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金の女領主と銀の騎士  作者: 伊簑木サイ
第五章 誰がために 
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 私は床に座りこみ、ベッドに背をあずけて、ひっくひっくとしゃくりあげては、ぐずぐず鼻を啜っている主を膝の上に抱いていた。

 主が顔を押しつけている首から胸周辺は濡れた感触があるが、主自身は泣きやんでくれたようである。息もだいぶ落ち着いてきている。体もくったりとし、疲れきっているのが感じられた。泣くには体力がいる。あれだけ泣けば、疲れて当然だった。

「サリーナ様、おなかがすいてはおられませんか?」

 そろそろ話しかけても大丈夫だろうと尋ねれば、胸に顔をうずめたまま、ふるふると首を振る。

「でも、喉は渇かれたでしょう。水を」

 召しあがりませんか、と言おうとしたところで、主が身を強張らせてすがりついてきた。よほど離れたくないのだろう。私はくすりと笑って、失礼いたします、と声をかけ、主を抱いたまま立ちあがった。

 ベッドに腰掛け、サイドテーブルに手を伸ばす。水差しを取り、そこからコップに注いで、それを主の顔の横に差し出した。

「水です。どうぞ」

 主は少し顔を上げ、恐る恐るというように受け取って、小さく口をつけた。水が喉を通り過ぎて、体が欲していたのがようやくわかったのだろう。後は一息に飲みほしてしまった。

「おかわりはいかがですか?」

 主はいらないと首を振り、コップを返してきた。それを受け取って、サイドテーブルの上に戻す。主は泣いた顔を見られたくないらしく、すぐに顔を伏せて、私の胸にはりついてきた。

 主の部屋を訪ねてから、どれくらい経ったのかわからない。言葉もなくこうしているだけで、なんとなく心が通じ合っているような時間は濃密で、時の感覚を曖昧にする。

 体は主を抱いているのにずいぶん馴染んでおり、主のもたらす温もりや重みは、心まで満たしている。その満たされた分の長さを感じはするのだが、少しでも飽きるどころか、まだまだ手放したくない。その点で言えば、短いとしか感じられないのだった。

 しかし、このままでは、主の体が休まらないだろう。私は主の髪に指を入れ、ピンや簪を抜き取りながら、声をかけた。

「そろそろお休みになりますか?」

 主は額を押しつけるようにして緩慢に首を振った。そして、泣き止んで以降、初めて言葉を発した。

「エディアルドは、疲れた?」

 かすれた囁き声だ。けれど吐息さえ聞こえる距離では、問題ない。

「いいえ。少しも」

「では、もう少し、こうしてお話をしててもいい?」

「もちろんです」

 ちょうど最後のピンを抜き終わった。それらをサイドテーブルに置き、もつれた髪に指を入れて何度か梳きおろす。それで上がっていた髪もすべてほどけ、背の上に流れ落ちた。主は、ふうと息を吐いた。

「楽になったわ。ありがとう」

 さらに髪をほぐすように、自分で軽く頭を揺らす。膝の上で主の体が弾み、暖炉の灯りを受けて金髪が豪奢に輝いて、背を支えている私の手をくすぐった。……私はそれらを息をつめてやりすごした。

 そんな些細な行動が、どれほど男心を刺激しているのか、考えつきもしないのだろう。ベッドの上だろうがかまわずに、安心しきって体をあずけてきている、この人には。

 それだけ信頼されているということなのだろうが、あまりに無防備すぎる。これは、そういったものからできうるかぎり遠ざけてきた、私たちまわりの者の落ち度なのかもしれないと、こんな場面に至って、痛烈に思い知らされていた。

 だいたい、あの『ライエルバッハの流儀』を、平然とこなしてみせたのには面食らった。おおかた、「ライエルバッハは剣に誓わない。誓うなら、至高の愛に」とかなんとかいう理由なのだろうが、主は女性で私は男なのだ。いくら信頼する相手とはいえ、妙齢の女性として、もうちょっと躊躇う素振りが見られても、と思うのだ。なのに、うろたえたのは、私だけ。

 素で年上の男を翻弄するのだから、まったく主も末恐ろしいかぎりである。今度、ハンナにでも、そういった方面の教育をしてもらうよう相談してみよう。母親代わりでもあるハンナなら、うまく導いてくれるにちがいない。

 数ヶ月前の自分なら指導できたかもしれないが、今の私には無理だった。自分の下心を曝すに等しいことをできるほど、いくらなんでも面の皮は厚くなかった。

「何を考えているの?」

 知られたくないことを考えているところを、狙ったかのように聞かれて、どきりとする。

「……薪を」

 答えを探して視線をうろつかせ、たまたま目に入った暖炉に、とっさにそんな言葉が転がり出た。

「そろそろ足した方が良いかと。お寒くはありませんか?」

「全然。少しも。あなたが温かいから」

 すり、と擦り寄られる。その仕草も感触も、慕わしく心地よくて、非常に困る。私は主の肩に手をやり、自分に押し付けるようにして、その動きを止めさせた。

「でも、肩が冷えていらっしゃいます」

「私は大丈夫よ。だけど、あなたが寒いのではなくて? ……その、たくさん濡らしてしまったし」

 と言って、今度は指先が胸の上を這った。

 ……よく、飛び上がらなかったものだと思った。すさまじく動揺した。私はおもむろに、主を抱きなおすふりをして体勢を変えた。おかげで、主の手も止まり、新しい位置で体を安定させるように、ぎゅっと握られる。

