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金の女領主と銀の騎士  作者: 伊簑木サイ
第七章 真実は小説よりも奇なり
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 傷を付けなおしてもらって、私は寝室に置いてある寝酒のうち、一番きつい酒を持ち出してきた。服が濡れないように上着とシャツを脱ぎ、洗面用の器の上で瓶から直接傷に振りかける。垂れる雫を適当に拭き取ったら、手当ては終了だ。

 かたわらに置いておいたシャツを羽織ってボタンを留めていると、傍で見ていたサリーナが、心配そうに言った。

「まだ血が出ているわ。やっぱり、お医者様に診てもらいましょう」

「たいした傷ではありません。すぐに止まります」

 と言った先から、液体が肌の上をすべる感覚があって、したたり落ちる前に布で押さえた。服を汚すと面倒だ。血は染みになってしまう。上等な品を、この程度で駄目にしてしまうのは惜しかった。

「……しばらく押さえていれば、血も早く止まるでしょう」

「でも、」

「騎士団では、もっと酷い傷でも同じ方法ですませていましたよ」

 傷口は、洗って包帯で押さえる。後は本人の体力と運しだいだ。

「それより、おなかがすいたでしょう。軽食を用意させておきました。……お茶は、もう一度用意させましょうか」

 私は居間に行こうと体の向きを変えた。人払いをしてあるから、自分で呼びに行かないと言いつけられない。すると急に、サリーナに腕にしがみつかれた。

「いいの、必要ないわ。それより少し休んで。じっとしてて。お願い」

 ぐいぐいと腕を引かれる。おとなしく彼女にされるままについていくと、ベッドの上に座らされた。それから彼女は自分で軽食ののったワゴンを引いてきて私の斜め前で停めて、それが自分の前になるように私の横に座った。手を伸ばしてカバーを取り去り、温石の上からポットを持ち上げる。彼女は二つのカップにお茶を注いだ。

「どうぞ」

 一つをソーサーごと差し出してくる。私は片手しか使えなかったために、カップだけ取って口をつけた。思ったより冷めていなかったことにほっとする。

「あなたは何を食べたい?」

「私は先に食べたのでいりません」

 食べようと思えば食べられたが、口を動かすと表皮の傷も動いて、布と擦れて痛いと、話していて気付いた。あまり動かさないほうがよさそうだった。

 サリーナは一人で食べはじめた。下着姿のままだ。私も上はシャツ一枚である。お互いとても人前には出られない姿だ。しどけないと言っていい。ふと、そんな間柄になったのだな、と感慨深く思った。

 目の下で揺れる、ゆるやかなウェーブのかかった豊かな髪をなんとなく見ているうちに、ひどくもつれている箇所を見つけた。これでは櫛も入らないだろう。私はもつれをほどこうと、カップをワゴンに戻して、髪に指を入れた。そうして、彼女が食べるのに集中しているのをいいことに、しばらく彼女の髪を漉いて感触を楽しんだ。ふわふわで艶やかで、とても触り心地がよくて、気持ちいい。

 時折彼女の動きにあわせて、ひっかけて引っ張ってしまわないようにと指を止める。おもにワゴンに手を伸ばしたりする時だ。彼女が深くうつむき、私はまた手を止めて、彼女の動きが安定するのを待った。おや、と思ったのは、数拍置いてからだった。彼女はかじりかけの焼き菓子を膝の上におろすと、小さな声で、ぽそりと言った。

「……ごめんなさい」

「どうしました?」

 私は驚いて、彼女の顔を覗き込んだ。元気がなく、うちしおれた表情をしている。

「嫌、だったわよね、勝手にあんな本を出して」

 サリーナはますます弱々しくうつむいた。謝らない、と言い張っていたのは、やはり、後ろめたさの反動だったらしい。素直になってしまえば、こんなにも罪悪感にうちひしがれている。

「謝らなくていいんです。あなたの気持ちが、私は嬉しいのですから。私がどれほど、あなたの傍にいたいと望んでいたと思いますか?」

 彼女はちらりと私を見上げた。微笑みかければ、体を傾け寄りかかってくる。私はその肩を抱いた。

「理由を知った今では、むしろ、あの本にあなたの姿が描かれていないのが惜しいくらいです。どうせならば、あなたと並んだ姿絵だったらよかったのにと思います。私が愛している人が誰か、誰もがわかるように」

 主人公の少女の姿は、どれもが後姿か、遠景の中に佇んでいるものしかなかった。私はそれを、歯がゆく感じたのだ。これは、サリーナのはずなのに、と。

 もちろん、彼女の顔が巷に知れることで起きる危険を考えれば、とてもできる話ではないとわかってはいるのだが。

「それはできなかったの」

 サリーナは急に顔を上げて、しっかりと私を見て、きっぱりと言った。

「小説を利用しようとは思ったけれど、それは二の次で、ちゃんと読む人たちに楽しんでもらえるものを提供するのが、大前提なの。あの話は、憧れの騎士様に振り向いてほしくて、平凡な女の子が四苦八苦するお話よ。だから、読んでくれる人たちにも、サーシャと一緒にどきどきする気持ちを共有してもらいたくて、主人公になりきれるように、わざと顔は描かせなかったの」

