三
【三】
「だから、下手人は私じゃないって、何度言えば分かってくれるんですか」
大島町にある、自身番でのこと。
さくらが、怒りに震える拳を畳に叩きつけた。
向かいに座る南町奉行所の定廻り同心は、苦々しい顔で熱い茶を啜っている。
「しかしなあ、どうも腑に落ちねえ。暮れ六ツまで日本橋音羽の道場にいて、その後、酒を飲みに行ったというところまではいい。だが、その店を覚えていない、特徴も思い出せないなんて言われて、はいそうですか、お帰りをといくわけねえだろう」
同心の言うことは、もっともだ。さくらだって、言えるものならとうに言って、疑いを晴らしている。
心に隠すことがあるというのは、なんと不便なことか。それも、男との逢引なんて色っぽい話ではないから厄介だ。
一抹のやましさを、良心の呵責と共に、平静の下に押し込む。
あからさまに不機嫌な顔をしているさくらを認め、同心が更に言葉を続けた。
「しかも、お前さんのうちは永代町の平八長屋だって言うじゃねえか。日本橋からの帰りで永代橋を渡って来たんなら、なんで長屋とは反対方向にある辰巳屋にいたんだ」
「何遍も言ってるでしょう。橋を渡ったところに女の子がいたんです。その子が私を辰巳屋に連れて行ったんですよ」
「ほう。だったらそいつは、いったいどこにいるってんだ? 現場に駆けつけた者の話じゃあ、子どもなんていなかったそうだが」
「それは──」
勢いで反論しかけ、慌てて言葉を飲み込んだ。彼女自身、明確な答えを持っていなかった。
昨夜。
辰巳屋の惨状に酔いも醒め、自分の為すべきことに思い至ったさくらは、急いで踵を返した。
土間に下手人の足跡が残っているかもしれない。壁際を選んで歩き、月の光が漏れる戸の前で、ふと足を止める。
目を閉じた。
闇の中に、残像が広がる。
それを振り払うように、一度、頭を強く振った。表に出る。あの少女が待っているはずだった。
通りには柳の影が落ち、川を渡る風は心なしか冷気を帯びている。しかし見渡せども、視界の中にあの童女の姿はなかった。念のため辺りを探したものの、見つけることはできなかった。
あの子がどこの誰だったのか、さくらは知らない。黙って消えた、朱色の着物の少女。
――いや。そもそも、あの子は本当にいたのだろうか。
そんな思いが頭を過る。
陽が落ちたらどこも闇に染まる。路地には月明かりも届かない。昼間の喧騒は、嘘のように消えてしまう。あんな幼い子どもがひとりで出歩くことなど、容易にできるものではない。
――よもや、幻覚?
自身番へと走る道すがら、そんなことを考えたりもした。飲み過ぎて、見えるはずのないものを見てしまったのではないか、と。
その度に、さくらは袖を見つめた。
小さな手が一生懸命握っていた場所。わずかに皺が寄っている。
「お前、相当飲んでたんだろ。酔って幻でも見たんじゃないのか」
口元に小馬鹿にした笑みを浮かべて、同心が言った。嘘をつくならもっとマシな嘘をつけと、顔に書いてある。
さくらは背筋を伸ばし、小憎らしい同心の顔を真正面に見据えた。
「いいえ。あの子は確かにいた。私の袖を確かに引きました」
袖の皺がある以上、夢でも幻でもない。朱色の鼻緒も、何かを訴えかけるような目も、はっきりと覚えている。
「もしも嘘なら、私だってもっともらしい嘘をつきますよ。でも、いくら腑に落ちないと言われても、それが実際に起きたことなんです。あの子が姿を消したのが、自分の意思かどうかは分かりませんが」
「かどわかしにあった、と言いたいのか」
「いえ。むしろ、あれは――」
――神隠し。
そう思えた。
しかし、それこそ現実味を欠いている。言ったところで、鼻で笑われるのがオチだ。
「……なんでもありません」
半ば諦めの溜め息をつく。
さくらを窺っていた同心の様子が、わずかに変わった。
「フン。また、かどわかし、か」
憎々しげに吐き捨てる。顰めっ面のまま、控えていた手下に茶を言いつけた。
