六
六
朝の稽古当番の翌日は、稽古が休みになる。
昼過ぎまで布団を被っていたさくらは、嫋やかな音に目を覚ました。
尾が微かに震える。紛れもなく、琴の音だ。
爪の先だけで、弦を弾く。鳥が鳴くような、小さな音。指の腹で直接弦を弾く音は、柔らかく優しい。
独奏のはずなのだが、華やかさに欠けるといったことがまったくない。いや、むしろ連れ弾きや重奏ではないからこそ、音が耳に心地良く響いた。
すべての感覚を音色に預ける。そうして聞き入っていると、風に流れてしまいそうな感覚に陥る。
目を開けているのか閉じているのかさえ、判然としない。まだ、夢を見ているのかもしれない。それも、とびきり幸せな夢を。
六本の弦が同時に鳴いた。
それで、音は止んだ。
微睡む意識の中で、さくらは、ほうと息をつく。
ゆっくりと瞼を開けた。
障子戸を通して薄光が畳に落ちている。子供らが、笑いながら長屋の前を過ぎていった。
幾分すっきりした頭を起こし、着替えを済ませる。顔を洗い身なりを整えると、脇差だけを腰に差して外に出た。
すでに高くなった太陽から、きらきらと陽光が降り注ぐ。道端の名もない花が蕾を膨らませていた。
「あら、おはよう」
井戸端で包丁を研いでいた斜向かいに住むおせいが、さくらの姿を認めて駆け寄る。この長屋に越してから、おせいには何かと面倒をかけることが多い。きっぷがよく飾らないおせいは、平八長屋の住人から頼りにされている「おかあさん」だった。
「おはようって、もう陽が高いけどね」
「あら。いいんですよ、そんなこと。さくらさん、昨日は大変だったっていうじゃないですか。ゆっくり休まないと体がもたないからねえ」
「それ、総さんが言ったんだね。嫌なことを思い出させてくれるったら」
「総先生じゃありませんよ。この長屋じゃあ、ちょっとした噂になってんですから」
「噂?」
「自身番から出てくるところ、文治に見られちまったんです。あいつ、また酔っ払って木戸から締め出されたんだ。川っぺりの舟の中で夜を明かして、やっとこさ帰る途中で、さくらさんが自身番から出てきたのを見たんだって。なんでも、苦味走ったいい男の同心と一緒だったとか」
「……へえ、文治さんが」
文治も、同じ平八長屋の住人で、一応は桶職人なのだが素面の姿を見たことがない。腕がよくても、あれじゃあ嫁さんなんてこないさと、陰で皆に言われている。当人もすっかり諦めたもので、「女ってのは見る目がないねえ」などと笑い飛ばしたりしていた。
さくらが文治の名を口にした、ちょうどその時。
長屋の一角の戸が開き、爪楊枝を銜えた文治がのっそりと姿を見せた。まだ、目が半分寝ている。
陽を眩しそうに見上げ、思い切り伸びをしているその肩を、さくらはそっと叩いた。
「おはよう、文治さん」
「おっ、さくらさん。朝帰りならぬ、昼帰りかい」
息が酒臭い。
辟易としながら、さくらは腰に手を当てた。
「私が番屋にいたってこと、長屋の皆に言ったそうだね」
「おう、それそれ。いやあ、目が覚めたね。まさか、さくらさんが悪いことして番屋にいたなんて、誰も思わないから安心しな。ただ、あの八丁掘りの旦那はいい男だったじゃねえか。ちらっとだけだったが、ありゃ十手振り翳して小銭をせしめるそこらの定廻りじゃないね」
「文治さんは、人相で易ができるのか。知らなかったな」
「ま、俺だって、何度か番屋には世話になってるからさ。捕まった相手が、評判のいけ好かない同心だった日にゃあ、最悪ってもんだ。ねちねちといじめられるは、水の一杯もくれねえは。その点、さくらさんは運がいい」
「私にとっては、凶日だよ」
あの厭味な顔を思い出すだけで、拳が疼く。一発、殴ってやればよかった。
とはいえ、そんなことをしていたら、今頃は牢の中だ。
「とにかく、変な話を広げるのはやめてよ。与太話だろうと、妙なこと言ったら勘弁しないから」
「おお、怖い怖い。さくらさんといい、ここの長屋は女が強くていけねえや」
「何言ってんだい。世の中、女が強く生きてたほうが安泰なのさ」
いつの間にか井戸端に集まっていたかみさん連中が、ケラケラ笑い出した。文治はバツの悪い顔をして、チェッと楊枝を吐き捨てる。
