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目覚めると、柔らかな温もりが胸元に寄り添っていた。寝息が聞こえ、素足が触れ合っている。その艶かしい感触に、昨夜、私は本当にこの人を抱いたのだと実感する。夢ではないのだと。
一瞬で、愛しさと、昨夜の名残の劣情と、もう誰にも渡すものかという独占欲が胸中で渦を巻いた。物理的とすら言える圧倒的な感情に、心臓が軋む。それは、苦しみとも、恍惚ともつかない感覚だった。
次々とあふれかえる感情にどうしようもなくなって、彼女の頭に頬を寄せた。肌触りのいい、小さな温もり。だがそれで満たされるどころか、いてもたってもいられないような焦慮が、ますます大きくなっていった。
私には、これまで感じたこともないほど、自分がとてもちっぽけなものに感じられていた。気にしたこともなかった自分の体の輪郭を急に意識し、それと同時に、世界の無辺の広さが、確かな実感として迫りきていた。
そうして知れたのは、自分が本当に持っていると言えるのは、これだけだということだった。この体一つだけ。たったこれだけのもので、世界に対峙しなければならないのだと。……この腕の中のぬくもりを、失わないために。
失いたくないものがあるというのが、こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。幸せで、幸せで、だからこそ、失うことが耐え難く、恐ろしい。
今まで、生き長らえることなど考えてもみなかった。あれほど心の底からこの人と生きたいと願い、誓っても、どうしても、一年後に生きている自分の姿を想像することができなかった。いつ死んでも惜しくないとしか思えなかった。死ぬまでの間、この人のために命を使えるのなら、それでよかったのだ。
だが、今は、生きたかった。この生を手放したくなかった。ただ、死ぬのを待つのではなく、この人と共に、生を紡ぎたかった。
私は、ようやく、あの夜にこの人が言ったことを、理解できたのかもしれなかった。
最後まで生き抜くからと、だから、傍にいてと、共に生きてと。それは、そうできる方策を探して行ってほしいというのではなく、覚悟してほしいという意味だったのだろう。
何があっても、この人と生きていくのだという覚悟を。
「サリーナ」
昨夜、二度と遠い呼び方をしないでと願われた名が、自然に零れ出た。耳に届いた自分の声が、情けない響きを宿していて苦笑いを誘った。けれど、この弱さを恥じる気にはならなかった。
確かに、今の私は死を恐れ、失うことを恐れている。でも、それを持たなかった頃の、ただ何も知らなかったが故の虚ろな強さを、取り戻したいとは思わない。簡単に投げ出してしまえる程度の生を、もう生きるつもりはなかった。
おかしな表現だが、まるで、この地上に、初めて降り立った気分だった。このちっぽけな、でも、すみずみまで魂の行き渡った体で。
私は、この世界に生まれなおしたのかもしれなかった。母から生を受けて二十三年もたってから。この人の魂を半分得て。本当の人間として。
そっと、顔をずらして、触れる場所に口づける。もっと昨夜のように奥の奥まで味わいたかったが、すべてが初めてだったこの人に、今強いるのは、酷というものだとわかっていた。
私は起床までのひとときを、愛しい温もりを抱きしめるにとどめて、過ごしたのだった。
先に起きだして、暖炉の火を大きく熾してから部屋を出た。それから自室で着替え、いつもどおりにするべきことをした。
剣を振るう体力を落とさないための鍛錬や、雪かき、水汲み、その他諸々、この城を維持するのに必要なこと。最低限の人員しかいないこの城では、誰もがやるべきことが決まっている。想いを交わしたからと言って、日常生活が変わることなどないのだ。
……と思っていたのだが。いきなり朝食から、彼女と同席となった。起きてきた彼女が私と婚約したと皆に伝え、これからは前のように、ライエルバッハの名を持つ者として、私には彼女と同等に振る舞うように、皆にはそのように扱うようにと、要求してきたのだ。
とりあえず今朝は、誰かの給仕が必要ないように、二人分の食事を全部テーブルに並べ終えると、私たちは向かい合って席についた。