「ま、飲みな」
湯気立つ湯呑みが、さくらの前に置かれた。
「念のために言っておきますが、茶一杯で、やってもいないことを認めるようなことはしませんよ」
「そんな睨むことはねえだろ。俺が下手人なら、自分から自身番に来るような真似はしないし、何より辰巳屋が襲われたのはお前さんが駆けつける二刻も前だ。検死した医者の見立てだ、間違いない。お前さんが下手人じゃないってことは、先刻承知だったってことだ」
余裕の顔で茶を啜る同心に、さくらの眉がぴくりと跳ね上がった。
――からかっていやがったのかっ。
呆れた狸野郎である。
自分など調べるよりも先に、やるべきことがあったのではないか。
胸中にふつふつ湧き上がる怒りを抑え、さくらは静かに立ち上がった。
「私が伝えるべきことは、すべて伝えました。帰らせてもらいます」
わざと、足音荒く土間に下りる。明るい日差しに障子戸が白く輝いていた。とうに明け六ツを過ぎている。
狸同心は、無言で湯呑みを傾けた。
「失礼っ」
力任せに戸を閉める。拳を握り締めながら歩き出した。肩の辺りに怒りが滲む。
「まったく、馬鹿にしてるよ」
もちろん、探索に当たっているのは狸同心ひとりではない。他の同心や岡引といった連中が、夜通し駆けずり回っていたことだろう。それはよく分かっている。分かっているのだが。
「クソッ。あの狸めっ」
この怒りは消し難い。
大島町から黒江町に差し掛かると、すでに暖簾を出した大店がいくつもあった。まだ人影薄い通りに、丁稚が使う箒の音が響く。
蜆売りの少年が横を過ぎた。夜通しの商いを終えた二八そばの親爺は、疲れた顔で長屋に帰って行く。
あと半刻もすれば、ここにもいつもと変わらない、かしましい時が流れる。陽の下では当たり前のようにある、喧騒と活気。
――皆、まだ知らない。
目覚めを奪われた人達のことを。
あの丁稚にも、蜆売りの少年にも、二八そばの親爺にも、いつもと同じ朝が廻っているのだ。
自分にとっても、同じ朝なんだろうか。
さくらは空を見上げた。
色まだ薄い空に、昨夜とは違う雲が浮かんでいる。土埃舞う前の、澄んだ空気を吸う。体の中の言いようのないどろどろしたものが、浄化されていくようだった。
瞼を閉じる。
命を絶たれた者の想いが耳に残っている。風の音に混じるといっそう耳につき、胸の奥を締め付けた。
「道の真ん中で、どうしたんですか。さくらさん」
そう一声あって、背後から肩を叩く者がいる。
ふと我に返った。
見慣れた長身の青年が穏やかに微笑んでいる。
「総さん」
風が、ゆるりと流れた。
「おはよう。早いね、総さん」
「ええ。仕事帰りなもので」
「ああ、吉原帰りか」
「……さくらさん、その言い方はちょっと。誤解を招くような……」
総が困り顔で苦笑する。
「でも、吉原帰りってのは当たってるでしょう」
「まあ、そうなのですが」
反論を諦め、また緩々と微笑んだ。つられて、さくらの目元も柔らかくなる。
総は彼女と同じ長屋に住まう、琴の奏者である。均衡のとれた体躯は、着流しに薄手の羽織姿。髪は襟足の辺りで切り揃え、一見、見習いの医者かと思わせる風体をしていた。武士や商人にある気忙しさはなく、かといって坊主のように達観したふうでもない。
周りを包むのは、緩やかな空気だった。
総の稼ぎの殆どが酒席での奏楽だ。花街、船宿など声がかかればどこへでも行く。本所深川界隈では、彼を呼んでの宴席が流行りになりつつあった。一晩に三つ、四つと宴を回ることもざらにある。流行り好きの吉原の客にも、ご贔屓さんが大勢いた。
――そんな、安売りするような音ではないのに。
正直、さくらは思う。
弟子を幾人か増やせば、教授代だけで充分食べていけるはずだ。素人耳にも、彼の音色は他のどんな奏者も真似できないものだと分かる。
強さ、穏やかさ、憂い、そして深い闇。
それらはすべて、彼自身から滲み出ている「音」。