音羽の侃斎道場を訪れたさくらは、道場ではなく侃斎の住まいのほうに直接回った。五つの時分から平八長屋に移るまでの十年を過ごした家だ。勝手は知っている。
「師範、さくらです」
庭から入り、侃斎の自室の前で来訪を告げる。間も無くして障子が静かに開いた。
「入りなさい」
白いものが混じった髪と蓄えられた髭が、厳格な印象を与えるこの男こそ、当道場師範、風間侃斎だ。
部屋の中には、さくらのための座布団が用意されている。それを除けて、侃斎の向かいに座した。
「昨日は、出稽古ご苦労だった」
侃斎が、煙管に火を入れる。美味そうに煙を吐いた。
「いえ。私も、勉強になることがありましたし。成進道場の方々、くれぐれも師範に宜しくと申しておりました」
「うむ」
火箸で炭を突付く。風に触れて、燻っていた炭が一瞬だけ赤くなる。
「して、今日は如何いたした」
火鉢の中から目を逸らさずに、侃斎が言った。
「いつもながら、察しがいいことで」
「何年、共に暮らしたと思うておる。お前の考えなどお見通しだ。金の無心ならば、お前は座敷には上がらぬだろうしな。どうせ、色恋の話でもあるまい」
「恐れ入りました」
「で、何が聞きたい?」
観念の苦笑をしつつ、さくらは口を開いた。
「成進道場の新井という人物を、ご存じですか」
「新井?」
「私と同じくらいの年格好で、新参者らしいのですが」
「さあ、覚えはないが。その者が、どうかしたのか」
「いえ。別にどうと言うことも。しかし、気になるんです」
「気になる、とは」
「彼の太刀筋です。成進道場の流儀とは明らかに違う。構える姿は隙だらけで、刀を持つ者とは思えません。ですが、いざ立ち合うと竹刀が掠りもしないのです。それに、どう躱されているのか、立ち合った者にさえ分からない」
侃斎が顔を上げる。さくらの言葉の意味を推し量って、目を細めた。
「お前にも、分からなかったのか」
「…… 恥ずかしながら」
ふむと腕組みをして、不意に黙り込んだ。眉根が寄る。
「あのような流儀は見たことがありません。師範なれば、何かご存じかと思いまして」
「お前も立ち合ったのか」
「はい、一度だけ」
「で、どうであった」
「それが、妙なのです」
「妙?」
さくらは困り顔で、頭を掻いた。
「── すぐに、勝ってしまったんです」
簡単にいくとは思っていなかった。
どんな流儀か知らないが、そう易々と倒せないであろう。立ち合って隙だらけな構えを見ても、慎重に間合いをはかった。
息が詰まる。相手もいたずらに間合いを狭めようとはしなかった。
しばらくそうして相対する。緊張が途切れたのは、新井が仕掛けた瞬間だった。
踏み込み、竹刀を突き出してくる。
それを横に払い、そのまま背中に竹刀を振り下ろした。パンと小気味良い音が鳴る。
竹刀を取り落とした新井は、背を摩りつつ「参りました」と手をついた。
――あの時、何かがおかしかった。
竹刀を置き、気を緩めてからも、言いようのない違和感が残っていた。
他の門人達との稽古を見る限り、容易に竹刀を入れることはできそうになかったのは確かだ。それなのに。
成進道場を出てからも解は出なかった。明と昼飯を食べに行った際に上の空だったのには、こういう理由があったのだ。
「私の勘違いかとも思ったのです。本当は、そんな身構えるほどではなかったのではないかと。でも、何か……引っ掛かるものがあって」
「手を抜いたとは考えられんのか」
「それは……あるかもしれません。いえ、そうだと思うのです」
でなければ、あんなにあっさりと勝つことはできなかった。
「でも、なぜ手を抜いたのか。理由が分かりません」
侃斎は、無言で煙管を吸う。眉間に皺を寄せたまま何かを思案していた。
やがて、
「その男には、近付かないほうがいいかもしれん」
煙と共に、言葉を吐き出す。
「立ち合っておいて手を抜くとは、何か思惑があるに違いない。目的が何にしろ、これ以上関わるのはやめておけ。その男の素性は、こちらから問い合わせておこう」
「できることなら、もう一度立ち合いたいと思っているんです。刀を交えれば、相手のことが見えてくるかもしれない」
「さくら……」
少女の純粋な顔を見、侃斎は深々と溜め息をついた。