 私が考えていたのとまったく違う理由を、彼女は怒涛の勢いで語りきった。

 本のことになると、こうやってすぐに食いついて、夢中になって話しだす。出会った頃から変わらない。謝って落ち込んでいたのも、どこかへ押しやられつつあるようだ。

 私は駄目押しとばかりに、もう少し本の話題を振った。

「そうだったんですか。『紫の瞳』の方もですか?」

「いいえ。あちらは反対にしたの。王女なんていう雲の上の存在を想像しろと言われても、なかなかできないものでしょう? だからわざと、王女自身を描かせたのよ。あ、王女の性格は、流布されている噂に添っているから、本物とは似ても似つかないのよ? それはもう、非の打ち所のない完璧な淑女なの。挿絵の方も、どうせなりきってもらうならと、絶世の美貌にして、毎回違う豪華なドレスをまとわせたり、優雅な小物を持たせたりと、若い女性の憧れそのものに描かせているわ」

「では、騎士の姿はあまり描かれていないのですね」

 私にとっては、それが重要だった。さりげなく尋ねると、サリーナは大きく頷いた。

「ええ、そうよ。騎士の姿は遠目で、しかも顔が判別できないものにしてあるわ。……だって、たとえ絵の中でも、架空の話でも、他の女といるあなたの姿なんか、見たくなかったんだもの」

 彼女は最後のところは目をそらして、またぽそぽそとした声に戻って言った。少し唇を尖らせているのは、嫉妬しているからだろうか。

 あまりに可愛らしい様子に、私は我慢できなくなって、手を彼女の肩からうなじへと滑らせた。後ろ頭を支えるようにつかんで、少し仰向かせる。それから邪魔な頬を押さえている布を放り出して屈んで、薄く開いた彼女の唇に口付けた。

 柔らかく温かく瑞々しいそれは、まるで甘い果実だ。好きなように齧ってしまいたい。だが、そうしたら今度こそ途中でやめられなくなるだろう。私は触れるにとどめて唇を離した。

 ……実は先程、この噛み跡をつけてもらうのに、少々彼女の体を弄っていた。

 なるべく痛くないようにと、遠慮がちに噛み付くばかりだったサリーナに、もっと思いきりやらなければ傷にならないと要求したのだが、それでも優しい彼女は躊躇いがちにしかできず、結局私は彼女の下着の下に手を入れて、瞬間的に力が入るように、あちこち素肌に指をはしらせたのだった。

 しかし、この後の予定を考えて、触るだけでやめなければならず、欲求不満もいいところなのだ。その劣情の残り火が疼いて、今度こそ本格的にベッドに押し倒したい欲求が高まってきて、私は自分の意識をそらすために、まったく違うことを口にした。

「そういえば、『紫の瞳』の最新刊を、わざわざ出版前に王に見せたのはなぜですか?」

「え?」

 サリーナは、寝耳に水とばかりに目をしばたたいた。

「王がそんなに熱心な読者だったとは、聞いたことがありません。あなたのことだ、何か理由があるのでしょう?」

 そう尋ねながら、キスをした仰向かせ気味な体勢から、彼女を開放した。ゆっくりと彼女の体を立てなおし、そうして手を離して距離をあける。私自身も向き合うようにと姿勢を変え、それでようやく、話し合う雰囲気になった。

 サリーナはいくらか考えてから、口を開いた。

「あの話、次が最終巻なの。最後は、王女の縁談がまとまったところで終わるのよ」

「まさか、ボワールの王太子とですか?」

「小説の中では、『紫の瞳を持つ異国の王子』とだけれどね」

 いずれにせよ、今回のことがある前から、この人は王女に対して策をめぐらせていたということになる。突然思いついて、王女の縁組を要求したわけではなかったのだ。

 ああ、そうかと、やっと納得がいった。だから王は再三にわたり、参内せよと申し付けてきたのだろう。ライエルバッハの進言(・・・・・・・・・・)の真意を、謁見でさぐりたかったのだ。

 言ってくれればよかったものを、と思うが、小説の内容に係わることは私に秘密にしておかなければならなかったのだろうから、恨み言は言えない。

 思わず小さな溜息をつくと、彼女が琥珀の瞳を翳らせて、申し訳なさそうに謝った。

「黙っていてごめんなさい」

「わかっています。いいんですよ」

 琥珀の瞳が再び明るい色を取り戻すのを見ながら、そういえば、ボワールの王太子は私と同じ紫の瞳をしているとどこかで聞いたなと、思い出した。いつだったか、……そうだ、去年の冬、吟遊詩人のルディウスが、ボワールの王太子に王女を讃える歌を幾晩も歌って聞かせたという話の中でだ。