彼の元を訪れる者は少なくない。総の音に魅せられた者は、それを我が手にしようと教えを乞う。それでも、少しでも経験のある者はすぐに気が付くのだ。教えられて出る音ではない、と。
ひとり辞め、二人辞め。今は弟子が三、四人いるばかりになってしまった。
「朝までお座敷とは、大変だね」
「お金をいただいていますから。それより、さくらさんこそ朝早くこんな所で、いったい何を」
不意に、さくらの表情が曇った。忘れかけていた怒りが、再び湧き起こる。
「狸野郎に、下手人にされかけてた」
「狸、ですか」
何も知らぬ総には、まったく話が見えない。構わず、さくらは両の手を振り回した。
「あの野郎、人を一晩番屋に留め置いた挙句、小馬鹿にしやがって。許せないっ」
怒りの炎が、音を立てて燃え上がる。
触らぬ神に祟りなし。
総は「狸野郎」の話に触れないほうがいいという、賢明な判断を下した。「そうだ」と、大袈裟に手を叩き、さくらの注意を狸から自分へと向けさせる。
「さくらさん、道場へ行かなくて宜しいのですか」
「道場……」
あまりの腹立たしさに頭が働かなくなっているらしい。こめかみに手を当て、何かあったかなと考える。
「ほら、前に言っていたでしょう。朝稽古の当番が回ってくるって」
「――しまった。すっかり忘れてたっ」
朝の稽古は明け六ツからだ。開始の刻限はすでに過ぎていた。いつもは道場に間借りをするのだが、当番など綺麗さっぱり忘れていたさくらは、ついつい調子よく酒を飲み、そのまま帰って来てしまったのだ。
「……い、急いだら間に合う、なんてことはないだろうか」
表情を一変させ、引きつった笑みを浮かべる。一縷の望みをかけて見上げた総の顔には、「お気の毒に」と書かれていた。
「走って、誠意をみせるしかないのではありませんか」
「やっぱり、そうだよねえ……」
深々、溜め息をつく。
「大丈夫ですか、さくらさん。寝ていないのでしょう?」
心配気な総の言葉に、
「大丈夫。一日くらい徹夜したって、どうってことない。ちょうどよく酒も抜けたし、これからひとっ走りしてくるよ」
「無理はしないで下さい。さくらさんにもしもの事があったら、わたしがひづきに叱られます」
ひづきとは、総の飼い猫のことだ。彼の住まいに居着いた猫は、飼い主よりもさくらにご執心だった。
「とんだとばっちりだね、総さん」
小さい猫に手を焼く長身の男。
その姿を想像して、さくらはくすりと笑った。
さくらを見送った総は、長屋がある永代町へと歩を進めていた。
花が咲くには少々早い時期だ。暖かくなってきたといっても、朝は冷える。凛とした空気に腕を懐に収めた。
それにしても、さくらの体力は並外れている。あの華奢な体で、酒を飲んだ上に夜通しの詮議の後でも稽古を怠けようとはしない。一心に剣に向かう表情は、とても十五の少女ではなかった。
「体を壊さなければいいが」
意志がどれだけ強かろうと、体は正直だ。
夜は蜆の味噌汁でもお裾分けしようと、蜆売りの棒振りを探す。
そこへ、
「センセー」
爽やかな朝風の中に、総を呼ぶ声と小さな鈴の音が混じる。
振り見ると、こちらへ走り来ながら手を振る女の子がいた。鈴の音は、彼女が肌身離さず帯に挟んでいるものだ。
「明」
微笑んで、総がわずかに手を上げる。
「そんなに血相を変えて。いったい、どうしました」
「センセイ、センセイ、センセイッ」
息つく間もなく、明は総に掴みかかった。
「ちょっと、明。落ち着いて下さい」
「落ち着いてなんかいられませんっ。センセイ、さくら様が帰って来ないんです」
「はい?」
「どうしよう。もし辻斬りなんかに遭ってたら。ああ、でもさくら様だったら返り討ち……ってそうじゃなかったら、どうしたらいいのかしら。ねえ、センセイ。どうしよう。こういう時って、お役人様に届けたほうがいいのよね。そういうものなのよね」
縋る目は、微かに涙ぐんでいる。
