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うららかな日和のその日、私たちは王都へと向かっていた。
とうに雪はとけさり、領地では春小麦の作付けも終わっている。風も春の息吹と言うにふさわしいものとなっており、野には色とりどりの花が咲き乱れていた。
「痛いところや、具合悪いところはありませんか?」
馬車の中で、私は肩にもたれかかっているサリーナに、何度目かの同じ質問をした。彼女はゆっくり頭をもたげて苦笑した。
「大丈夫よ。マティーの造ってくれたこの馬車は、ほとんど揺れないんだもの。まるでただの椅子に座っているようだわ」
「寒くは」
「寒くもありません。ねえ、病気じゃないのだから心配しないで」
「ですが」
「またハンナに叱られるわよ」
私は口を閉ざした。女性の体調のことは、男である私にはよくわからないので、そう言われると黙るしかない。
彼女は妊娠している。もちろん、私の子だ。
今は落ち着いたが、妊娠がわかった初めの頃は、つわりで食が細くなって、だるそうに一日中うつらうつらしていたこともあって、ずいぶん心配した。
それで少々彼女の世話を焼きすぎて、ハンナに諌められたのは、記憶に新しい。
腹はまだそれほど目立たないが、もう体を締め付けるようなものではなく、ゆったりとしたドレスを着るようになっている。今日は、モスグリーンの地に金の精巧な刺繍がされたものだ。髪もきっちり結い上げないで、乱れない程度に横を編み込んで、後ろは流したままにしてあった。そのおおらかな髪型は彼女によく似合っており、ドレスの色も相まって、まるで大地の女神を髣髴とさせる美しさだった。
どれほど見ても、見飽きない。見るたびに、美しいと感じる。
私は、抱いている彼女の肩をさすった。彼女は微笑みで応えて、甘えるように私の肩に頭をのせた。ささいなことだが、それだけで幸せでたまらない気分になる。
自分でもどうかしていると思うくらいに、私は彼女に夢中だ。
メディナリーには、「見てるこちらの方が恥ずかしくなるくらい幸せそうでなによりだ」と、にこにこと厭味なのか祝福なのかわからない感想をもらったし、マイクロフト・ハリスンは、「おめでとう! おめでとう! よかった! 本当によかった!」と私とサリーナの手を片方ずつ握って上下に振りながら泣きだしたので、びっくりした。喜びの涙だそうだ。とっぴょうしもない反応ばかりする彼だが、善良であることは間違いない。
城の者も領民たちも、おおむねそんな感じで、誰もが快く祝ってくれている。本当にありがたいことだった。
この馬車も、カラクリ甲冑の製作者にして簡易小銃の開発者のマティーが、妊娠した彼女のためにと、冬中かかって揺れにくいものを造ってくれた。馬車の揺れでお腹のお子に何かあったら大変だ、ということだった。
一人身の彼にとって、サリーナは孫にも等しいらしく、彼女が幼い頃から、彼女を驚かせ喜ばせるために様々な物を造ってきたらしい。今回の馬車にも、彼女は大喜びで大興奮していた。……マティーになのか、それとも馬車になのか、自分でもわからない嫉妬をしてしてしまうくらいには。
しかし、それも無理はない。これほど揺れない馬車など画期的だ。彼女は、これは貴族たちに売れると踏んで、職人に言いつけて、大急ぎで貴族好みな豪華な内外装を施させた。
実は、祖父や王家には言えないが、訪問がこれほど遅くなったのは、彼女の体調が落ち着くまでが半分、この馬車の完成を待っていたのが半分なのだった。
我が主にして伴侶殿は、本当に商魂たくましく、頼りになる方なのである。
しかし、たとえそうであろうと、その身はか弱い女性だ。しかも今は身重である。伴侶としても、子の父としても、私が気遣うのは当然だと思うのだが。
『過ぎたるは及ばざるがごとしです』
ハンナの淑やかなのに迫力に満ちた諫言が耳によみがえり、私は内心頭を悩ませた。
とにかく、彼女を抱き上げて移動するのは禁止されている。健康な妊婦がじっとしているのは、あまり良くないのだそうだ。お産が重くなってしまうのだとか。だから、少しでも自分で動いた方がいいらしいのだが、運動神経の鈍いこの人は、何もないところで転ぶし、思いつきでぱっと動いて危険な目に遭うことも多くて、安全に適度な運動をしてもらうというのが、本気で難しい。
部屋に敷いてある毛織物の隅も、城内の急な階段も、濡れた石畳も、道端の出っ張った小石も、木の根も、積み重なった枯葉も、裾の長いスカートも、彼女にとってすべてが危険極まりない。転んで腹や腰を打ちつけたら、大事である。
『落ち着いて。少し正気に返りましょう』
トラヴィスにはそう言われたが、私はいたって正気だ。むしろ、今までの私が迂闊だった。
祖父の館は、危なくないように整えられているだろうか。グレンのことだから、落ち度なく用意してくれているとは思うが、油断はできない。
あちらでは一通り自分で見てまわらねばと、祖父の館の造りを思い出して、私は確認箇所を頭の中で数え上げた。