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「ちょっと、寄ってみるか」


 さくらがそう思い立ったのは、道場からの道すがら、一枚の讀賣を手にしたのがきっかけだった。


粗悪な薄い紙に刷られた、地獄絵図のような惨状。一昨日押し込みに入られた、あの辰巳屋の事が書かれていた。


 辰巳屋が面した道は比較的人通りが多い。川縁に着けた舟から、人足達が荷駄を運びあげている。荷が運ばれるのは辰巳屋の二軒隣の海産物問屋だ。


 普段通りの風景なのだろう。大店の娘が小僧を連れて小間物屋を冷やかす姿も、簪職人が路地先に品を広げる姿も。


 ただひとつ違うのは、辰巳屋が店を閉めていること。それだけだった。


 雨戸はすべて立てられ、竹棒で封鎖されている。内の調べはすでに終わっているらしい。表には、役人の姿も岡引の姿も見えなかった。


 あの夜と同じ場所に立つ。


 見上げる先に掲げられた大きな看板。美しく浮き出た木目は、もう何十年も店の者によって丁寧に磨き上げられてきた証。


 立派な店構えだからこそ、住む者がいない空しさは大きい。


 懐に押し込んでいた讀賣を広げて、わずかに眉を顰めた。


 目の当たりにした惨劇を、思い出さずにはいられなかった。こんな言葉や絵で表せるものではない。もっと陰湿で、息苦しいほど血の臭いが充満していた。その場にいるだけで、残る断末魔を聞いてしまいそうだった。


 目を閉じる。


 闇に交じって、死に逝く者達の顔が浮かんだ。


 奥歯を噛み締める。


「── 下手人は現場に戻るってやつかね」


 隣に立つ者が、からかう口調で言った。


 姿を見なくても分かる。顔を上げたさくらは、不機嫌そのものの顔を向けた。


「お勤め、ご苦労様です。旦那」


 さくらを辰巳屋殺しの下手人と疑った狸同心、香上だった。


「手下も連れず、おひとりでお散歩ですか」


 腹の虫が納まらず、ついつい厭味を口にする。


香上同心は口をヘの字に曲げた。


「言ってくれるじゃねえか」


「昨日のお返しですよ」


「なんでお前がここにいるんだ。俺の経験じゃあ、現場を目撃した奴は二度とその場所には寄り付かないもんなんだがな。特に女は、人死にがあった所なんて気味悪く思うもんだ」


「別に。通りかかっただけです」


「それが、気になったか」


 さくらが何気なく畳んだ讀賣を、同心は目聡く指差す。


「辰巳屋、皆殺し、鬼蜘蛛の修藏一味の仕業、か……まったく、派手に書きやがる」


「下手人が割れたんですね」


「奉公人から女子供まで皆殺し。金は根こそぎ奪う急ぎ働き。こんな非道な真似する奴は、あいつらしかいねえよ」


 苦々しく言下に吐き捨てた。


 鬼蜘蛛の修藏。


 京での修行の際にも、その名は耳に入ってきていた。悪逆無道な盗賊で、堺の大店などは腕のいい用心棒を雇い警戒しているという話だった。


 押し込まれた店もあった。辰巳屋と同じに、助かった者はない。


 目を付けられたら最後。蜘蛛の糸にかかった蝶と同じ運命を辿ることになる。


 そう恐れられていた奴らが、今度はすぐ近くで非道を行っていた。今もどこかに潜んでいて、次の獲物に狙いをつけているのかもしれない。


「四、五ヶ月前まで上方にいたが、ぷっつりと姿を消しやがった。用心していたところへ辰巳屋の押し込みだ。……あいつら、舞い戻ってきやがったんだ」


「もしかして、前にも江戸で押し入られた店が?」


「三年前か。ここから近い蛤町で呉服問屋の染広屋が襲われた。やっぱり、主人夫婦から奉公人まで皆殺し。ただ主人夫婦には三人子供がいたんだが、その子達だけが見付からなかった。どこかに隠れていたか、あるいは店の誰かが逃がしたかして生きているんじゃねえかと、必死に捜したんだがな。――二、三日して亡骸がひとつ、仏間の床下から見付かった。恐らく、死んでいる娘をまだ息があると勘違いした店のもんが、床下に隠したんだろうさ。可哀相に。まだ五つだったんだ。それから床板全部引っくり返して捜したが、あとの二人の姿はどこにもなかった。一味の者が連れ去った、っていうのが大方の意見でな」


