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最近の主は、居間の暖炉の前が定位置になっている。床に敷かれた分厚い毛織物の上に直に座って、クッションにもたれかかり、まわりに足の踏み場もないほど書類を散乱させ、気ままに手に取っては読んでいるのだ。
気ままに、とは言ったが、端からはそう見えるだけで、書類の場所を移動させると、ない、ない、と不機嫌に探し始めるから、ちゃんと整理はついているらしい。
これが始まると、居間の掃除もおちおちできなくなるが、しかたがない。主は速記者に書き取らせた情報を精査し、来春以降の戦略を練っているのだから。
この状態の時は、いっさい訪問者を通さないことになっている。つい先日まで、吟遊詩人の奏でる竪琴や、渡りの芸人の張りのある声が響き渡っていたのに、今は静かなものだった。
「エディアルド。セレフィドで狼狩りをしたのは、いつだったか調べてもらえるかしら」
私は手持ち無沙汰に読んでいた旅行記を置き、ソファから立ち上がった。
「七年前ですね」
ソファの横に置いてある、図書室から引っぱり出してきた移動書架の前に立つ。本当ならば、図書室付属の閲覧室で広げてやれればいいのだが、あそこは火気の持ち込みが厳禁だ。寒がりの主にはとても我慢できない。そこで、ここ十年分の資料だけを載せて出してきて、他に必要となれば、その都度私が取りにいくようにしていた。
私は該当資料を抜き出し、ページをめくって記述を探しだした。それを主の許に持っていく。書類の輪の外から、腕を伸ばして渡す。
「こちらです。どうぞ」
「ありがとう。エディアルドは見つけてくれるのが早くて助かるわ。私は何年前の話だったか、すぐに忘れてしまうのに」
「私も全部は覚えておりませんよ。これは直接見てきたから、すぐに答えられただけです」
主は資料に落としかけた視線を、意外そうに私に戻した。
「セレフィドの狼狩りを?」
「はい。ちょうど、ピエトロリジーの件で、あちらへ行っていたので」
「ああ、ピエトロリジーはあそこから近いわね。あの件もその時期だったの」
「ええ。人が森の中でいなくなるのは、狼のせいばかりではなかったということです。他に御入用の資料は?」
「うん、あるにはあるのだけど。……ねえ。セレフィドは鹿が増えすぎて、山の木々が食い尽くされて、とうとう農作物を食い荒らしていると、あなたも聞いたでしょう? それを、『狼の祟り』と恐れていると」
そう吟遊詩人は歌っていた。私は、当然の帰結だと思った。
……あの時、古老たちは領主を止めたのだ。山の神の使いを殺してはいけないと。必ず祟りがあると。そうして領主に不興を買い、罰されそうになった彼らを、たまたま行きあわせた私たちが助けた。
「でも、それでは駄目だと思うの。恐れて憎めば、この災いはもっと大きくなる。あそこには新しい狼が必要なのに、また狩ってしまっては、同じことの繰り返しになるわ。だから、その恐れを、憎しみではなく、畏れに変えたいの。狼を受け入れることによって、『祟り』がやわらげられると、思わせたいの……」
こうして主が心を砕いて知恵を絞って、主に何か利益があるかといえば、何もありはしない。いや、各領地が潤って安定していれば、めぐりめぐって国の安泰に繋がるとはいえ、セレフィド自体が元々力のある領ではない。その恩恵は、微々たるものにちがいない。
であるにもかかわらず、主がこんなに一生懸命なのは、これが『王の良心』としてのライエルバッハの仕事という以上に、この人が、ただ単に優しいからだろう。
「そうですね。そのようになればよいですね」
そうして、主の心を悩ますものが、一つでも減るといい。
「それでね、何かこの地に伝わる古い話に、うまく繋げられないかと思って。そうでなければ、それらしい話を創るしかないのだけれど」
それを吟遊詩人に歌わせて、広めさせる。噂から世論を動かすのは、ライエルバッハの常套手段だ。
「では、古い地史と伝承が必要でしょうか」
「ええ、そうね。それと、初期の頃の書き取りにも何かあった気がするの。……やっぱり、私も一緒に行くわ」
分厚い肩掛けをまといなおして、主も立ち上がる。書類の隙間をぬって、ぴょんぴょんと飛び跳ねて、こちら側にやってこようとする。
見ているだけではらはらした。やっと爪先がのるくらいのスペースに、足を下ろすのだ。ちょっとはずれれば、書類の上に乗って、すべって転ぶだろう。
とにかく急いで手を伸ばすと、最後はその手をとって、大きく跳んで、私の傍らに着地した。主はなんとなくだが、どうです、うまくできたでしょう、とでも言いそうな顔をしていた。
しかし、淑女相手にこんなことをお上手ですと褒めるわけにもいかず、私は笑いを堪えながら、ずり下がってしまった肩掛けを片手でひっぱりあげて直すにとどめた。
