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【四】


 日本橋音羽町の侃斎かんさい道場からは、すでに威勢のいい掛け声と共に、竹刀が弾ける音が響いている。


 さくらは庭先からこっそり忍び入った。なるべく師範の目には留まらぬようにと、稽古場の様子を慎重に窺いながら廊下を歩む。


その背へ、


「遅いっ」


 怒声が掛かる。


地響きが起きたかと、さくらの足が数寸浮いた。恐る恐る振り返る。


 大柄な体躯に、眉を吊り上げて、師範代の秋吉が仁王立ちしていた。手にした竹刀を肩に、さくらを見下ろす。


「いったい何刻だと思っている。今日の稽古当番はお前だろう」


「はいっ。あの、すみません」


 総に言われた通り、とにかく謝って誠意を見せるしかない。悪いのはすべて自分である。


 ひたすら頭を下げる様に、秋吉は何を思ったのか顔を近付けた。


 秋吉の額に、うっすら汗が光っている。さくらの代わりに稽古をつけてくれていたのだ。ありがたいと思う一方で、同じ師範代でありながら、己にその自覚が足りないことを恥じた。


鼻を動かして、兄弟子がわずかに顔を顰める。


「酒のにおいがする。また飲んでいたな」


「あ」


 いくら頭の酒は抜けたからといって、体に染み付いたにおいまでは消えていなかったらしい。特に秋吉は下戸だから、酒のにおいに敏感だった。


 彼はほとほと呆れたように、長い長い溜め息を漏らした。


「まったく。師範といいさくらといい、酒には目がないんだから困ったものだ。おおかた、飲みすぎて稽古のことなど失念していたんだろう。師範代という立場にあるからには、もっと気を引き締めなければ駄目だぞ、さくら」


 ほとんど言い当てられて返す言葉もない。さくらは二十も歳の離れた兄弟子の前で、細い肩を落とした。


 秋吉はさる旗本の屋敷で剣術指南を務めながら、師範代として侃斎道場で汗を流している。普段はその体躯に似合わない、温厚な性格なのだが、剣術のことになると話は別だ。幼い頃からよく知るさくらが立派な師範代になるよう、指導は特に厳しい。門人への配慮から師範代の務めのなんたるかまで、さくらにとっては耳に胼胝ができるくらい聞かされた話が多々ある。


そんな熱血漢な男であるが、秋吉を疎ましいと思ったことは一度もない。


忠告はすべてがさくらのためであり、彼の言うことは筋が通っている。何より、そうやって心から心配してくれる人の情が、さくらには嬉しかった。


 だから、秋吉の言うことは出来る限り耳を傾けることにしているのだが、どうしても酒だけはやめられない。こればかりは、師範である風間侃斎の影響を色濃く受けていた。


 酒に関してはどれだけ口を酸っぱくしたところで、闇夜の礫、暖簾に腕押しと知っている秋吉が、気を取り直してさくらを見据えた。


「ところでな、さくら。こちらの稽古はいいから、師範の代わりに浅草の成進道場へ行ってはくれまいか」


「出稽古ですか」


「ああ。あそこの師範は侃斎師範の弟弟子に当たるお人でな。その縁で出稽古を頼まれたが、師範は用があって朝早くから出ておられる。俺も務めがあるから浅草までは到底行けん。で、さくらが行ってくれると助かるんだが」


