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翌朝、私はいつもどおりの時間に、主の部屋の扉をノックした。
「どうぞ」
今日も室内は朝日にあふれていた。主が自分でカーテンを引くためだ。もう、きちんと隙なく装ってソファに座り、何かの書類を確認している。
「おはよう」
主が少し顔を上げ、微かに笑んだ。その変わらぬ様子に、ほっとした。
「おはようございます」
私はテーブルに朝のお茶を用意した。主はカップを手にして口を付けながらも、書類から目を離さない。すっかり目が覚めているようだ。
人間、変われば変わるものだと思う。彼女は領主に就任するまでは、非常に朝が弱かったのだ。
ハンナが起こしにいっても、もう少し、あと少し、と呟いては、布団をめくられた分、中にもぐりこんでいき、しまいには枕の上に足がのっかっているというありさまだった。
どうしてそれを私が知っているかというと、業を煮やした前御領主に言いつけられて、その役目が朝食の用意に忙しいハンナから、私に引き渡されたからだ。
おっかなびっくり初めて彼女の寝室に足を踏み入れて、恐る恐るベッドを覗いた時には、心底困惑したものだった。
膝までめくれあがったネグリジェと、丸いお尻が布団から頭のあるべき位置にはみ出していて、反対に他は全部布団の中に入っていたからだ。
相手は幼いとはいえ女の子だし、しかし旦那様の言いつけだ、起こさないわけにもいかない。
私はたっぷり悩んで、悩みぬいて、とりあえず、ベッドの足元にまわった。つまり、彼女の頭がある方へと。
そうすると、こんもりとした布団に遮られて、あまり彼女の足や尻が見えなくなった。私は少し落ち着いて、平静を装って、彼女に声を掛けることができた。
「おはよう、サリーナ。起きて」
もぞもぞと布団が動き、すみっこから、彼女が頭だけ出してきた。
「エディアルド?」
あの時の彼女の顔は、今でも忘れられない。鮮明に覚えている。
半分しか目が開いてない寝惚けた顔で、ぼーっと呟き、それから両目が見開かれたと思ったら、慌てて布団の中に逆戻りしていった。
でも、隠れているのは上半身だけで、細っこい足がじたばたしているのが丸見えなのだ。
おかしいったらなかった。
「なななな、なんで、いるの!?」
「旦那様に頼まれた。せっかくのハンナのご飯が冷めてしまうって」
「わ、わかったわ。すぐに起きて行くから、エディアルドは先に行ってて!」
「本当に? すぐに起きられるのか?」
「起きる! 起きるから!」
「そうか。じゃあ、食堂で待ってる」
そんなやりとりを、毎朝、手を変え品を変え、どれくらい繰り返しただろう。
無邪気な彼女の寝顔が、どんなに可愛らしく、愛しかったことか。気持ち良さそうなそれを目にするたびに、不思議と幸せで満たされた気分になった。
それが、領主の就任と同時に、ぱたりとなくなった。どんなに夜が遅くても、起こしにいけば起きており、着替えて私の用意する茶を待っている。
一晩にして、そのように変わらなければならなかった重圧は、どれほどのものだっただろう。けれど、彼女は見事にそれを乗り越えた。そして今では、昔の片鱗さえ見せない。
本当に、我が主は又とない人なのだ。
主は書類を紙挿みにしまって、それを胸に抱き締めて目をつぶった。呼吸にして五回分ほどだろうか。それから目を開け、私へとまっすぐに視線を向けてくる。
挑むような、生気あるまなざしに、私の心臓がどきりと跳ねた。
「エディアルド」
瞳がきらめいた。見たことのない表情で、彼女は微笑む。……そう、とても、挑戦的に。
「覚悟しなさい」
私は戸惑って、すぐに返事ができなかった。
なんのことだかわからなかった。いったい、何を覚悟しろというのか。
彼女はそんな私を楽しむように眺めてから、まなざしを和らげた。
「この本の出版に、私の、いや、ライエルバッハの命運を賭ける」
「は」
私は表情を引き締めて、短く返答した。それはまったくもって、覚悟を必要とする一大事だった。
メディナリーの恋愛小説ごときを使って、命運を賭けるなど無謀すぎる。ここは諌めるべきだと理性は告げていたが、私はそうするつもりはなかった。
なぜなら。
主に迷いが見られなかったから。
彼女はいつになく、凛としてそこに在った。確たる意思を持ち、私にはっきりと、その望みを示してみせたのだ。
それを、私が拒むわけがない。
主の望みを最大限叶えること、助け、支えること、それが私の役目であり、なによりも本懐だ。
「ロランに、挿絵画家のジェンを伴って……。やめた。やはり時間が惜しい。私が出向こう。エディアルド、朝食を食べたら、すぐに出かける用意を」
「かしこまりました」
謹んで命を承る。
主の高揚が伝わってきて、私も緊張しつつも、胸が踊る感覚を味わった。