「どうして子供を? 逃げるには足手まといになるでしょうに」


「大店に奉公に出すには、子供のほうが容易い。年端もいかない子をうまいこと仕込めりゃ、使いもんになる。……引き込み役としてな」


「そんな…… 子供を使うなんて」


「それが鬼蜘蛛一味の仕業だと知れた時には、もう奴らは上方に発った後だった」


「情けない……」


 心の中で呟いたつもりが、しっかり口に出ていた。


 ただでさえ人あたりがいい人相とは言えない香上の顔が、ますます凶悪な面構えになる。


「奴らは何も残さない。手下の人数も分からない相手を見つけるのがどんなに大変か。一遍自分で、江戸中走り回ってみな」


「でも、ひとりくらいは破目を外してボロを出す奴がいたでしょう。そいつから当たりをつければ──」


「そんな馬鹿な奴、初めっから鬼蜘蛛の一味じゃねえよ。奴らの掟は厳しい上に絶対だ。それを守らない奴は、消される。どんな訳があろうともな。だから上方も手をやいてたんだろうさ。今頃厄介払いができたって、喜んでるのかね」


 ケッと、唾を吐く。


「とにかく、早いとこ奴らをお縄にしないことには、辰巳屋の連中も浮かばれんだろうさ」


 香上が、静かに辰巳屋の看板を見上げた。遠くを見つめるその目に怒気が帯びる。自分達の縄張りで好き勝手にやられ、相当頭にきているらしい。いや、もしかしたら、自分の不甲斐なさに腹が立っているのかもしれない。


 拳に握った両手が、わずかに震えていた。


 厭味で人相もよくないが、そう悪い人間ではないとさくらは思う。


「旦那! 香上の旦那っ」


 背後から名を叫ぶ声がする。振り向くと、小さな橋の上で若い男がこちらへ手を振っていた。まだ岡引としての貫禄もないから、恐らくは手下の下っ端の下っ端。遣いっ走りだろう。


「おい、お前」


 呼ばれた香上が踵を返しかけ、不意に振り返った。


 にやりと笑んで、言う。


「酒はほどほどにしとけ。幻にいいように遊ばれてたんじゃ、剣客としての名が泣くんじゃないのか」


「五月蠅いっ」


 去って行く背中に、さくらは思い切り言葉をぶつけた。


 あの厭味は死んでも治るまい。狸野郎めと呟く。


 不愉快さに握り潰した讀賣が、何とも無様な音を立てた。






 さくらが辰巳屋を後にした、ちょうどその頃。


 午後の稽古のために、総は深川元町へ足を向けていた。


 芸者衆の中にも彼の弟子がいる。酒宴の席で琴を披露するものらしい。三味線や踊りなどは平凡でつまらない、酒席で琴など珍しいからと、総のところに稽古を頼みに来たのだ。


 芸者は昼も夜も忙しい。踊りに三味線、唄の稽古に、夜は遅くまでお座敷が入る。そんな合間にわざわざ平八長屋まで稽古に来るのは辛かろうと、こうやって総自らが深川に出向くこともざらにあった。


 始めは易しい曲から始める。それこそ弦を撫でていればいいような曲だ。たいていの者は弦の場所を覚えるのに苦労するが、それに慣れてしまえばじっくり譜面と睨めっこをしながら弾ける。他に難しいのは、弦を押す力加減くらいのもの。これはもう、体が覚えるまで押すしかない。左手人差し指と中指の皮が捲れ、硬くなって初めて安定した音が出る。中には、指が弦で切れてしまうのではないかと、本気で心配する者もいた。指が切れる云々は大袈裟にしても、指の肉が凹んでしまうことはままあった。