「構いません。行って参ります」


 にこりと笑って早速出ようとした彼女の襟首を、秋吉がむんずと掴んだ。


「その前に」


 ぴしゃりと言う。


「早朝稽古に遅れた罰に、素振り千回。それと、ちゃんと胴着に着替えろ。酒のにおいがしていたんじゃあ、あちらの門人に示しがつかん」





 さくらが成進道場へと出立した、その半刻程後のことだった。


「秋吉師範代、お客様です」


 庭の井戸端で汗を拭いていた秋吉に、若い門人が声を掛ける。ぐるりと顔を巡らしてみると、門人は明らかな困り顔をしていた。


「どうした」


「それが、来ているのは八丁堀の役人なんです。師範に会わせてくれと」


「師範は出掛けている」


「そう言いましたら、三峰師範代のことをよく知っている者に取り次いでほしい、と言いまして」


「さくら?」


 妹分の名を聞き、秋吉の眉間に深い皺が寄る。


 ―― あのはねっ返り、何をやらかしたんだか。


 本日、彼がついた溜め息は、ほとんどさくらに対してのもの。門人同様に情けない顔を作って、秋吉は頷いた。


「そういうことならば、俺が行くべきだろうな。中に通しておいてくれ」


「はい」


 門人がそそくさと庭を出て行く。


 秋吉は手にした手拭いを固く絞った。さっぱりとした顔で部屋へと戻り、胴着から袴に着替える。大刀はそのまま部屋に残し、脇差だけを腰に差した。


 そこで、また小さく嘆息した。


 客間で待つ同心は、黒羽織の背筋を真っ直ぐに伸ばし、座していた。


「待たせた」


 秋吉が空いている上座の位置に腰を落ち着けた。同心がすかさず平伏する。


「南町定廻り同心、香上隲十郎かがみ しちじゅうろうと申します」


 すっと、顔を上げる。


 精悍な目元に、炯々とした眼光を湛えていた。座っているとそれと分からないが、上背はかなりあるだろう。捕り方の型ばかりでなく、剣の修行もかなりしているようだ。ただそこに座っているだけなのに、一分の隙もない。


 使い手同士。


 そういう気配はすぐに分かる。


「これは丁寧に。当道場で師範代を務める、秋吉克太だ。生憎、師範の侃斎は出ている。私で事が足りるようならいいのだがな。用向きを聞こうか」


 岡引が聞き込みに来ることはあったが、同心自らが道場へ赴くことはまずない。いい話ではなさそうだ。それも、話はさくらに関わりあること。


 目を細めて相手の出方を探った。あからさまな疑心の様子を前にして、香上は顔色ひとつ変えはしない。


 静かに頷き、言葉を紡ぐ。


「こちらの道場には、女の師範代がいらっしゃいますね」


「ああ、三峰さくらという。あの子が何か」


 香上は口元で笑って見せた。


「偶然、その師範代と顔を合わせる機会がありまして。こちらに女の使い手がいると聞き及んでおりましたが、いや、随分とお若い」


「あの子はまだ十五だ」


「ほう、十五で師範代ですか。そいつは大変なものだ。やはり師範の血を継いでいるから、そんなにお強くなれるんですかねえ」


「勘違いをされては困るな。さくらは侃斎師範の血縁者ではない」


「ああ、そうでございましたか」


 あっさりと得心した。


 ――こ奴、知っておったな。


 秋吉が不快に眉を寄せる。油断ならない男だ。


 警戒を濃くした気配に気が付いたのか、香上はふと視線を逸らす。開け放った障子から庭を見渡した。隅に艶やかな葉をした椿が植わっている。


「武家では庭に椿を植えるのを嫌がるのに、あんなにたくさん」


 同心の口から出た問いは、つい先程まで話していたこととはかけ離れていた。


 秋吉も椿に目をやる。硬く小さな蕾が、そこここに結ばれていた。


「花の散り方がまるで首を落とすようだからと、確かに武家では好まぬ花だな。しかし、師範は違う。潔いではないかと仰る。その潔さが好ましいと」


「潔い、ですか」


 香上の声音がわずかに変わった。一寸の間、言葉を切る。


 その沈黙に、秋吉の地を滑るような低い声が被さった。


「何を探りに来たのかは知らぬが、さくらに関して言うなら、あの子は本当にいい子だ。素直で、とても正直だ。それ故、傷付くこともあろう。私は兄代わりとして、あの子を守ってやりたい。もしも、さくらが御上の手を煩わせるようなことをしでかしたのならば、その責任を取らせるのも私の役目と心得ている。だから香上とやら、どうか正直に話してくれまいか。あの子が何をしたのか」


 一息で言ってしまうと、乾いた喉が痛んだ。ごくりと唾を飲み込む。


 香上の目が眩しげに歪んでいる。ゆるりと戻した顔には、わざとらしい笑みも張りつめた気も感じなかった。


 表情が、ふと和らぐ。


「わたくしはあの花以下です。回りくどい言い方をしてしまいました。お無礼、お許しください」


 と、何かすっきりとした顔で侘びを言った。辰巳屋押し込みの顛末を話し出す。


 途中から、黙っていた秋吉の顔が徐々に曇り出した。聞いて気持ちのいい話ではない。辰巳屋という米問屋が押し込みに襲われ、皆殺しになったという。しかも、それを自身番に知らせたのがさくらだったのだ。


