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朝晩の冷えこみがすっかり厳しくなってきた。霜が降りて、色付いていた葉はすべて落ち、木々もすっかり寒々しい。裸の枝の向こうに広がる空も、透明度が増してきて、もういつ雪が降ってもおかしくなかった。
我が国の冬は厳しい。一度まとまった雪が降ると、あとはそれが根雪となって、大地を凍りつかせてしまう。またそれ以上にやっかいなのは、昼夜の寒暖の差だった。冷え込みの酷い日に野宿となれば、朝方には眠ったまま『歓びの地』に赴くことになりかねなかった。
そんな地であっても、昔は、吟遊詩人や渡りの芸人たちは、冬に庇護してくれる貴族を見つけられなければ、危険な旅を続けるしかなかったという。
だが今は、芸術の庇護者ライエルバッハの治める地に、一冬を越さんと集まってくる。
ここトリストテニヤが、一年のうちで最も賑やかな季節が始まろうとしていた。
ライエルバッハの居城、幽霊城にも謁見室なるものがちゃんとある。普段は、だだっ広いために維持管理が大変なので使われないが、こうも毎日、吟遊詩人だの渡りの芸人だのが帰参の挨拶に何人も訪れると、客間や執務室では手狭となり、開放せざるをえない。
城の創建当時は、兵舎だった場所だという。一階が司令室、二階が将官の部屋だったそうだ。ライエルバッハの物となってから、一階の内装に手を入れ、謁見室としての体裁を整えた。ちなみに現在では、二階部分はガラクタ……寄贈された芸術作品の物置になっている。
今日も謁見室には、たくさんの帰参者たちがたむろしていた。主は朝から一段高い謁見席に座り、彼らの挨拶を受けていた。
壁際には速記者を七人も控えさせ、台詞や詩を書き取らせている。あとで清書して、きちんと資料として残していくのだ。芸術としてだけでなく、世界の動向を知る貴重な情報でもあった。
寸劇の一座の出し物が終わり、次に進み出てきたのは、金髪に爽やかな容貌が印象的な若い吟遊詩人だった。
「我らが霊感の源、創造の女神サリーナ様の弥栄なる治世をお喜び申しあげます」
「ありがとう、ルディウス。この冬も、あなたが無事我が元に来てくれて嬉しいわ。今年はどんな恋物語を仕入れてきたのかしら。とても楽しみにしていたのよ。さっそく、あなたの見聞きしてきたものを聞かせてちょうだいな」
「かしこまりましてございます。ではまずは、峻厳なる山の王、イシュパテ神の御座すボワール王国の王都にて目にしてまいりましたものは、いかがでございましょうか。かの地では、紫紺の瞳を持つ王太子が華麗な浮名を流しておられます」
「まあ。面白そうね。ぜひ聞きたいわ」
私も吟遊詩人に注目した。ボワール王国は故郷のルドワイヤと国境を接している。つい十数年前にも小競り合いがあった。私は王都へと出されたが、兄たちは皆、父や叔父達と共に参戦したのだ。
今は前回の戦で打撃を受け、国力が低下しておとなしくしているが、そろそろ力を取り戻し、攻め入る用意を整えているかもしれなかった。私にとっては、ボワール王国の内情は、人事ではないのだった。
吟遊詩人は竪琴を爪弾いて歌いだした。イシュパテ山から切り出した白亜の石で築かれた王宮、そこに集う美姫たちと、雅やかな王太子のことを。
王太子は何よりも女性を愛し、戦に興味がない。長年王家に仕えている家臣たちは不満を抱き、側妃の生んだ第二王子を担ぎ出そうとしたが、第二王子は落馬事故で、あっけなく亡くなった。王太子は次々と側妃を娶り、その親兄弟が新たに重職を占めはじめている……。
今度ボワール王となる者は、抜け目ない人物のようだった。対立勢力を追い出し、国内の掌握に努めているのだろう。歌は、たくさんの女性たちとの恋愛遍歴が主題ながら、その端々に見過ごせない情報がちりばめられていて、さすがは主のお気に入りの吟遊詩人だと思われた。
主はすべて聞き終わると、惜しみない拍手と褒め言葉を彼に与えた。
「なんて優雅な王子と令嬢たちの恋物語でしょう。でも、王子は正妃を置いておられないのね。どうしてかしら」
「王子と側妃たちは数奇な運命によって繋がっていますが、いずれの方も魂の半身ではないのだとか。かの王子は、真の恋人を探しておられるのです。そこで私は、離宮で王子が催した宴で、我が国の大地の女神に祝福された名高き王女、マルガレーテ様の慈悲深くも気高きお姿を歌い伝えてまいりました。王子はことのほか興味を持たれ、続けて三晩も歌を求められました」
「まあ、素敵」
主は、それまでにないほど満足気に、上機嫌に微笑んだ。
「王子を魅入らせたその歌を、私にも聞かせてちょうだいな、ルシウス」
「かしこまりましてございます」
吟遊詩人は、甘く響く声で、王女を称える歌を歌いはじめた。
その後、ルドワイヤ辺境伯とその一族の近況も細かく聞き出してくれたのは、私に対する主の気遣いだろう。
一番下の兄でも、私と八歳違う。上の兄にいたっては、十四だ。もう皆、三十を越え、甥や姪もたくさんいるらしかった。
父や母も健在だと聞けて、嬉しく思った。特に母は、今でも乙女のような若々しさと初々しさだという。それに、幼い頃に見た母の姿が、鮮やかによみがえった。ルドワイヤの男らしい厳しい父により添う母は、小柄でたおやかな人だった。
吟遊詩人の話に触発されて、次々と忘れていた、日常のささやかな思い出が浮かび上がってきて、懐かしさに胸が締めつけられた。
……彼らを裏切った私は、二度とあそこに戻れず、会うことも許されない。
五年前の私は、どうして未練もなく、彼らを切り捨てることを選べたのだろう。
特に後悔しているのは、駆けつけてくれた父との面会すら拒んで、『いなかったものとして忘れてください』と言伝たことだ。
当時の私は、それしか選べなかった。状況の話ではない。それがどんなに傲慢で酷い親不孝かもわからないほど、精神的に子どもだったのだ。
私は慙愧の念に、密かに拳を握った。あまりの自分の愚かしさに、穴があったら入りたかった、いや、穴を掘って埋まってしまいたい気分だった。
本当に、いなかったものとして忘れられているといいのだが。
私は罰当たりにも、そんな願いを抱かずにはおれなかった。