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金の女領主と銀の騎士  作者: 伊簑木サイ
第七章 真実は小説よりも奇なり
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 動こうとしない私の代わりに、祖父が血判書を受け取ってきて、私に渡した。

 『この血は王国のために』。その文言の後に名がサインされ、血判と共に並んでいる。名には知ったものも知らないものもあったが、知ったものの中に、アストルや団長、それにこの男のものまであって、私はさらに困惑を深めた。

御身(おんみ)がお望みならば、お手を煩わせず、自ら命を断つ覚悟はできています。どうか釈明の機会をお与えください」

 その申し出に、目を眇めて奴を見た。ハルシュタットの名と家訓を目にして、私も少し頭が冷えていた。

 奴の頭を下げ続ける姿に、奇妙な感じを受ける。この男は五年前まで私の上司で、つき従っていたのは私だった。それが、私に対して、これほどへりくだっている。

 これを届ける者は、名を連ねた者ならば誰でもよかっただろうに、こうまでして、他の誰でもないこの男がやってきた。それにもそれ相応の理由があるのだろう。

「……わかった。聞こう」

 私はいったん、矛先を収めることにした。

 シド・ブライスは、その場で拝命の礼をし、それから話しはじめた。


「まずは、『外ハルシュタット公』についてご説明いたします。実はこれは単なる通称でございまして、正式な身分や名ではございません。ハルシュタット本家に何事かあった時、新たな宗主として仰ぐ方を、我々がそうお呼び申しあげているものです」

「我々とは?」

「そこに名を印した、代々の外ハルシュタット公の血に連なる者たちです。貴方様のようにルドワイヤの外に出られた方は、いずれも次男以下の方たちばかりでしたから、他家に婿養子として入られてきました。ですから、名は変わり、騎士でさえなくなった者も多くおります。ですが、家訓とこの身に流れる血の誇りを、忘れた者はおりません。それだけは、父から子へと、必ず受け継いできたのでございます。我ら一同、いざまさかの時は、外ハルシュタット公の下に集い、粉骨砕身、お家の再興と国のために、尽くす所存でおります。その血判は、名を違え、散り散りとなってしまっている我等の存在を、知りおいていただきたいとの願いから、お届けした次第にございます」

 私に渡したついでに、傍に立って血判書を覗き込んでいた祖父が、これはまた、と賛嘆の声を漏らした。

 さすがに辺境伯自身のものはないが、各地の辺境伯の縁者の名が揃い、王都の武門の家柄として有名どころもいくつか名を連ねる。それだけでなく、官僚として一派を担っている者の名や、大領の領主、大商人の名もあった。

 大臣や宰相を輩出するような大貴族の家柄がないのが、ハルシュタットらしいといえば、らしいかもしれなかった。昔から、王家やその周辺を固める者たちとは、相容れないのがハルシュタットなのだ。

 それはさておき、これはとんでもない代物である。こんなものの存在を、王家に知られたらどうなるか。

 ライエルバッハの名を持った私に託すには、あまりに物騒すぎるものだった。王を裁く権限を与えられているライエルバッハが、国内最大級の武力を持ったに等しくなるのだから。

「なぜ、今頃こんなものを持ってきた」

 私を旗印にして、王家と事をかまえようとしているのは誰なのか。そんなものに踊らされる気はなかった。サリーナや子や領民を、無駄な戦に巻き込むわけにはいかないのだ。

「お疑いになるのも無理からぬと重々承知しております。ですが、他意はございません。貴方様が、ようやくお子を得られたからでございます。ルドワイヤの外に出た男子の第一の目的が、血を残すことなのは、御身が一番よくご存知のはずです。貴方様はその目的を果たされた。……それが、実はなかなかに難しいことであるのは、身をもって知られたことと存じます。実際、本家からは一代ごとにお一人が外にお出になっていますが、ここ二代は、生涯一人身でいらっしゃいました。お二方だけではありません、代々そういう方が多かったのでございます」

 そういえば、ルドワイヤを出る時に、そんな話を聞いた覚えがある。子を得ぬままに亡くなったから、王都に行っても、叔父や大叔父やその家族をあてにはできないのだと。だから、ラスティと二人、己の才覚で切り抜けねばならぬと。

「……それが、いつでも、外ハルシュタットの問題でございました。どんなに本家と血が近かろうと、血を残せない方を宗主にあおぐわけにはまいりません。……そういうわけで、そのうちしかたなく、子を持てた者のうち、ハルシュタット本家に最も近い血筋の者が、外ハルシュタット公として仮に立つことになったのでございます。……不肖ながら、これまでは私が務めさせていただいておりました」