旦那様が生きていらっしゃた頃と同じ場所だ。私の右手、彼女にとっては左手にあたる貴賓席に、旦那様は座っていらっしゃった。彼女は一人で食べている時も、その席を変えてはいなかった。それはきっと、この日を待ち望んでいたからなのだと、再びこの席に座って、悟った。
「あなたと、また一緒に食べられて嬉しいわ」
「そうですね」
どう答えたらいいかわからず適当に頷いたら、とたんに彼女は拗ねた表情になった。
「なあに、気のない返事ね。そうだったのよ。一人の食事は、どれくらい味気なかったか……。後悔しない日はなかったわ。あなたを兄として遇すればよかったのかと、毎日迷っていたわ」
けれど、兄として遇せられれば、貴族の慣例として、いずれ私はどこかの家へ婿養子として出なければならなかった。バトラーとしてだからこそ、この人の傍にいられたのだ。
「あなたを差し置いて、私が領主になるなんて、すごく心苦しかった。跪かれるたびに、あなたを傍に縛り付けておきたいがために、こんなことをしていることに罪悪感を覚えてしかたなかったわ。ねえ、どうして二年前に、求婚してくれなかったの? そうしたら、あなたをあんな目に遭わせないですんだのに」
「兄のように慕ってくれているだけだと思っていましたから」
「でも、……いいえ、そうね。あなたは、そういう人ね。人の弱みに付け込んだりしないんだわ」
彼女は諦めたように溜息をついた。
「それに、ライエルバッハの当主にふさわしいのは、あなたです。ただの領主ならまだしも、このような特殊な家門は、私の器量では務まりません」
「それも、そんなことはないと思うの。今も実務は、ほとんどあなたに任せているでしょう?」
「雑用はこなせますが、ライエルバッハの流儀だの心意気だのというものが、どうも私にはわからないのです。恋愛小説も読めませんし」
最後の一言に、彼女はふふっと笑った。
「どうして読めないのかしら。不思議ね。……ねえ、あの仕事を、雑用と言ってしまえるあなたなら、やっぱり領主が務まると思うの。これを機に、あなたが、」
「いいえ。あなたも言ったではないですか。私は騎士なのだと。騎士は、自ら立つことはありません。誰かや何かに仕えるものです。あなたは私を騎士として取り立ててくださったのではなかったのですか?」
「それは、そうなんだけど」
「私が領主になれば、自分を騎士に任命することはできませんが」
「それも、そうなんだけど」
「それに、あなたに仕えるかぎり、後悔させないと約束もしてくださったはずです。ここにキスしてくださいました」
指で頬を指してみせれば、彼女は恥ずかしそうに目を泳がせて、降参した。
「……ああ、もう、わかったわ! でも、その言葉遣いは直して! お父様がいらっしゃった頃のように話して!」
私は笑って、そのくらいならば、と答えようとして、言葉につまった。とっさに、どのように話したらいいのか、すらすらと言葉が出てこなかったのだ。私は真顔に戻って、申告した。
「……それは、おいおいでよろしいでしょうか。これに慣れてしまって、前のようにと仰られても、どう話していたか、思い出せません」
「え、嘘」
「嘘ではありません」
「でも、昨日の夜は」
そこまで言ったところで、彼女は、はっとして口をつぐみ、挙動不審気味に視線を落として、あたふたとカトラリーを手に取った。
「昨日の夜は、なんですか?」
「な、なんでも、ありません!」
こころなしか、彼女の顔が赤い気がする。
ああ、そういうことかと、私は気付いた。たぶん、彼女を抱いている時は、昔の言葉遣いだったのだろう。なるほどと頷ける話だった。本能に従っているのだ、それは素に戻っているにきまっている。
「では、また今夜、話し方を教えていただけますか?」
冗談三割、本気七割で言ってみたら、彼女は、ぐっとつまって、慌てて胸元を叩いた。ワインを飲んで人心地ついてから、取り澄ました顔をして、けれど、真っ赤になって、蚊の鳴くような声で言う。
「いいわ、教えてあげる」
私は、ふきだしそうになったのを我慢した。……していたのだが、その笑いを堪える姿に、私の意図を察した彼女が、ますます真っ赤になってうろたえたので、とうとう声をあげて笑ってしまった。
この後、これが二人の間の誘い文句の定番になるとは、この時は、思いもしなかった。