「図書室は寒いですよ。上着を持ってまいりましょうか?」
「あなたがいれば大丈夫」
主は悪戯めかして、ぎゅっと私の腕を抱き込んだ。
「こうしていれば、寒くないもの」
色めいた様子の欠片もない、無邪気な振る舞いに、今度こそ私は笑ってしまった。
……たしかに、こんなことを、他の男にやっているのは見たことがない。城下の幼馴染とも、笑って話はすれど、自分から手を伸ばし、触れ合っていた覚えはない。ハンナの言うとおりだった。
だが、もしもそんな男が現れたとしたら? ……その男こそが、主が真実惹かれている相手なのだろう。
この温もりが、私だけのものではなくなる。その光景を思い浮かべ、私は嫉妬と寂しさに襲われた。
この手を取れなくなる日も、そう遠くではないのだろう。今の幸運を噛みしめつつ、私は主に腕を取られたまま、主に合わせて歩きだした。
「あ、雪だわ!」
廊下に出ると、窓の外を見て、主が大きな声をあげた。窓の外は、爪の大きさほどもある雪が、真っ白に空を覆いつくして、次から次へと降り来たっていた。
どうりでいやに静かだったはずだ。雪は音を呑みこむ。そうやって気付ぬ間にこの城を世界から隔絶させて、まるで閉じこめんとしているかのようだった。
「今年最初の根雪になるわね」
足を止めた主は、頭を傾け、ことりと私の肩にもたせかけた。
「……この城は、雪の妖精たちの気には召さないのかしら」
冗談めかした呟きの真意がつかめず、私は主の様子をうかがった。
主が言ったのは、たぶん、雪の妖精のお伽噺だ。彼らは時に、気に入った城を雪で包み込んで、妖精の領域へ連れ込んでしまうという。中の人間は年をとることも死ぬこともなく、永遠にその城の中で生き続けなければならない。
子どもの頃に語り聞かされた時は、なんて恐ろしい話だろうと思った。外で遊べないなんて、きっとものすごく退屈で、そんな退屈が永遠に続くのは耐えられないと。
でも、今は。何にも煩わされず、この温もりが、永遠に傍らにあるのなら。
「……気に入られたら、新しい恋愛小説も読めなくなりますよ」
「それは困るわ」
主はくすくす笑って私を見上げた。
「永遠なんて、きっとつまらないものね」
そう。きっと、『永遠』はこの人に似つかわしくない。この人を、冷たい雪の中に閉じ込めておきたいとは思わない。この人にふさわしいのは、柔らかな大地と明るく照らす光だ。
そして、この人がいるべきなのは、愛し、愛され、心血を注いで守ろうとしているトリストテニヤ。
私には、永遠なんてつまらないと簡単に言ってしまえる主の強さと明るさが眩しく、とても大切なものに感じられた。
この人は、このまま、ありのままで。
そうなるべく守るのが、私の生きる道だと、鮮明に強く胸に迫ってきたのだった。
だから、この半月後、次々と吟遊詩人たちや渡りの芸人たちを呼び寄せては、謁見室で指示を与えていた主が、お気に入りの吟遊詩人の一人、ルディウスを城の台所へ招きよせ、ひっそりと言葉を交わしているのを聞いても、それほど心は乱れなかった。
「痩せたのではなくて、ルディウス」
ハンナに用事があって台所に来た私は、それが主の声だと気付き、そっと伸ばす細い手が扉のない入り口から見えて、壁際に寄って足を止めた。
「深刻な顔で何を仰るかと思えば。そこは、精悍になったと褒めてくださらなければ。それとも、私はそれほどみすぼらしくなりましたか?」
「いいえ。……そうね。とても男らしくなったわ」
「お褒めにあずかり光栄です。我が命の息吹たる女神よ」
私からは見えない位置にいる彼が何かしたのだろう。主は明るく、もう、ルディウスったら、と笑った。
「でも、本当に、いつも無理ばかり言ってごめんなさいね。あんなことをお願いしておいてなんだけど、身の安全を第一に考えてね。成果は二の次でいいのだから」
「どうか、お気になさらないでください。私が好きでしているのは、よく知っておいででしょう。むしろ、自由にさせてくださって、感謝しているのです。サリーナ様の与えてくださる仕事は、あの人には、ちょうどいい言い訳になりますから」
「……しかたのない人ね」
そこで私は、はっと我に返って、足音を殺して踵を返した。
これ以上は、盗み聞きになってしまう。そう気付いたからであり、そして、『しかたのない人ね』と言った主の声に宿った響きに、二人の親密さを聞き取ったからでもあった。
どれほど前から、二人は思いを通わせていたのだろう。一介の吟遊詩人と領主とでは、身分が違いすぎて、おいそれと人前には出せなかったのだろうとは推察できたが、ずっと傍にいた私にも、今の今まで悟られないようにしていたという事実に、相手が誰であるかというよりも、心が冷える心地がした。
それほどまでに大切に秘め、あの人が思う相手。
「……なんとかしてやらなければ、な」
無意識に呟いた自分の声が耳に入って、苦笑する。
前御領主が、頼んだよと、どこからか囁いた気がした。