「わたしも、そうだったな」


 総は思い出していた。 


 琴を始めたのは、彼が二つになるかならないかの時だ。代々楽師をしていた屋敷には、いつも様々な楽器があった。琵琶や竜笛などは当たり前で、巷では見られないような珍しく高価な楽器もあった。


 そんな、楽器を玩具代わりに育った総が、本格的に琴を習い始めた。師は父だった。


 父の弾く琴の、なんと美しいことか。


 音につられて風が吹き、鳥が歌い、花弁が舞う。


 その音に、総の心も奪われてしまった。


 父について、懸命に弦を弾く。弦の位置を覚えると、次に弦を押すことを教わった。


 小さな指で弦を押す。意外に太い弦は、まだ柔らかい指皮で押すには硬すぎる。それでも父は、確かな音が出るまで何度も何度も繰り返し弦を押させた。しだいに指の肉が凹み、皮が剥け、新しい皮が張る。新しい皮は前のものより丈夫になるらしく、再生するたびに指の皮は硬くなっていった。


 楽師の子として生まれた以上、琴以外の楽器も弾けねばならない。六つにして、屋敷中にあった楽器はすべてを弾きこなすことができた。しかし、やはりもっとも上手としたのは琴を奏すことだった。


 万年橋へ差し掛かる。この辺りは、昼間でも人通りが少ない。それでもまだ、陽が高い内は散歩にもってこいの場所なのだが、夕方になると単に人寂しい薄気味悪い場所になってしまう。


 不意に立ち止まり、左手の親指で人差し指に触れた。


 硬い、瘡蓋のようになっている。今ではいくら思い切り弦を押したところで、痛むものではない。


 ―― もうずっと、弦を押し続けた指。心と同じに、痛みなど忘れてしまったか?


