序&一
花むしろ―― さくらヱ草紙 ――
【序】
月光がさらさらと降り注ぐ。
闇を渡る一条の光。揺れる水面に、影が散る。
それはまるで、風に散り行く無数の花弁。
世の醜さを覆い隠す、
花の筵。
【一】
カヨは、井戸端で皿を洗っていた。
たらいに水を張り、藁を束ねたもので汚れを落とす。井戸から汲み上げたばかりの水が、アカギレの手にしみた。息を吹きかけ、両手を擦り合わせる。
水面に月が映っている。ユラリユラリと揺れる、歪な月だ。
店は今が一番込む時刻である。仕事を終えた人足たちが大半を占めていた。店のほうから、下手くそな歌が聞こえる。カヨは、盥の水を替えながらクスクスと笑った。
小さな飯屋だが、親子三人食うには困らないだけの稼ぎはある。そのぶん、両親は朝から晩まで忙しく立ち働く毎日だった。カヨも日が暮れかかる頃から店を手伝っている。酔っ払いは嫌いでも、父親の包丁さばきを見るのは好きだった。
最後の皿を洗い終える。前掛けで手を拭いて、立ち上がった。
その時。
カヨの耳に、店の喧騒とは違うものが聞こえた気がした。
顔を上げ、耳を澄ます。
人の泣き声に聞こえた。
聞こえるのは目の前の路地からだ。先には、小さな稲荷がある。
カヨは暫く迷った。
店の皿はなくなりそうだったし、次の洗い物も溜まっているだろう。
それでも、視線は暗い路地から離れない。
耳に、泣きじゃくる声が痛々しく響き渡る。胸が締め付けられる。幼い子の泣き声だ。それは甲高く、時にすすり泣きに変わる。
不意に、カヨの周りから店の喧騒が消えた。ひどいだるさが体を襲う。頭がボンヤリと霞がかり、力が抜けた。足が意思とは無関係に動く。
まるで、雲の上を歩いているみたいだと思う。
ふわふわ、ふわふわ。
心地良い感覚が、足裏から伝わる。本当に土の上かと足元を見るも、暗くて何も見えなかった。
暗い、暗い道だ。
風の音も鳥の鳴く声もない。耳に絡みつくのは、悲痛な泣き声だけ。
――泣かないで。今、行くから。
どこに向かっているのかも分からないが、確かに声は近付いている。
泣かないで、泣かないで、一緒にいてあげるから――。
やがて、足が止まった。
視界の中に、小さな稲荷が現れる。その前で、赤い着物を着た少女が蹲っていた。両腕でしっかり膝を抱え、顔を埋めている。肩が小刻みに震えていた。
「どうしたの? どこか痛いの?」
顔を覗きこんで、カヨが声をかけた。
少女の体はカヨよりももっと小さい。カヨは十になったばかり。この子は六つくらいだろうか。
迷子かなと、カヨは漠然と考えた。
すすり泣きが小さくなる。少女の肩がわずかに動いた。
顔を、ゆるり、上げる。
頭上で、鴉が飛んだ。