 その発言に、さらに疑念ばかりが大きくなる。五年前、この男によって、私は危うく死にかけた。それは、外ハルシュタット公としての権力を手放したくなかったからではないのかと、考えられるからだ。

 だが、私の中の何かがそれを否定していた。これほどに嫌悪感をつのらせる相手でありながらも、それが判断材料とならないほどに、そんなものに拘泥し執着する男ではないと、よく知っているからかもしれなかった。

 騎士見習いの頃から仕え、導かれ、騎士となってからは従ってきたのだ。いつかはこの男に追いつきたい、追い越したいと願った相手だった。それが、そんな俗世のものにしがみつくはずがない。

 ……たとえ、あんな卑劣なまねをする男だったとしても。

 その考えに辿り着いた瞬間、この男を前にしても、冷静であろうと、思い出すまいとしていたあの出来事が鮮明によみがえり、一瞬にして逆上に近い感情が、頭の天辺から体のすみずみにまで突き抜けていった。

 ぎり、と歯が軋み、握った拳に、爪が掌に食い込む。

 それでも、睨みつけるだけで動かなかったのは、背後にサリーナがいるからだった。この男が素手であることなど、関係ない。どんな状態からでも戦える一流の騎士を前にして、彼女の傍を迂闊に離れるわけにはいかなかった。

 そんな私の目の前で、奴は両の拳を床につき、深く頭を下げた。

「畏れながら、五年前のことは、次代たる御身を守るためにしでかしたことでございました。とはいえ、たいへんご不快であったと思います。誠に申し訳ございませんでした」

 それを、そのまま信じて許せと? そんなもの、できるならとっくにしている。とうてい受け入れられない出来事だったからこそ、こいつを殺して、自分もこの記憶ごと消してしまいたいと思ったのだ。

 私は激しい自分の感情を抑えることができず、かわりに沈黙を保った。サリーナの前で、怒りにまかせて動くなどという、無様なことはできなかった。

「理由を、お聞きしてもよいかしら」

 鈴の音のような声と共に、背後で気配が動き、握った左の拳を、温かい小さな手に包み込まれた。彼女が私に寄り添って立つ。私は少し、心が宥められるのを感じた。

「王女に、想いを寄せられていたからでございます」

「何を言っている。あれは噂にすぎない。私には、そんな覚えはいっさいない」

 下げっぱなしだった奴の頭が上がった。呆れたような、哀れむような、困ったような色が、見え隠れしている表情だった。

「そう言い切られるほどに、貴方様は王女の想いを受け付けられなかった。そのようなことを夢にも思わず、だから、まったく眼中になかった。……それがよけいに不敬だと、王女を信奉する一派を刺激し、王家の威信を傷つけていたのです。当時は、貴方様の暗殺計画まで何度もあったのですよ。特に、騎士団内の王女派は過激で、私やアストルは、襲撃計画を察知するたびに計画実行現場に駆けつけたものでした。……ところが、なぜかそういう時に限って、貴方様はその場所に近付かなかった。てっきり、事前に察知していたのかと初めは思っていましたが、よく聞けば、『なんとなくそちらには行きたくなかったから』と仰る。その勘の鋭さには、唖然としながらも、感心したものでございました」

 でたらめを、と言いたかったが、記憶に触れるものがあった。息せき切ったアストルやこの男に、どこにいた、どうして今日は道を変えたのだと、何度か詰め寄られたことがあったのだ。

 取り急ぎ私を探していたようだったから、急用でもあるのかと尋ねれば、いや、ないのだが、と言を濁した。そして、危急の際に居場所がわからないのは困るだろうと、こじつけのような説教になだれこむのが常だった。非番の日にどこへ行こうと勝手だろうと、ずいぶん鬱陶しく思ったものだったのだ。

「ただ、誤解されないでほしいのは、王家や王女がそのようなことを企んだのではないのです。王家はむしろ、この機会にハルシュタットと強いつながりを持ちたいと望んでいました。そうでなくても、ハルシュタットから託された者をそのような理由で死なせれば、関係の悪化は免れません。いっこうに進展しない仲に焦れる王女を引き止めていたのは、状況を憂慮していた王でした。しかし、王女は我慢できず、とうとう(おおやけ)の場で、あなたを護衛に望むと口にしてしまった。もしもそのまま傍付きの護衛となれば、なしくずしに二人の仲も公認とされていたことでしょう。なにしろ、部屋の中で二人きりになることも、護衛ならば許されるのですから」