 この地へ辿り着くまでの長い時。


 幾多の琴を弾き、幾度弦を押しても、この指は何も感じはしなかった。痛みに慣れて、弦に触れる感覚さえ失い始めていた。


 その頃には、もう涙を流すことも忘れていた。


 夕刻が迫る。薄紫に染まり始めた空に、鴉が一羽二羽、黒い影を映して去って行く。


「──総弥そうや殿」


 久方ぶりに、そう呼ばれた。


 懐かしさに似た感覚を、左手で握り潰す。


 砂利道に長い影を落とし、男は立っていた。昨日、橋の上でこちらを見ていた様子と変わりなく、着崩れた胸元から白い肌が覗いている。


駄木だき……」


 総が喉の奥からようやく絞り出した声を、


「オレは、駄木なんて名じゃあない」


 駄木と呼ばれた青年は、心底、憎々しげに一蹴した。


「駄木なんて、勝手に付けやがって。オレには胡凪こなぎって名がある。総弥殿が呼んでくれた、この美しい名が」


 涼やかな目元を細めて、笑った。


 紅い唇が、ニタリ、三日月を描く。


「お久しぶり、雅平まさひら殿。雅平──総弥殿」


「何をしに、来たのですか」


 声がわずかに上擦った。震えを止めんと、両手を握り締める。


「何をしに、とはご挨拶だねえ。長い付き合いじゃないか。そんな邪険にしなくても──」


「わたしを、殺しに来たのですか」


 駄木の顔から不意に笑みが消えた。軽やかに歩を進める。


 冷たい指先が、総の頬に触れた。


「ああ、総弥殿は温かいんだねえ」


 口角がニィと上がった。指先が総の左目に触れる。


「あの堅物者の道場の師範って奴に、話してやればよかったのに。総弥殿の、昔をさ」


「貴方は……なんでもご存じなのですね」


「総弥殿のことなら、なんでもお見通しさ。だってオレの左目は――総弥殿の目なんだから。そんなことまで、忘れたの?」


「差し上げたのは、とうに昔のこと。それに、わたしが失ったのは左目の光だけ。貴方の左目自体は、わたしのものではないはず」


「光を失った目は、何も映さない。同じことじゃないか」


 総の顔に影が落ちた。


「オレにくれた左目。何も映さないこの目に映っているのは、オレだけでしょう?」


 冷えた指先。


 甘い息。


 赤い唇。


 上目遣いの瞳に映っているのは、漆黒の闇。


「何も聞かれないことを幸いに、安穏とした暮らしを手に入れたって、虚しいだけじゃない。総弥殿は気付いているんでしょう。黙していることは、相手の好意を裏切ることだって。だったら言っちまえばいいんだ――自分は最愛の人を死に追いやった、哀れな男だってさ」


 薄い嘲笑を浮かべる。


 総の顔から血の気が引いた。夕暮れの色が、駄木の唇を一層紅く染める。目を焼く色彩に、思わず顔を背けた。


「言えないの? あんなに快く受け入れてくれた人達なのに。そうやって、ずっと騙し続けるつもり?」


「騙し続けるつもりはありません」


「悟られそうになったら、逃げ出すんだろう? 今までもそうしてきたんだから」


「そうかも、しれません」


「まあ、オレにとっちゃ逃げたって一緒だけどねえ。どこまでも追いかけて行くことに、変わりはないもの」


 駄木は道端に生えている雑草を引っこ抜くと、それを回しては楽しそうに目を細めた。


「でもさあ、最初はびっくりしたよ。目え覚めたら、総弥殿はどっかに消えちゃってるんだもん。方々を探し回ったねえ。やっと探し当てたと思ったら、こんなところまで来ちまってた。まったく、ここは町中が五月蠅くて敵わないよ」


「ご苦労様と言えば宜しいですか」


「オレが寝てる間に、随分、図太くなったじゃないか」


 総を睨み上げる。容赦ない嗤笑が注がれる。


 それを正面から受け止める総もまた、自身を嘲笑う笑みを浮かべた。


「そうでしょうね。わたしはずっと、沢山のものを諦めてきたのですから。――駄木。なぜ、わたしの命を奪わないのですか。それが目的で、こんな所まで追ってきたのでしょう」


 総の言葉に、男は瞠目した。やがてフフと笑み崩れる。


 吐息に混じって、甘い匂いがした。どうも好きになれない。白粉の海に溺れたら、こんな匂いがしそうだ。


「そんなことより、聞いたよ。総弥殿が住む長屋に、女だてらに剣客なんてやってる酔狂人がいるそうだね」


「それが?」


「随分仲がいいって、ねえ。総弥殿をあの長屋に連れて来たのも、その女だっていうじゃないか。気に入った男を長屋に連れ込むのが、その女のやり方?」


「さくらさんは、なんの関係もないでしょう」


 思わず声を荒げる。


 駄木が片眉を上げた。


「そう、三峰さくらって女だよね」


 唇に冷笑が浮かぶ。


「そんなに大事なんだ? そのさくらって女。オレの名は呼んでくれないのに、その女の名は何の抵抗もなく呼ぶんだねえ」


「違──」


「いい? 総弥殿。貴方はオレの物だ。そうだよね? オレが貴方の所業を包み隠さず話したっていいんだよ。だけど、そんなことしたら総弥殿を追い詰める楽しみがなくなっちまう。貴方はオレ以外の誰にも心を許しちゃいけないし、できるわけもないんだ。さくらって女も、例えどんなに強かろうと、オレに敵うはずないんだから」