「わかっておるのか? お前が、易々と竹刀を入れることができないと思った相手だぞ。どんな流儀かは知らぬが、その男、危険だ」
「師範にそう言っていただけると、なんだか照れますね」
「馬鹿者っ。褒めているのではない」
煙管をガンッと火鉢に叩きつける。小さな塊となって灰が飛び出した。
「いいか、さくらよ。退き際を間違えるな。勝てぬと思うたら逃げればいい。しょせん、この世は生きている者が勝ちなのだ。わざわざ、危険に近付くものではない」
「わかっています。わかっていますから、あまりお怒りにならないほうが」
「誰のせいだと思っているっ」
顔を真っ赤にして怒る侃斎が、ゆでだこを思わせる。
思わず吹き出した。
「大丈夫、新井さんには近付きません。お約束します」
笑いを堪えた肩の震えを隠し、さくらは部屋を出る。寂しげな顔をした侃斎が、それを無言で見送った。
侃斎がさくらの身を心配していることくらい、彼女は痛いほどに感じている。
道場に引き取られて十年。だてに共に暮らしていたわけではない。
よくやったと褒めてもらったこともない。派手に喜ぶ姿も見たことがない。それでも、無感動な人間でないことは、さくらが一番よく知っている。その厳しさが、彼女に強く生きてほしいという心の表れであることも。
庭の花を見て、穏やかに目を細める姿を見たことがある。侃斎道場に引き取られて、ひと月が過ぎた頃だ。侃斎に対して恐れの念が強く、心を開かなかったさくらは、その穏やかな目をどこかで見たと思った。
侃斎の彼女を見る目。それと同じだと気が付いた時、さくらはなぜか泣きたくなったものだ。
両親の愛情も知らず、たったひとりの肉親にも去られた彼女に、心から愛情を注いでくれる人。
強さと優しさと、生きる術のすべてを教えようとしてくれている。
それを理解できたのは、恐らくさくらが心を開いたからだろう。愛情を素直に受け入れることができなければ、何も見えてはこなかった。そして、今ここにいる自分はいなかったと思う。
どんな無様な姿になってもいい。生きろ──。
言葉には出さずとも、しっかり伝わっていた。
厳つい顔も、見慣れてしまえばどうということもない。
「そういえば、夢の中のお父様はいつも師範だったっけ」
夢の中。あの怖い顔で、さくらを抱っこする侃斎の姿が浮かんだ。
微笑を湛え、庭の木戸を潜った。
さくらの姿が見えなくなると、侃斎は小さな息を吐いた。煙草盆を引き寄せ、煙管に煙草を詰める。
「もう、出てきてもよいぞ」
紫煙と共に、侃斎が口にした。
続き間へと通ずる襖が、滑らかに滑る。
総は、まるで昔からの知己のような顔で、煙草盆の脇に腰を下ろした。
その仕草を、侃斎は横目で一瞥する。
「聞いておったな」
「はい」
「そなたがここへ来た理由も、同じか」
「ええ」
「……まったく。あいつは自重することを知らん」
苦々しく煙を吐き出した。
「出稽古の帰り、さくらさんはよっぽど考え詰めていた様子だったそうで。気になったものですからお伝えに参ったのですが、当のさくらさんに先を越されてしまいました」
「昨日は、八丁堀までもあの子の素性を探りに来た。どうやら押し込みの発見者になってしまったらしい」
「では、番屋で詮議を受けていたというのは」
狸野郎と毒づいていたことを思い出す。
侃斎も、口を固く引き結んで頷いた。
「訪ねて来たのは南町の香上とかいう同心だったそうだが、さくらを頭っから下手人と疑っていたふうではなかったそうだ。夜が明けるまで番屋に留め置いたのも、ひとりで帰すのは危ないとの判断からだろうよ。傍から見たら、どうしても子供にしか見えんからなあ。どうしてああも、厄介な諸々に惹きつけられてしまうのか」
「諸々には、わたしも含まれているのでしょうね」
薄く、総が笑った。自嘲めいた微笑に、侃斎は思わず険しい顔つきになる。
「そなたをあの長屋へ口利きしたのは、儂だ。厄介と思う者を、さくらの傍に住まわせるわけがなかろう」
「平八長屋へのお口利きは、さくらさんに、どうにかしてくれと懇願されたからだと思っておりました」
「……それも、なくはないがの」
気恥ずかしくぼやいた侃斎が、ふと顔を上げた。