 その状況を想像して、ぞっとした。不敬かもしれないが、王女相手にそんな気持ちにはとてもなれなかった。

「そうなったら、貴方様は飼い殺しにされたはずです。政略的に王女をただの騎士に降嫁はさせられない。しかし、恋人や愛人としてなら、置いておける。東方の雄、ハルシュタットの御曹司を手元に縛り付けておけるのです。王家は、けっして逃すまいとしたでしょう。たとえ、どんなにあなたが違うのだと弁明したとしても。……それだけは、避けなければなりませんでした。だからと言って、あのやり方が正しかったとは、私も思ってはおりませんが。火急のことに、他に手段が思いつけなかったのです」

 嘘だと断じることはできなかった。だが、真実だと受け入れるには足りなかった。五年も経って、突然こんなことを言われても、あんなことをした男を信用することが、私にはできなかった。

「何があったのか、そろそろ教えてはもらえんか」

 祖父がのどかな調子で、口を挿んだ。

「いいかげん、気になってしかたないのだ。おまえの運命を変えたそれを知らんうちは、おちおち棺桶に足を突っ込むこともできない」

 全員が私に注目していた。私はあの件に関して、知った者は誰であっても殺すと団長に誓っている。どんな目で見られようと、それを撤回する気はなかった。あれを、誰にも知られたくはない。特に、妻であるサリーナには、絶対に。

「団長への誓いを撤回する気はありません」

「ならば、それでもよい。これだけ生きれば、今死のうが、明日死のうが、さほどの違いはないからな。さて、教えてもらおうか」

 祖父は奴の傍に行こうとした。その腕を、血判がくしゃくしゃになるのもかまわず、書状を持った手で掴んで止める。

「やめてください。そんな馬鹿なことで、私にあなたを殺させる気ですか」

「馬鹿なことなものか。……その、おまえの中にわだかまっているものを、私があの世に持っていってやる。私を斬り捨てて、それでそれも、きれいさっぱり、いいかげんおまえから斬り捨てよ。おまえは、もう、そんなものにこだわっていてはならないのだ。おまえには、守らねばならぬものがあるだろう?」

 そんな無茶苦茶なことができるものか。そう思ったが、真剣なまなざしに、胸を衝かれた。返す言葉も出てこない。

 祖父と見つめ合う。祖父が私を侮っていないのはわかった。自分が立てた誓いだ。相手が誰であっても、私は果たさなければならない。祖父は、どうしてもそうしたいのなら、そうすればいいと本気で思っていた。その代わり、この件は、これきりにしろと。

 ……わかっている。わかっているのだ。こんなわだかまりを抱いたままでは、いつか判断を誤る。今もそのせいで、この男の言葉を色眼鏡でしか見られない。

 けれど、どうしても、これを捨て去ることができない。強固に胸の内に棲みつき、どうしたらいいのか、自分でもわからないのだ。

 祖父は一歩も引かず、だから私も視線をそらせられずに、奥歯を噛み締めた。

「一つ、申しあげたき事がございます」

 祖父と私のこう着状態を破ったのは、奴の声だった。祖父も私も、奴に目を向ける。

「畏れながら、私があんなことをしたのは、腕だけです」

 私はそれに、大きく眉を顰めた。

 嘘を言うな。他にも何をされたか、まざまざと感触が残っているというのに。

「胸筋には触れましたが、それだけだったはずです。……私もさすがに男色の気はないので、それ以上は。ただ、貴方様をだまし、世間体を傷つけ、騎士団から遠ざけられれば、それでよかったのです。ですが、申し訳がたたないことに、私は貴方様の誇り高さを見誤っておりました。私は、あのことを貴方様がすぐに仰ると思っていたのです。何があったのかが(おおやけ)になれば、処罰を受けるのは私でございました。私はそれを覚悟しておりました。でも、貴方様はそれを良しとなさらなかった。命よりも、騎士としての誇りを守られた。しかも、団長に誓いまでたてられ、私の口まで封じられた。……あの時は、どうしたらよいかと、本当に焦りました」

 決定的なことは何も言っていないが、察しのよい祖父やサリーナには、おおよその見当がついてしまうだろう。

 よけいなことを口にしてくれたな。

 睨みつければ、奴は顔を伏せた。だが、最後にニヤッと笑ったのが隠しきれていなかった。……このペテン師がっ。

 奴の人の悪い笑みに、今度こそ、言っていることが真実だと信じられた。それこそ、不思議なくらいにすんなりと、腑に落ちた。

 思えば、いつもいつもいつも、そうだった。そうやって部下も上司も敵も全部ひっくるめてペテンにかけては、この男はニヤニヤしていた。だから、いつか、ぎゃふんと言わせてやると、心に決めていたのだ。