 持っていた雑草を、飽きた玩具を捨てるように川に投じた。


 男が手を伸ばす。


 慣れた手付きで、総の左目に触れた。


「この目に光が戻らない限り、あの盟約は有効だよ。ちゃんと、覚えておいてよね」


 薄闇に染まりつつある中で、紅い唇だけが鮮やかに映った。






「総さん、ちょっといい?」


 その夜。


 戸の外からそっと窺うように、おとなう声がした。


 声の主はさくらだ。


 総が応える前に、すでにひづきが戸に寄って鳴き声を上げていた。真っ白な飼い猫は、尾の先だけが墨に付けたように黒く、首に下げた小さな鈴がチリリと揺れる。


 ――さくらさんには甘えた声を出すんだから。


 呆れた溜め息をつき、総は戸を開けた。


「どうしたんですか」


 長屋の住人も、それぞれの部屋で寛いでいる時刻。泥溝板には、障子紙を透って漏れる弱い光が落ちていた。


 にゃあ。 


 ひづきがここぞとばかりにさくらの足元に擦り寄り、声を上げる。それを抱き上げて、彼女は笑った。


「一緒に、飲もう」


 言う手に、しっかり酒の徳利を携えている。総は思わず破顔した。


「つまみは沢庵しかありませんが」


「それで充分」


 右手にひづき、左手に徳利で、満面の笑みを作った。


 総が沢庵を用意している間に、さくらは三つの杯を酒で満す。ひとつをひづきの前に置いた。ちろりと舐めたひづきが、ぎゃっと声を上げ転げ回る。


 さくらが腹を抱えた。


「さくらさん、ひづきにお酒はダメですよ」


 沢庵の皿と水の入った椀を置きながら、総が嗜めるも、


「だって可哀想じゃない。ひとりだけ酒盛りできないなんて」


 悪びれずにやにや笑い、酒を口に運ぶ。


「ひづきは猫です。しかも、まだ子供なんですよ」


「分かってるよ。だから一杯だけ」


「ひづきが二日酔いで大変な事になったら、さくらさんに面倒を看てもらいますからね」


「はいはい。分かってるって」


 椀に鼻先を突っ込んで水を舐めるひづきが、なぁぁぁと切なげな声を漏らした。よほど舌に効いたらしい。


 だいたい、総から見たらさくら自身がまだ子供だ。それなのに、この上戸っぷりはなんとした事か。


 陽が暮れかかる頃から飲みだして、夜通し飲んでいても平気なさくらの飲み方は、並みではない。それもそのはずで、道場にいた時は侃斎の晩酌に毎晩付き合っていたそうだ。


 総が杯を持ち、酒を喉に流す。さくら好みのピリリとした辛口。冷で飲むにはちょうどいい。


 互いに手酌で空の杯を満たした。たまに沢庵の歯ざわりのいい音がする。


 酒に懲りたひづきは、さくらの膝の上で丸くなっていた。背中を撫でて貰って、至極ご機嫌である。


「何か、ありましたか」


 徳利に手を伸ばしながら、総が口を開いた。


 愛おしそうにひづきを撫でる彼女に、いつもの元気がない。そんな気がした。


 小さな灯りが隙間風に揺れる。


 ポリ、カリ。


 さくらが沢庵をひとつ齧り、杯を小さく揺らす。灯りがちらちらと歪に反射した。


「総さん。あの話、覚えてる?」


 顔を上げずに微笑んでいる。


「あの話?」


「永代橋には鬼が出る」


「ああ」


 総はちらり、ひづきを見る。


 我関せず。仔猫はごろごろと喉を鳴らす。


「総さん。あの時、鬼に会った?」


「さあ、どうでしたか」


 目を細めて、杯を傾けた。


「私は、会ったよ」


「白い着物を着た鬼ですか」


 ひづきが、ほんの少し体を硬くした。寒さに震えたと思ったさくらは、小さな猫を袖で包んだ。


「いや。朱色の着物だった」


「朱色? それはまた新手な。それで、どうしました。化かされましたか」


「それが、袖を引かれてね。押し込みに入られた、米問屋に連れて行かれたよ」


「……辰巳屋ですか」


 無言で頷く。


 平八長屋でも、辰巳屋が押し込まれた話でもちきりだった。讀賣や人の噂で又聞きする者がほとんどだが、さくらがそれを発見した張本人だと知る者はいない。


 総も侃斎にそのことを聞いていなければ、到底、信じなかったろう。