さくらの事になるといつもこうだ。必要以上に心配性になる。さくら以外のことには、ほとんど我関せずなのだが。
さくらに対してだけ極端に感情豊かなこの少女は、総の数少ない弟子のひとりだった。
「明。さくらさんは――」
「きっと、かどわかしよ。さくら様ったら油断したんだわっ。だって、あんなに素敵なんですもの。あの、竹刀を構える立ち姿。汗を拭う仕草。道場のむさ苦しい男たちをバッタバッタと倒す、しなやかな動き。皆が目を奪われて当然よ。かどわかしだったら、大変! センセイ、どうしたら――あれ?」
おもむろに、掴んだ総の着物に顔を近付ける。そうすると、まるで女の気を探られている亭主のようだ。
しばらく、クンクンと匂いを嗅いだ後、険しい顔で総を見上げた。
「……センセイ」
「はい」
「今まで、さくら様と一緒だったでしょう」
「さすが」
呆れ苦笑しつつ素直に頷く。
反して、明は更に強く襟を引っ張った。
「苦しいですっ、明」
「センセイ、さくら様……怪我をしていたの?」
「なんですか?」
「だから、怪我をしていたのか、聞いているの!」
「していなかったようですが。明、何か――」
「センセイ、さくら様はどこよっ」
手を放した明が、嫌なものを見るように顔を顰めた。先ほどまでの、眩いばかりの明るさはすっかり消えている。彼女の中を、焦りと不安が支配し始めていた。
「音羽の、道場ですが」
「アタシ、行かなきゃ」
踵を返す。
「あっ、明」
総が声をかけた時には、すでに彼女の背中は小さくなっていた。一瞬の内に、姿が人波に消えた。
事情を飲み込めないまま、総は首を傾げるしかない。
気を取り直し永代町までの道を歩きながら、総は小さな溜め息を何遍も繰り返した。
自分の中で勝手に話を進めてしまうところは、さくらも明も似た者同士。そもそも、明は琴よりもさくらが目当てで総の弟子になったようなものだった。
「さくら様とずっと一緒にいたい。傍にいたい。でも、それはアタシには無理だから、せめてセンセイの弟子にして下さい」
そう懇願したあの時の必死な様子を思い出すたび、微笑してしまう。
できるだけ近くにいたいから、興味もない琴を習おうと言い出した明。さくらだけを、ひたすら、一途に想い続けている。
明がさくらを慕う理由を、総は聞いたことがない。聞いたところで、
「センセイには教えません」
一蹴されるのは目に見えている。さくらとの思い出は、それほどまでに大切なものなのだろう。
しかし、誰かの傍にいたいという明の気持ちは、総にもよく分かる。だから、彼女を弟子にしてしまったのかもしれない。
当初は真面目に稽古をしていた明も、近頃はめっきり琴に触れなくなった。さくらを追いかけ回し、甘えてはゴロゴロと至極幸せそうに喉を鳴らしている。
――軟弱者。弟子というからには、せめて稽古するフリでも見せてごらんなさい。
ぼやきを零しながら進めていた歩が、静かに止まった。周囲は総を残して、慌しく流れ始めている。荷車が巻き起こした風塵から顔を背けながらも、視線だけは道の先に据えていた。
辿る道の先には小さな橋が架かる。その欄干に背を預けて、こちらを見やっている青年がいた。
濃紺の着流しをさらりと身に纏い、夜鷹のように顔を濃緑の手拭いで隠す。わざとそうしているものか、肌蹴た襟から白い首元が覗いていた。
川風が、緑の手拭いを巻き上げる。
ちらり、認めた顔は、笑っていた。総の視線を斜に捉えて、ちょいと小首を傾げてみせる。
紅を引いたかのような赤い唇が、開いた。
み、つ、け、た――。
二人の間は、声が届くものではなかった。だが、総にははっきり彼の声が聞こえていた。ゆうるりと、甘い香が言葉と共に流れてくる。
総が思わず、眉を顰めた。
男が笑う。
不意に、強い風が通りを薙いだ。巻き上がる塵に、道行く人が顔を覆う。総も袖で目を塞いだ。
風が過ぎ、ほっと息をついた人々が、またせかせかと歩き出す中で。
総が再び顔を上げた時には、橋の上に、あの青年の姿はなかった。