 さくらには、夜遅くのひとり歩きは危険だと、何度も何度も注意していた。それを守っていなかったばかりか、惨劇の場を発見してしまうなど、秋吉には頭が痛いことばかりだ。


「辰巳屋には、幼い奉公人もおりました。病の母のために奉公にあがったそうです。そんな小さな子供まで、命を奪われました」


 香上の腿の上に据えられた手が、固く握られていることに秋吉は気が付いた。


「三峰さくら……あの者がこの件に直接関わっているとは思いません。しかし、不可解なこともある。何より、あの惨劇を見て取り乱した様子はなかった。それが気に掛かるのです。そして『三峰』という名。姓があるということは、恐らくは武家か浪人の娘でしょう。しかし調べても、武家に三峰姓はありませんでした。では、あの娘は浪人の子か、江戸者ではないか……あるいは、名字帯刀を許された身分であるのか……」


 不意に、真正面から秋吉を注視する。


 押し込みと無関係とするには、さくら自身に謎が多すぎた。彼の目はそう告げる。


 確かに、女でありながら道場の師範代というだけでも、なかなか一筋縄ではいかない。


 ――まして、あのさくらだ。


 秋吉は唇を引き結んだ。同心の視線を受け止め、微かに頷いてみせる。


「三峰家はれっきとした武家だ。いや、だった、と言うべきだろうな。三峰の家は十年も前に取り潰されている」


 これには、香上も驚きを隠せなかった。片眉がぴくりと上がる。


「お取り潰し、ですか。何かお家で不始末でも」


「不始末といえば不始末なんだろうが。それで本当に傷付いたのは、家名でも御上の面子でもなかった。本当に苦しんだのは、さくらだ」


 苦しげに目を伏せる。


 秋吉の脳裏に、思い出したくもない記憶が呼び起こされた。


 三峰家はさして大きな家柄ではなかったが、屋敷には小さな庭があり、両親と子供が二人、食っていくのに必要なだけの扶持米を貰っていた。跡継ぎの男子にも恵まれ、ある年の春には女の子も生まれた。皆に愛される花。美しく愛される人であれとの願いを込めて、さくらと名付けられた。


 だが、両親はさくらが生まれた年に相次いで病死する。


 家は、元服したばかりのさくらの兄・和時かずときが継ぎ、乳飲み子だったさくらは、乳母に育てられた。まだ若かった和時は、家名と幼い妹を守るため、懸命に剣の修行と役目に励んだ。その甲斐があって、彼が二十になった冬、藩の剣術指南を務めることとなる。さくらが、五つになった年であった。


 その頃からだ。


 和時の様子が、どこかおかしくなったのは。


 幼いさくらの目にも、明らかなほどに。


 屋敷にいても、どこか上の空で虚空を見つめることが多くなっていた。さくらが話しかけても、ぼんやりとした返事しか返ってこない。そうかと思うと、深夜、広い座敷にひとり座している姿があったりもした。血走った目をかっと見開き、闇の中の一点を凝視しているようだったという。


 何かに憑かれている。


 この時の和時は、まさにそうだった。


 そして。


 彼は突然姿を消した。


 さくらが、幼心に捨てられたと感じたのは事実だ。何も言わずに消えた兄。自分ことをを嫌いになって、捨てたに違いない。幼い彼女が、そう思ったのも無理からぬことだろう。小さな心は、それに耐え得る術を持っていなかった。


 さくらは、ひたすら泣いていた。


 昼も夜もなく、泣いて泣いて泣き疲れると、茫然自失の態で庭を眺めていた。そして、自室にひとりきりでいることを極端に嫌がった。


 また、捨てられるのではないか。


 知らない内に、皆、いなくなってしまうのではないか――。


 恐怖心から眠ることもせず、少女の体は、日に日に衰弱していった。


 和時が姿を消して、三日が過ぎた日。三峰家を、男が二人、来訪した。


 ひとりは風間侃斎。


 さくらの父親とは兄弟弟子であり、和時の出奔を耳にして急ぎ駆け付けたのだ。それに同行したのが秋吉だった。


 初めてさくらを見た時、秋吉は一瞬、我が目を疑った。


 五つと聞いていたが、目の前の少女はずっとずっと小さく見えた。袖から出た腕は骨と皮だけだし、目も異様にぎらついていて、とても直視できるものではなかった。


 隣の侃斎に目をやる。


 厳つい眉と、真一文字に引き結んだ口元。身にいつも以上の厳しさを纏わせて、彼は言った。


「一緒に、来なさい」


 藩の重役達の間で、どんな話し合いがあったのか、さくらは知らない。


 まだ幼いさくらに、家を継がせるわけにはいかなかった。婿を取れる年齢でもない。三峰家を継ごうという者も現れなかった。和時の出奔にどんな理由があるか知れないのに、家と幼子の面倒を見ようという奇特者がいるはずもない。


