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あれから主は、ずいぶん長いことあの場所で泣き続け、少し前にハンナに宥められて部屋にもどったらしい。
らしい、というのは、今、トラヴィスに呼び出されて、それを伝えられたからだ。
「もうどちらも子供ではないですから、何があったのかは聞きませんがね」
と言うと、トラヴィスは深い溜息をついた。これみよがしに聞こえるのは、気のせいではないだろう。
「ただ、なにがどうであれ、女性をあれほど泣かせておいて放っておくのは、男としてどうかと思いますが、いかがですかね?」
質問の形をとっているが、明らかに一つの答えしか求められていない。いつも思うのだが、こういう時のトラヴィスには、腕力を使ってもまったく勝てる気がしないのは、なぜなのだろうか。
「ドレスも着替えずにベッドにもぐりこんで、晩餐も食べたくないと仰っているそうです。エディアルド、今すぐサリーナ様のところに行って、仲直りしてきてください」
子どもの喧嘩の仲裁のような言い方にむっとしたが、そう揶揄されてもしかたのないことをした自覚はある。
「……わかりました」
渋々返事をして、いったい何をどう話せばいいのやら、何も思いつかないままに部屋を出た。
主の部屋の前でしばらく躊躇ってから、扉をノックした。当然返事はない。
「失礼いたします」
外にいても進展は望めないと思い、勝手に入らせてもらう。
部屋の中は暗かった。カーテンは引いてないが、日が暮れかかっている。薄闇の中、奥のベッドを見遣れば、掛け布団がこんもりと盛りあがっていた。
バトラーとはいえ、さすがに、妙齢の女性のベッドに近付くのは気が引ける。寝ているならぜひにも出直したかったが、ここからでは確認ができない。
私はしかたなく、まずは暖炉へと行った。クレマンが、今夜は冷えますよ、と言っていたからだ。これから着替えるなら、部屋を温めておいた方がいいだろうと思ったのだ。
薪を組み、持ってきた火種から火を移す。その間にも、どう声を掛ければと考えるが、一つもいい案は浮かんでこなかった。
すっかり暖炉に火が上がったので、今度はその明かりをたよりに、カーテンを閉めてまわる。それもそんなに時間のかかる仕事ではない。ついに雑用は終わってしまい、私はベッドへと向き直って、ぼんやりと佇んだ。
ベッドの上のふくらみは、さっきから、わずかに動いて見える。たぶん、踊る火影の見せる幻影というより、……嗚咽のためなのだろう。
私は初めて、足がすくむという体験をしていた。
問題は、起きているとか、起きていないとか、なんと話しかければいいかとか、そんなことではないのだった。主があんな状態なのは、他の誰のせいでもなく、私のせいだということだった。
他の理由なら、私はいくらでも慰められるだろう。美味しい茶菓を供することも、気分転換に連れ出すことも、落ち着くまで抱きしめることも。
でも、その元凶である私に、それらはできない。むしろ嫌がられるのがオチである。
だからと言って、こんな主を目の前にしても、私は前言を撤回する気にはなれなかった。お互いに歩み寄る、またはどちらかが折れるという方策が取れないのに、仲直りなどどうできるのか、まったく見当もつかない。しかし、あんな状態の主を捨て置けない。それだけは絶対だった。
私は、動顚気味の気持ちを鎮めるために、何度か深呼吸した。騎士団でつちかった、危機の場合の行動様式を自分に課す。……状況確認はとりあえず終わった。次は、任務達成のために可能な行動の模索と実行である。
このままここに突っ立っているのかと自分に問いかけ、否、と答えを出す。では、どう動く。……退くことだけはできないのだから、もっと近くに行くしかない。
あえて、攻める場合の基本的な考察、『相手の思考』には触れないようにした。それを推測しだしたら、足がすくむどころか、逃げだしたくなる。
私はベッドに近付きながら、なんとなく、幼い頃に見た、両親の夫婦喧嘩のことを思い出していた。
父は黙ってなじられ、細い腕でぽかぽか胸を殴られながら、まわりに人払いをかけて、母と二人きりで部屋にこもったものだった。そこで何をどうしていたのかは知らないが、しばらくすると母の興奮した声もおさまって、翌日の朝には仲良く朝食に下りてきたのだ。
父はどうやって母の怒りをといているのかと兄たちに聞いたら、他の兄弟たちは、「まあ、もうちょっと大きくなったらな」と言葉をにごしたのだが、三番目の兄だけは、「アル、いいかー、怒った女に反論したら、十倍返しだからなー。親父みたいに、しっかり口も耳も閉じとけよ」と、したり顔で教えてくれた。実際、それからは兄の言うようにして、それで城内の小うるさい女性たちの小言は、だいたいやり過ごしてこれた。
あれでいくしかなかろう、と考える。というか、それ以外の方法を、私は知らなかった。
私はベッド脇まで行くと、さんざん迷ってから腰かけた。立っていたら、主が怒りをぶつけるのに、手が届かないだろうと思ったのだ。
ベッドが沈んで軋む。布団の塊が、もぞりと動く。……やはり起きている。
こうしていると、主が立てる細かな揺れが感じられた。突発的に漏らす小さな泣き声も。
私は思いきって、サリーナ様、と呼びかけた。そのとたんに、ぴたりと布団の塊の動きが制止した。が、それも十数秒のことで、すぐに大きく、ひぃぃっく、というしゃくりあげる声とともに、大きく震える。