 これ以上動かれてはたまらない。続けて会話を急かして、そちらに集中してもらうことにした。

「いいえ、私は寒くありません。平気です。ところで、お話とは?」

「ああ、そうね。そうだったわね」

 主は私の胸に両手をついて体を離し、うつむいたまま体を立てた。隙間があいて涼しくなった場所に、当てられた手から、じんわりと熱が伝わってくる。

「きちんと謝っておかなければと思って。……さっきは、酷い命令をして、ごめんなさい。私が間違っていました」

 主は真摯に謝罪してきた。私も、はっとして、真剣に主に向き合った。

「あなたは悪くありません。私を思い遣ってくださったのはわかっております。それに応えられなかった、私がいけなかったのです」

「ううん、あなたは当然のことを言っただけ。私も、本当はあんなふうに言いたかったわけじゃなかったの。なのに、あんな言い方をして、あなたを怒らせた。……未熟で、恥ずかしい」

 ますます主はうつむく。

「それを言うなら、私こそ未熟です。あなたは第一の騎士だと仰ってくださったのに、その気構えも持てず、たじろいでしまった。恥じねばならないのは、私です」

「違うわ。恥じたりしないで」

 主は体を倒して、頭をこつりと私の胸につけた。

「それは、私が共に死のうと言ったから。あなたは、そんなものを望む騎士ではないもの。だからこそ私は、あなたに私の騎士になってほしいと思ったのに……」

 そんなものを望む騎士ではない? それはどういう意味なのか、私には推し量れなかった。この人が、私の何を認めてくれているのか、とても知りたかった。私は黙って、主の次の言葉を待った。

「だから、もう一度、……ううん、もう、命令はしない。ただ、私の望みを聞いてほしいの。聞いて、くれる?」

「ええ。ぜひ聞かせてください」

 私は大きく頷いた。主は胸いっぱいに息を吸うと二、三秒とめて、緊張を漲らせて、望みを口にした。

「死を選ぶくらいなら、死ぬ気で、私と生きてほしいの」

 私は驚きに、目を見開いて主を見下ろした。

「生きてさえいれば、必ず挽回の時は来るから。私が絶対そうしてみせるから。だから、生きて。……私も二度と、死を望んだりしない。最後の最後まで、生き抜いてみせるから。最後まで傍に、……私と共に、生きて」

 ああ、本当だ、と思う。それは、本当に、私の望むものだった。自分でも意識したことのない望み。心の奥深くにあったもの。それに主によって言葉が与えられ、闇の中から引き上げられて、形あるものとして意識の上に現れる。……形もなく埋み火としてあった、熱はそのままに。

 あっというまに、体中に、その熱がまわった。そのせいで、吐息さえ熱くなっているのではないかと思った。それほどに、心から熱があふれて、体の中に熱が溜まっていく。

「はい。……はい、サリーナ様」

 気持ちが大きすぎて、うまく言葉にならなかった。伝えきれない思いが体を動かす。私は、主の体を両腕で抱きすくめた。主は逆らわずに、腕の中に収まってくれた。

「……誓ってくれる?」

「はい。誓います」

 迷いなく答えると、二人の間に挟みこんでしまっていた主の腕が伸ばされ、私の背へとまわってきた。

 主のまとっていた緊張が霧散する。主の体が、やわらかく、私の体の線に添ってまつわる。まるで、割れた欠片同士を合わせたかのように。二つで一つのもののように。

 なのに、主の頭が上がり、それが崩れてしまう。私はそれが残念で、主の顔を覗きこんだ。

 暖炉を背にした主の表情はわからなかった。顔のまわりの金髪だけが、きらきらと輝いていた。陰影で、主が私を見つめているのと、そして唇が動きだすのが見えた。

「ねえ、今度は、あなたからの誓約の証がほしい」

 そう言って、主は、仰向いたまま瞳を閉じた。

 腕の中で。ほんの少し顔を下げれば触れ合う場所で。無防備に。それが示すものは、一つしかないように思われた。

 ……どうして、いつも、この人は。

 熱に侵された心の片隅に、微かな苛立たしさと、それを凌駕する諦観がわきあがった。

 人の気も知らないで、いつでも無邪気に煽って、疑うことも知らないで。そうやって、根こそぎ人の心も体も鷲掴みにする。……私はいつも、この人の一挙手一投足に捕らわれてしまう。

 この人には、勝てない、と思う。勝てるわけがない。こんな、凶悪に無垢な人誑しの才能を前にして、私ごときが太刀打ちできるものか。

 どんな抵抗も無駄だった。もう、この人の前に、膝をつくしかなかった。

 私は、いろいろあれこれ考えることをやめ、ライエルバッハの流儀に則って、主の唇に自分の唇を重ねた。……我慢できなかったのだ。火に飛び込む虫と同じだ。主に許されているというのに、その誘惑に逆らえるわけがない。

 触れた瞬間に、ぴくりと震えた体を、逃がさぬようにと、反射的にさらに強く抱きしめた。

 貪らないようにと自制はしたが、角度を変えて軽く何度か食んだのは許してほしい。こちらも、とっくに振り切れた理性を強いられているのだから。

 時間にして十秒足らず。名残惜しかったが、私は理性が消失する前に、渾身の力で主から離れた。

 近いままに自然と向き合う。主は、私のいきすぎを嫌がる素振りはなく、それどころか、穏やかに微笑んだ気配がした。

 私は、そんな主を見下ろしながら、思った。

 私以外の騎士を、絶対に主に取らせたりするものか、と。ライエルバッハは本来騎士を集めないから、その心配は少ないとは思われるが、考えただけでも腸が煮えくりかえる。他の男に主の唇を与えてやるなど、冗談ではなかった。

 なにしろ、主は何の疑いも抱かず、誓い以上のものまで従順に受け入れてしまうのだから。そんな不埒な男の贄にして、たまるものか。

 私は自分のしたことは棚に上げて、いや、だからこそ、強く決心を固めたのだった。

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