 そこへ、侃斎が名乗り出た。さくらを引き取りたいと申し出たのである。


 侃斎の想いなど、少女は知りようもない。


 ただ、育ててくれた乳母や、慣れ親しんだ屋敷から引き離されることだけは理解できたようだった。


 細い腕で、一生懸命乳母にしがみ付く。不安に怯えた目で、必死に泣き叫ぶ。


 それを見下ろして、侃斎は無言でさくらを引っ剥がした。


「やー、いやー」


 耳を劈く声に、秋吉が顔を背ける。庭木に止まっていた鳥も飛び立った。


 和時が消えて、三日。


 たった三日の間に、少女は変わってしまった。


 ―─捨てられる。


 その恐怖が、さくらを変えた。駄々を捏ねるのも無理からぬこと。


 侃斎も重々分かっていた。それでも、無理矢理にでもこの屋敷から出すことを優先させたのだ。この屋敷にいては、さくらは前に進めない。


 和時の運命にいつまでも絡まっていては、この子が駄目になる。自分の人生を生きなければ、本当の闇に捕まってしまう。


 あの時のさくらは、闇に捕まりかけて死にかけているも同然だった。息をしてはいるが、生きているとは言い難い。


「強くなれ」


 侃斎が、さくらの体をしっかりと抱き締めた。


「強くなれ、さくら。運命に立ち向かえるように。お前の道を、生きられるように」


 力強い腕。


 その腕は、微かに震えていた。





「あれから十年。さくらは本当によく頑張っている。あの若さで師範代になれたのも、すべてはあの子の実力と努力の賜物。誰が贔屓目に見たわけでもない。現に、当道場でさくらの昔を知っているのは、侃斎師範と私だけ。それに、何がなんでも剣も道にしがみ付こうとする、あの子の強い想い故だ」


「強い想い、ですか」


「ああ。兄がいるかもしれぬ剣の道にいれば、いつか自分を見付けてくれるかもしれないと。だから姓もそのままなのだ」


 この世で三峰の姓を持つ者は、和時とさくらの兄妹だけ。目には見えないその絆を、しっかりと掴んでおきたかったのだろう。


「あの子ほど、人恋しい剣客はおるまいよ。あの子は別れの痛みを知っている。それ故に臆病になってしまうこともある。別れが怖くて、出会いを拒絶した時期もあった。――なあ、香上。さくらは大切な者を失う苦しみも、悲しみも知っている。そんな者が、誰かの命を奪えるだろうか」


 どこか悲しげに問うた秋吉に、香上は無言で頭を振った。


 剣客が人も殺せないなど、滑稽の極みに聞こえる。しょせん、刀や剣術は人を斬るためのものでしかない。


 だが、侃斎は、自分を守る道具としての剣術を教えている。


 ――さくらにとっては、刀は真にそうであってほしい。


 秋吉は思う。


「さくらは、これから先も人を斬ることはできないだろう。私はそれでいいと思っている。人斬りの刀を持っていてと、綺麗事に聞こえるかもしれないが、あの子にはその刀で、誰かを傷付けてほしくないのだ。斬る側の痛みや苦しみを知ってほしくはない。あの子はまだ幼いのだから。兄代わりとして私にできることは、あの子がそんな道を歩まないようにしてやることだけだ。それも、時には疎まれるのだがな」


 自嘲めいた微苦笑を漏らす。


 香上が、伏せていた顔を上げた。


「それで、あの娘には充分なのでしょう。わたくしが見た三峰さくらという娘は、ちゃんと自分を見据えているようでした。秋吉様と侃斎師範の想い、あの娘が重々承知している証です」


 言って、すっかり温くなった茶を一口啜った。


 雀が一羽、庭に降りて虫を啄ばんでいる。幾分冷たい風に、木々が葉擦れの音を囁いた。


 ―― そうでなくては、困る。


 十年前の、あの、ぎらついた双眸。


 思い起こした残像を拭い去るように、秋吉はきつく瞼を閉じた。







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