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【二】


 早春の夜半。


 清夜の月光が皓々と降り注ぎ、風に流れる雲の形までも、はっきりと見てとることができる。


 通りに面した商家はどこも行燈の火を消し、雨戸を立てていた。町中が水の中に沈んだかのように、ひっそりと静まり返っている。星々の瞬く音さえ聞こえそうだ。頬を撫でる風は、幾分暖かくなってきたと感じさせる。


 手に提灯も持たず、天を仰ぎながら、三峰さくらは永代橋を渡っていた。月明かりを浴びて、頭の高い位置に無造作に結んだ髪が艶やかに揺れる。表情も体つきさえ、若侍というにはあまりに幼い。袴姿のその細い腰には、脇差だけが威容ないかつさ添えていた。


 はぁ。


 わざと大きく息を吐き出す。息が白くなるのを見、にこりと笑う。


 川面に月が反射する。魚が跳ねたのか、小さい波紋が広がった。


 さくらは橋の中程で立ち止まり、夜気を深く吸い込んだ。


 酒でぼんやりとした頭が冴える。火照った体にも今宵の風はちょうどいい。このまま雲のように流されてしまえば、どんなに気持ちいいだろうと思う。目を閉じるとあまりの心地良さに眠ってしまいそうだ。


 ――早く帰ろう。


 ゆらゆらと、いい気分のまま眠りにつきたい。足取りも軽く歩を進めた。永代橋を渡りきる。


 そこで、軽やかに運んでいた足が止まった。驚いたふうに片眉を上げる。


 橋の袂の、佐賀町に入る辺り。


 少女がひとり、立っていた。


 飲みすぎから幻を見たのかとも思ったが、そうではないらしい。二、三度頭を振っても、少女は確かにそこにいる。


 女ひとりの夜歩きもはなはだ珍しいが、童女の夜歩きはもっと珍しい。


 朱色の着物に同色の鼻緒。決して充分な明るさではないのに、それでもはっきりと認めることができた。身につけているものの仕立てもよく、髪も綺麗に結われている。大店の娘を絵に描いたような姿だ。


 それにしても、こんな刻限にいったい何をしているのか。まさか家出ではあるまい。歳はどう見ても五つか六つだし、家出ならば何かしら手荷物を持っているはずだ。


 眉根を寄せ、首を傾げていると、少女が駆け寄ってさくらの袖を引いた。


「な、何」


 少女は答えず、口元をぎゅっと引き結び、さくらの目を真っ直ぐに見つめる。


「どうしたの」


 再度問うても答えはない。小さな手がしっかりと袖を握り締める。大きな黒目がちの瞳が、縋るように揺れた。


 ふと、さくらの心がざわつき始めた。体の奥底から、言いようのない不安が沸き起こる。


 息を詰める。


 酔いが引くのが分かった。知らず知らずの内に、目元が険しくなる。


 少女が一際強く袖を引いた。


 ゆっくりと歩き出す。手を振り払おうと思えば簡単にできた。しかし、そんな気など微塵もなかった。


 ――とにかく、行かなければ。


 気持ちの悪い感覚が、歩を進めるごとに増していく。気が急いて仕方がない。袖を引かれながらも、歩が早くなる。


 熊井町に差しかかった時には、二人とも駆け足になっていた。


 夜のしじまに足音だけが響く。少女の袖が、パタパタと揺れていた。


 小さな橋をひとつ渡り、右に曲がる。川端にはいくつもの店が軒を連ねているが、今はどこも灯を落としている。このような刻限まで灯りをともしている場所があるとすれば、吉原くらいのものだ。


 少女の足が、とある店の前で止まった。


 暖簾はしまわれ、戸も閉めていた。掲げた看板に目を凝らす。米問屋・辰巳屋と読める。


「ここ?」


 少女が頷いた。


 それ以上の意思表示はなく、ただただ、さくらを見つめるだけだ。


 困り果てたさくらは、仕方なく戸を叩いた。


 こんな幼い子が夜中にここまで案内してきたことは、どう考えても尋常ではない。何か、よほどのことがあったに違いないと思ったからだ。


 何もなければ、謝れば済む話。そう自分に言い聞かせ、拳を叩きつける。


 ドン、ドン、ドン。


 内の様子を窺う。誰かが動く気配は感じられない。


 もう一度、戸を叩こうと拳を握ったさくらは、何気なく横に視線を動かした。


 一番右の雨戸が斜めになっている。目を凝らすと、立て掛けられているだけと分かった。


 息をのむ。


 不安が、どす黒い確信へと変わる。無意識の内に、左手が脇差に触れていた。


 背をぴたりと戸に付け、中の様子を探る。


 静かだ。


 人の息遣いも、瞬きの音さえない。店の前を流れる、川の水音だけが耳についた。


 右手を戸に掛ける。音を立てぬよう、ゆっくりと動かす。


 土間を支配していた闇に、月光が一筋落ちた。中に滑り込む。素早く目を走らせた。慣れた動作で闇に浮かび上がるものをひとつひとつ確認していく。


 その視線が、土間の真ん中で止まった。


 何か、黒いものがある。


 周りに注意を払いながら、足音を消して近付いた。左手は、油断なく脇差の鍔に添えている。


 傍らに膝をつき目を眇めて、やっと何か分かった。


 男だ。


 うつ伏せに倒れた男。割れた背から流れ出した黒い血が、一面を染めていた。


 男の首筋に触れる。


 冷たい。もう、死んでいる。


 立ち上がり、帳場に目をやった。空の銭箱がひっくり返っている。


 盗賊に襲われたのは一目瞭然。殺された男の状態からみて、相当前に入られたようだ。


 チッ、と小さく舌打ちする。


 足音に構わず、奥へと進んだ。片っ端から障子を開け放つ。


 どこも、血の臭いが鼻をつくだけだった。


 折り重なり、倒れる奉公人たち。


 寝込みを襲われたらしく、白い寝間着が血に黒く染まっている。


 目を見開き、虚空を見つめる者。


 畳に爪を立てる者。


 幼子を腕に抱いている者。


 縄で縛られ、喉笛を裂かれた者。


 女も子供も両手を広げ、苦悶の表情を浮かべながら息絶えていた。


 それはまるで、地獄絵図。


 恐怖と悲しみと、生への執念が渦巻いている。耳を澄ますと、彼らの最期の悲鳴が聞こえてきそうだ。血の臭いと共に、体に黒く絡み付いて離れない。


 軽い眩暈が、さくらを襲った。


 奥歯を噛み締めきつく瞼を閉じる。





 風が、流れる。


 庭木の葉擦れの音が、心を一層ざわつかせた。

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