 くそ。だったら、この五年の煩悶はなんだったんだ。

 五年前、部屋を訪ねてきたこの男に後ろから首を絞められ、気絶させられた。目が覚めた時には、半裸でベッドの上に縛り付けられ、『俺好みのいい筋肉に育ったな』と、腕を指先から肩口まで舐められて、胸筋を撫でまわされた。

 そこまでしかされなかったのは、てっきり、私が縛り付けられたベッドの支柱を折って、抵抗したせいだと思っていた。

 出会った時からこの男の口癖は、『筋肉付けろ』で、腹筋に全力で拳を打ち込んでは人を悶絶させて、『まだまだ足りんぞ! 腹筋百回、背筋百回、片腕立て伏せ二百回!』と鍛錬を命じる鬼上司だった。だから、とうとう筋肉好きが高じて、あんな変態行為に及んだと思ったのだ。

 そんなこと、誰かに知られるくらいなら、死んだ方がましだった。騎士を名乗っている者が、気絶させられた挙句に、女みたいに体中嘗め回されてまさぐられたなんて、言えるものか! 絶対に、それ以上も想像されて、噂されて、そういう目で見られるに違いない。そんなことには、耐えられなかった。

 それに、あのせいで、男という男に嫌悪感を抱くようになってしまっていた。とてもではないが、筋肉だらけの騎士団になぞいられなかったのだ。

 牢の中で、精神的に騎士団にいられそうもない己の惰弱さに、どのくらい絶望したことか。父にも兄たちにも、顔向けできないと思った。この恥をすすぎ、弱さを克服するか、そうでなければ死か。それしか考えられなかった。

 悔しさとおぞましさで、どれほどの夜、眠れなかったか!

 それが、ペテンだったと?

 ふざけるな。

 私はサリーナの手をそっと払って、その肩を抱き、彼女を連れて暖炉へ向かった。そうして、反対の手に持っていた血判書を、ちろちろと燃えている火の中に放り込む。

 私は振り返って、シド・ブライスに言った。

「こんな紙切れ一枚で、私をかつげると思うな。忠誠を示したいというなら、子弟をトリストテニヤによこせ」

「人質でございますか?」

 私がそんなものを欲しないのはわかっているのだろう。そんな言い方で真意を問うてくる。

「違う。これからは、剣だの槍だの振り回しているだけでは、どうにもならない時代がくる。その時に、時代遅れの蛮勇で足を引っ張られてはかなわん。だいたい字の一つも読めないで、まっとうな伝令のやりとりができるか。教育を施すから、何年か学びに来いと言っているのだ」

 今は扱いが難しく、さほど役に立たない銃だが、うちのマティーじいさんのように、改良を重ねている者が、どこかにたくさんいるはずだ。取り扱いが簡単になれば、あれほど威力がある武器もない。馬に乗った騎士など、いい的にしかならなくなるだろう。

 その時には、今までとは違う戦い方が主流になる。他国との国境を守る辺境伯にこそ、必要となってくる備えだった。

 私は、腕の中のサリーナに顔を向けた。

「サリーナ。あなたの学び舎に、私の血縁者も放り込んでよいだろうか」

 彼女は、本を読める者を増やすために、字を教える組織を創ろうとしている。だが、どこで誰にどうすればよいのか、いまひとつ構想が立っていなかった。

 ならばついでに、手始めにハルシュタットの血に連なる者に学ばせ、いずれは彼らの故郷で広めてもらえばよいのではないだろうか。そうしているうちに、違う道も開けるかもしれない。

 彼女とは、トリストテニヤと私たちの未来について、日々意見を交わしている。彼女もすぐに私の意図を理解し、笑顔を見せた。

「ええ。ぜひ」

 私もそれに笑顔で頷き、表情を改め、シド・ブライスに向き直った。

「私の意志を、皆に伝えろ。……それ如何(いかん)で、あなたの誠意も、皆の忠誠も認めよう」

 彼はたぶん、歪んだ唇の形を隠すために、ことさら深く頭を下げた。けれど声には隠し切れない喜色があらわれて、彼の気持ちを伝えてきた。

「必ずや、血族(・・)の者に、御身の意思をお伝えいたします」

 彼は誇らかに、『血族』という言葉を口にした。

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