苦しそうな、かなり泣いたのが分かるものだった。あれから一時間以上たっている。その間ずっと、こんな痛々しい状態でいたというのか。
私は大きな長い溜息を吐き出した。体の内から炙られるような酷い罪悪感に襲われていた。自分に対する苛立ちに、額から髪に片手を入れ、掻き散らす。その手を布団の上につき、強く握り締めた。主へと身をのりだし、話しかける。
「サリーナ様。私がいたりませんでした。申し訳ございませんでした」
あんなふうにはねのけ、切り捨てるような真似はするべきではなかった。もっといくらでも言いようはあったはずだ。少なくとも、ここまで泣かせるような振る舞いをしてはいけなかった。完全に、私の落ち度だ。
主は、ただ心配をしてくれただけだったのに。それに応えられなかったのは、私の才覚不足のせいだ。
主を悲しませるようなことはいたしませんと、言えるだけのものがあればよかったのだが、嘘はつけなかった。
でも、嘘の一つぐらいつけばよかったのだ。今は足りなくても、それを励みにして、応えられるだけの男になる努力をすればよかった。
その度量すらなかった私は、なんと情けない男だろう。
たった一人、忠誠を誓った相手を不安にさせて、悲しませて、これほど泣かせて。
「申し訳、ございません」
それ以外、言いようがなかった。申し開きできる何も有りはしない。許しを請うことさえ躊躇われた。主がわざわざ許す必要もないほど、私が悪かったとしか思えなかった。
主は布団の中で丸まったまま、それ以上、動こうとしなかった。恐らく顔も見たくないのだろう。ここに私がこうしているのも不愉快なのかもしれなかった。
王宮でマルガレーテ王女は、不興を感じた侍女を、よく解任した。結婚前の行儀見習い、及び箔付けにとやってきたはずの侍女たちは、不名誉な評価を負って家へ帰され、まともな結婚に恵まれなくなったと聞いている。
それを王女はわかっておられないはずはないのに、温情はかけられなかった。王族として当然だったのかもしれないが、似たような案件でも、王子方にそうする方はおられず、女性とは怒らせると容赦ないものだと思ったものだった。
主は王女よりも穏やかで優しい人だ。理知的で情けというものもよく知っている。むしろ、寛容すぎて心配になるくらいだ。
しかし、そうであっても、女性である。王女のように、それまでは気に入って傍に置いていたものも、きっかけがあれば、いっさい受け付けなくなる可能性はあった。
「……本当に、申し訳ございませんでした。私はしばらく謹慎いたします。ハンナを呼んでまいりますので、どうかお着替えだけはなさってください。それではゆっくりお休みになれませんでしょうから」
ハンナを呼んだら、トラヴィスと相談して、荷物を階下の部屋に移した方がいいだろうと思案する。隣りの部屋にいたら、いつ顔を合わせるかと、主も心安くいられまい。
私はベッドから静かに腰を上げた。また揺らして、主を驚かせたくなかったのだ。
「失礼いたします」
深々と頭を下げる。長居するのもずうずうしい。後ろ髪を引かれる思いで背を向けた。
と。
「待って!」
かすれた声に思わず振り返れば、布団を深く被ったまま、主が体を起こしていた。
「待って、行か、ないでっ。行か、な、いで!」
ずるずると布団を引きずってベッドの上を端へと這ってくる。
「ご、ごめんな、さい。あん、なこと、言って、ごめん、なさい……」
しゃくりあげて、途切れ途切れになりながら、なぜなのか必死に謝っている。それも最後は、嗚咽に飲み込まれていく。
「サリーナ様」
私は慌てて駆けよった。ベッドの脇に膝をつき、主を覗きこむ。布団の陰に顔が隠れてほとんど見えなかったが、こちらを見てくれているのはわかった。
「あなたが謝ることはありません。私が悪かったのです」
しかし、主は激しく横に首を振った。
「エディ、アル、ドは、わ、悪くない。わた、わたし」
「いいえ、あなたの気遣いを無碍にした私がいけませんでした」
「わたし、が、ひ、ひどいこと、言た。ごめ、ごめ、んな、さい」
ごめんなさいと言うたびに、涙声が酷くなる。胸の張り裂けそうな響きがあって、私の胸も詰まるようだった。
「どうか謝らないでください。あなたは悪くないのですから」
主は大きく身動ぎして、喉が嗄れた泣き声をあげた。
「あ、謝って、も、だめ? も、う、もう、きら、い? きらい、なた?」
きらい? 考えてもみなかった言葉に戸惑ったが、たどたどしくも、嫌いかと問われている気がする。
「まさか。嫌いになどなりません。嫌われたのは、私の方かと」
「きらい、じゃない! すき! すきよ! きらい、に、な、なら、ないで、ならな、いで」
ひぃぃんと子どもみたいに泣きながら、右手を伸ばしてくる。その手が私の胸元をつかむのにまかせ、私は私で、布団の中から引っぱり出し、主の体を抱き寄せた。
温かい重みが腕の中を満たす。中途半端にほどけてぐしゃぐしゃになった頭を抱え込み、たまらずに頬を寄せた。
失うことを覚悟したぬくもりだった。それが、離れたくないとしがみついてくる。
愛しさに、柔らかく、だが、しっかりと隙間なく抱きしめる。
「嫌いになど、なるものですか」
こみ上げるままに囁くと、主が身を震わせ、うわああああんと、安堵したように泣きだした。