「おぬしと初めて対面した日から、早、半年になろうとしているのか」
総も、庭の春陽を眺めながら、目を眇めた。
半年前──。
さくらが、京での剣術修行から帰ってきたちょうどその頃。江戸の町では妙な噂が囁かれていた。
曰く、「永代橋には鬼が出る」と。
その鬼は、白い着物を着、夜中に橋を渡る者を誑かしては悪戯を繰り返すという。
門人のひとりがさも恐ろしそうに語るも、怪談話にまったく興味がないさくらは、話を適当に聞き流していたそうだ。
おおかた、欄干の手摺りに布っ切れが挟まってたなびくものを見間違えたのだろうと、取り合いもしなかった。
そんなさくらが、仲間たちと久々に酒を酌み交わし、長屋への帰路についたのは夜もだいぶ更けた時だった。
風に、柳の葉が舞い、そこ、ここに留まっていた夏の温さを拭っていく。秋の気配が、一刻一刻色濃くなるその晩。
永代橋を渡りかけたさくらの足が止まった。
ぼんやり霞がかった視界に、人影が見えていた。
周囲に明かりはない。見上げる月は小さく、心許ない月光だけが降り注ぐ。
── 欄干に寄り、川面を見つめる長身の男。真っ白な仔猫を抱いている。
「ああ」
さくらが、不意に笑みを零した。
「── あんたが、永代橋の鬼か?」
もちろんからかったのである。いや、酒のせいで正常な判断がつかなかったのかもしれない。本物だったらそれはそれで面白いと、心のどこかで思っていたらしい。
ただの酔っ払いの戯言と、取り合わないか。
唇を歪める彼女に、総は微笑して応えていた。
「鬼が出ると聞いてやって来たのですが、なるほど、わたしが鬼なのかもしれませんね」
腕の中で、猫が一声鳴いた。
それが、総とさくらの出会いだった。
あの日、住む場所がなかった総のために、彼女は侃斎に頭を下げてくれた。確かな素性と後見がなければ長屋に住むことができないご時世に、音羽侃斎道場師範の後見は何よりの口添えとなった。
「私もたいがい氏素性が怪しい身だけど、侃斎師範の後見があったから長屋でひとり暮らしができるんだ。ありがたいことだよ」
そう言って、さくらは「よろしく」と清々しく笑った。
その話をするたび、侃斎の眉間の皺は深くなる。
「都合のいい時だけ、ああして頼るのだ。普段は滅多に頼りになどせぬのに」
「侃斎様にとっては、娘も同然でしょうからね。 ――ひとつお聞きしたかったのですが、なぜ、さくらさんを正式に養女となさらないのですか」
風間の姓を名乗れば、女だてらに剣術道場に出入りしていようと他を納得させることもできる。さくらが居を別にすることもなかったはずだ。
侃斎は、ひとつゆっくりと煙草を燻らせてから、
「あの子を、縛り付けたくはなかったのだ」
囁くように呟いた。
「我が養女となれば、確かに、稽古はし易かろう。儂とて、外であの子がどう言われているかくらい聞き知っておる。『女だてらに』『女のくせに』。そういう目で見られながらも、さくらは泣き言を言わなかった。一度でも泣きついてきたなら養女にしようと考えていたが、それも夢と消えた」
「あえてそうしなかったのは、道場の跡取りとなるからでしょうか」
「縛ると言ったのは、そんな意味ではない。今も儂は、さくらに道場を継がせる気はないよ。あの子だって、それは望んではいないだろう。養女にしなかったわけは、さくらの決意を知っているからだ」
行方が分からない兄と同じ名で、剣の道にしがみ付こうとするさくらの努力は、半端なものではなかった。
女の身で――。
罵倒の台詞さえ、さくらには背を押す力に聞こえた。
もっともっと強くなって、自分の話題が人々の口に上れば、兄がそれを聞いてくれるかもしれない。会いに来てくれるかもしれない。
その一心でしか、幼い少女は生きる術を見出すことができなかった。
「あの子を、三峰の屋敷から連れ帰る際、儂は己の道を生きろと諭した。和時が選んだことが、さくらを絶望のどん底へと引きずり込もうとしていたからな。兄のことは忘れたほうが幸せだと……。だが、さくらは、一時も和時のことを忘れようとはしなかった。それどころか、兄捜しを立ち上がる糧にしよった。あの子が選んだ道は、とても脆く繊細だ。ちょいと突付けば易々と崩れちまう。女としての幸せも、儂の娘として安穏と過ごすことも手放して、そういう不器用な生き方しかできんらしい。おぬしも、な」