 この人は、その話を、殊に喜んで聞いていた。ということは、あれはおそらく、

「……ルディウスに、王太子が王女に興味を持つきっかけを作らせたのですね。……いや、紫の瞳を持った王子、でしたか」

「ええ、そう」

「いったいなぜ。それに、いつからですか」

 疑問ばかりで混乱した頭からひねり出された質問は要領を得ないものだったが、彼女の答えは簡潔だった。

「初めから」

「初めから?」

 サリーナは、こくりと頷いて、少し人の悪い顔(・・・・・)をして笑んだ。一見、機嫌良く見えるが、目が笑っていない。むしろこれは、静かに怒っている時の表情に近い。その印象がはずれてなかったのは、次の言葉ですぐに知れた。

「ええ。五年前から。私は初めから、あなたを傷つけたあの女を許す気はなかったの」

 私は彼女を凝視して何度か瞬きを繰り返した。

「出会った頃からということですか?」

「そう。騎士であることに何よりも誇りを持っていたあなたから、騎士の位を取りあげた。それも、自分のことしか考えない不用意な言動で、何の咎もないあなたを貶めて、傷つけた」

「……あなたは、何があったか、知っていたのですか?」

 彼女はこれまで一度も知っている素振りを見せなかった。けれどもしも知っていたとしたら、私はすっかり欺かれていたということになる。まさかと思いつつも、聞かずにはおれなかった。

「詳しくは知らなかったわ。この前、ブライス卿に会うまでは。でも、あらゆる伝手から情報を集めて、だいたいの推測はしていたの」

 その答えに、私は唖然とした。確かに、ライエルバッハたるこの人の行った推測だ、常人には及びもつかない精度を誇るだろう。しかし、それでもあくまでも推測でしかない。それを、この人は。

「……間違いだったら、どうするつもりだったんですか」

「どうもしないわ。王女があなたを諦めていないことは明白だったもの。あの小説は、最終的に、あなたに手の届かないところに、あの女をやってしまうのが目的だったの」

「……そうだったんですか」

 私は気の抜けた返事をした。それ以外、どう言えよう?

 小説を使って、恋敵の失恋を演出、仕舞いに隣国へ嫁がせ、遠くへ追いやる。そんなこと、この人の他に誰が考えると? いや、考えたところで、実行できまい。それをすっかり、やりおおせてしまったのだ。

 私が何も言えずに黙っていると、サリーナはそれをどうとったのか、居心地悪そうに言い訳をはじめた。

「あのね、マイクが書いているだけあって、それはそれは美しくも儚い、叶わぬ恋の物語になっているのよ? あれは、恋愛小説の最高傑作の一つに数えられるに違いないと思うわ。……だから、その、ね、あの小説が、餞別になればいいと思っていたの。ほら、いちおう、私たちが出会えたのは、あの人のおかげと言えなくもないから。それに、あなたに惹かれる気持ちは、よくわかるし。やったことは許せないけど、彼女の気持ちまで否定する気はないの。だから、物語の終わりは、あなたの瞳の色とよく似た、紫の瞳を持つ王子との出会いにしたのよ。王女は、その色に、新しくも変わらない愛を見つけるの」

 新しくも変わらない愛? それはいったい、どんなものだ? サリーナはなにやらうっとりと語ったが、私にはまったく見当もつかなかった。

「……そうですか」

 私の気のない返事に、サリーナははっと我に返ると、私にうかがうような視線を向けてくる。それから、そろっとこちらに寄ってきた。遠慮がちに下から顔を覗き込んで、おそるおそる聞いてくる。

「……呆れてしまった?」

「いいえ、少しも」

 もうその上目遣いなまなざしと表情だけで、私の心は鷲掴みにされていた。その上、すぐ下にある薄い下着からのぞく胸の谷間に、目は吸いつけられてしまっている。その先がどうなっているかよく知っているから、よけいに始末が悪い。

 私はとりあえず、彼女がいまだ持っている、齧りかけの焼き菓子を取り上げて、ワゴンの上に戻した。誘惑されるままに、さっき手放したばかりの彼女の体へと手を伸ばし、引き寄せる。やんわりと、しかし逃げられないように絡めとり、腕の中に閉じ込める。

「あなたの手腕に、惚れ直しましたよ」

 本当に、目が離せない。次から次へと思いがけないことばかりする。この人は、今度はどんなことを望んで、何をやらかすのだろう。

 願わくば、次は私にも手伝えることがあるといいのだが。私には、この人と共に紡ぐ未来が、楽しみでしかたなかった。

「愛しています、サリーナ。私には、あなただけだ」

 私は、嬉しそうに、花開くように笑った彼女に、何度しても飽きない、それどころか、いくらやってもし足りないキスを、心ゆくまですることにした。

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