「よく、ご無事でしたね」


「まあ、私が駆けつけたのは賊が引き上げた後だったから」


「しかしそこにたどり着く間に、逃げる途中の賊に出会っていたかもしれない。本当に、危ないところだったと思いますよ」


「そうだね。夜も更けていたし」


「また飲んでいましたね」 


 それには答えず、さくらが酒を飲み干す。


 いつの間にか、彼女から笑みが消えていた。


 空の杯をそのままに、ただひづきの背を撫でる。


「見たよ」


 見たんだ――。


 呟いて、わずかに顔を顰めた。


「皆、死んでた。生きちゃいなかった。もう、冷たくなってたんだ」


 言葉を継ぐその顔が歪む。きりりと唇を噛んだ。ひづきを撫でる手も、いつしか止まっていた。


「奴らが押し入って二刻も後に、のこのこ駆け付けたんだよ、私は。何やってんだろ」


 拳を握り締める。


 不穏な気配を感じ取って、ひづきが顔を上げた。


「刀なんか差してても、誰ひとり救えなかった。そればかりか、朝になったらいつものように稽古に行って、寝て、起きて……薄情な奴だよ」


 懐にしまい込んだ讀賣。


 血の臭いが染み付いた体。


 戒めのように残る、残像。


「まだ小さい奉公人もいたんだ。病気の母親のために、自ら望んで奉公に出た子。母親と別れて暮らすなんて、どんなに辛かったか。それでも辛抱して奉公していたんだ。泣きたい時もあっただろうに」


 どんなに恋しくても、帰れない。手間賃と一緒に、便りを送ることしかできない歯痒さ。


「げんきです」。字が読めない母に、それだけをしたためる。もっと伝えたい言葉はある。しかし、この恋しい想いを伝えることはできない。絶対に、できない。


 温かい母の手。いつか握り締めたいと、懸命に働いていた少年。


 その小さな願いも叶うことなく、彼は理不尽に命を絶たれた。


「私は、その小さな命も救えなかった」


 言葉を吐き捨てる。悔しくて、瞼の奥が熱くなる。


 何もできなかった。


 今も同じだ。下手人が分かったというのに、さくらには何もできない。探索は専門の町方が動いている。香上の言うように、素人が下手人の顔も分からず捜し回るなど、到底無理な話だった。


「なんのために、私はあの場に導かれたんだろうか。あの子は何を訴えたかったんだ? 分からない……分からないよ。彼らのためにしてやれることが、見付からないんだ──」


 きつく瞼を閉じた。


 膝の上で、ひづきが小首を傾げている。初めて見る表情だ。そう言いたいのかもしれない。


 総が無言で手を伸ばした。さくらの杯に酒を注ぐ。


「わたしは、さくらさんが無事に帰って来てくれただけで、本当に安堵していますよ」


 背を丸くして俯くさくらが、とても幼く見えた。


 穏やかな微笑を浮かべる。


「落ち込んだところで、貴女が彼らの代わりになれるわけじゃない。悩んでいても、亡くなった方は甦りません。だったら、いつも通り暮らしていてもいいんじゃないでしょうか」


「でも──」


「今、さくらさんにできることは、ひとつだけだと思います。手を合わせてあげましょう」


 ゆっくりと、さくらが顔を上げた。目が赤い。


 不安に揺れ動く視線を穏やかに受け止めて、彼は続けた。


「心から祈るんです。どうぞ安らかに、って。それが、彼らのためにさくらさんがしてやれる、精一杯のことだと思います」


 自分は、辰巳屋の惨状を直接見たわけではない。だが、死に逝く人をこの右目で見てきた。


 己の不甲斐なさを責める彼女の想いも、また、総が抱えていたものと同じだった。


「飲みましょうか、さくらさん。彼らの分も」


 杯を持ち上げる。


 唇を結んでいたさくらも、杯を手に持った。静かに口をつける。


「この酒、辛い」


 半分泣き笑いの顔で、彼女が言った。


「ええ、辛いです」


 彼女の頬に流れたもの。


 今は、見なかったことにしておこう。





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