいい飯屋の主人の顔に戻る。二人に奥の座敷を勧め、茶を持ってきた。
「それとも、お酒のほうが宜しいですか」
さくらに対して、軽口を聞く余裕まであった。
「それじゃ──」
と、答えた彼女の言葉尻を、
「ご飯二つにして下さい」
明の言葉が遮る。
主人が微笑して下がった後で、さくらが顔を寄せた。
「ひどいよ、明」
「ご飯はちゃんと食べなきゃいけません。毎日お酒ばっかり飲んで。体壊しちゃうでしょう」
「酒は私の唯一の楽しみなんだよ」
「でも今日は駄目です。歩き疲れてるんだし、体に毒です」
しっかり子供扱いだ。
「仕方がないなあ」
本日、何度目か苦笑を漏らし、主人が持ってきた膳をありがたくいただくことにした。
飯と味噌汁、魚の味噌煮に菜っ葉のおひたし。匂いを嗅いだだけで腹の虫が鳴いた。朝食も取らずに出てきた身には、やはり温かい飯は嬉しい。なるほど、空きっ腹は酒よりもこちらを望んでいたようだ。少し辛めの味付けだが、それがまた飯に合う。
「美味しいね」
向かいの明に笑いかけた。
「でしょう。前にここのお蕎麦を食べた時、すごく美味しかったもの。だから他の料理も、きっと美味しいと思ったのよ」
「酒も美味かったよ」
「お酒の話は忘れてっ」
そうしてじゃれ合いつつ膳を空にした二人の様子に、微笑を湛えて主人が出て来た。二つの湯呑みに茶のお代わりを注ぐ。
「美味しかったです」
明の無邪気な顔に、「ありがとうございます」と会釈を返す。
さくらのほうへ顔を向けた。
「家内がおりませんので、簡単な物でお恥ずかしいのですが」
「いや、本当に美味しかったよ。おかみさん、まだ寝込んでるの?」
「…… はい」
静かに、頷いた。
「そうか」
さくらは微かに眉を顰める。視線を逸らした。ほんのり爽やかな茶の湯気が、鼻先を掠めていく。
話を切り出そうとすると、胸を締め付ける感覚が襲った。残された者の気持ちが分かりすぎる。いつも傍にいた者がいなくなる寂しさを、いやというほど、彼女は知っている。
どれほど会いたいのかも、知っている。
「私は今、消えた子供たちを捜しているんだよ」
主人の顔を見上げて、言った。
外を、鋳掛け屋が威勢のいい掛け声と共に駆けて行く。女達の笑い声が過ぎる。土埃のにおいを、風が運ぶ。
「かどわかしにあったのは、ここの娘だけじゃない。一昨日の夜には、日本橋でも子供がかどわかされた。いなくなったのは二人とも子供で、どちらも自分の意思で消えた様子はない。周りの者が目を離した隙に、忽然といなくなったらしい。……まるで神隠しみたいに」
「── 神隠し」
「そう。孫をかどわかされた爺さんが言ってたそうだよ。ここで会った老人も、そう言っていた」
主人は急須を置くと、入り口に向かった。暖簾を外し、障子を締め切ってしまう。外の喧騒が薄れた。
「あの子が……カヨが、黙って家を出るわけがないのです。あの子は親に心配をかけまいとする、優しい子なのですから」
知らず、暖簾を握り締める。縄が軋んだ。
「……神隠し。そう思ったほうが、いいのかもしれません」
目を赤くして振り向いた主を見て、さくらは目を細めた。
その顔に、あるかなしかの笑みがあったからだ。
「どうして……」
「神の手に導かれ、どこかで元気に暮らしている ――そう思ったほうが、救いになるではありませんか」
思わず明が息をのんだ。彼は、最悪な事態を考えている。
娘を連れ去りながらなんの要求もないということは、子供はすでに売られたか、──殺されたか。
それを思うより、神の御意思によって消えたとするほうが、遥かに心が楽になる。どんなに有り得ないことでも、心が安定するならば思い込むことは容易い。
しかし、それを認めてしまえば、ただの人がどう頑張っても立ち向かえない。
「そうやって、諦めるのか」
険しい表情で、さくらは無言の主人を見返した。
「馬鹿を言うな。神は、親子を引き離すなんて非道な真似、しやしない」
兄がそうだったように、姿を消すとしたら本人の意思か、他人の意思かのどちらかだ。
本人の意思ならば捜すのを諦めることもできるが、今回の一件は子供達の意思とは到底考えられない。
幸いなことに、消えた子供の亡骸が見付かったという報せはなかった。
彼らはまだ生きている。どこかで、泣いているかもしれない。空を見上げて親の名を叫んでいるかもしれない。
そんな所から、一刻も早く助け出してあげたい。
「望みがある以上、私は諦めないよ」
静かに、だが厳しい声音で言う。
主人の顔が、ぐしゃりと歪んだ。覆った両手から嗚咽が漏れる。
明はその姿から目を逸らした。見やった彼女は、さくらの苦しそうな表情にまた視線を逸らした。