煙管の先で、黙する総の鼻っ柱を示した。
指されたほうは目を丸くする。
「わたしも、ですか」
「なんだ、気付いてなかったのか」
「世渡りは上手いと自負しておりました」
「世渡りと生き方は違う。おぬしは型を持っておらんのだ。相手に合わせて纏う気を変える。それは己を消しているということ。真剣で相対する者としては、非常にやりにくい。誰かに縋って生きるほうが、遥かに楽なことも知っているのだろう。それでも、すべてを身に負うことをよしとして生き通そうとするなら、なんと強固な精神を持っているのかと思う」
真正面からそんなことを言われた試しがない総は、頬に辛うじて微笑を保ったまま、ふと視線を落とした。
膝の上で揃えた、左の中指を見つめる。
「侃斎様には、何も聞かずにいてくれたことを感謝しています。本当は、さくらさんに連れて来ていただいた時、問答無用で番屋に突き出されてもおかしくなかった。そんな男を、侃斎様も、さくらさんも、迎え入れてくれました。心から、恩義を感じているんです」
「言っておくが、儂とて諸手をあげて歓迎したわけではないぞ。総という名と琴の演者というだけで、誰が信用するものか」
「でも、後見人になってくださった」
「あれは、さくらのため――あの子には、おぬしの本質みたいなもんが、分かっちまったんだ」
半年前の晩、さくらが侃斎を前にして語ったことがあった。
暗闇に蝋燭の灯りがちらつく中で、さくらの瞳は静かに凪いでいた。
「あの子は、おぬしから音が滲み出していると言った。漠然と、穏やかな音色だと。そうでありながら、寂しさを感じさせるとも。言われてみれば、そう感じないでもない。おぬしには楽の音が染み込んでいる。――さくらがどうして、おぬしを儂に引き合わせたのか、わけを知るまい?」
総は素直に頷いた。
「おぬしを永代橋の上で見た時、兄の和時に似ていると思ったそうだ」
「わたしの顔は、そんなに似ていますか」
「いいや。ちっとも似てはおらんよ。確かに柔和な顔つきの男ではあったが、己の意志を貫くような毅然とした目をした青年であった」
「では、何が似ていると……」
「身に纏う、気だとさ。一見優しく、安らかなふうに見えて、内に危うさを隠し持っている、と。いなくなる前の和時も、同じだった。少しでも間合いに入ったら、粉々に砕けてしまいそうだった」
「わたしは、そう深く思い詰めることもないのですが」
「おぬしはすでに、己を割り切っているのではないか。そうとしか生きられぬと。しかし、さくらには、兄の姿とだぶって見えたのだ。十年前、あの子は幼すぎて、和時が出奔した時、何もすることができなかった。そのことを、今でも悔やんでいる。だから、おぬしのことを放っておけなかった。あのまま永代橋の上で別れていたら、一生悔やまれると思ったそうだ」
そう話し終えたさくらの表情は、硬く蒼白だった。総が、和時のように得体の知れぬ何かに捕らわれてしまうようで、心がそわついていた。
侃斎がさくらのそんな顔を見たのは、彼女を引き取った日以来だった。
「さくらは、おぬしだから手を貸したのではない。兄を思い起こせば、誰であろうと儂を頼ったろう。さくらも儂も、おぬしに生き方を変えよとは言わん。これは我々の勝手なのだ。おぬしが恩義に感じることでもない。ただ、ひとりではないことを分かっていてほしい。儂らが言うべきことは、それだけだ」
「いくらそう言っていただいても、わたしはやはり感謝しています。さくらさんと侃斎様のお蔭で、わたしとひづきは雨風を凌いでいられるんですから」
「その礼が、さくらの様子を報せてくれること、か。面白いことを考える男だの」
「金品を贈るのも失礼だと思いましたし、侃斎様は傍にいないぶん、心配しているだろうと思いまして。ご迷惑でしたか」
離れて暮らすさくらを案じていることは、誰の目にも明らかだ。対外的には厳格な師範の顔をしているものの、内心は娘を想う父親の心境そのものだった。
「無用なことを聞くな」
侃斎は素っ気なく言って、煙管をくわえたまま、懐に腕を納めた。