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はっきりと顔を認識できる位置まで主は身を引いたが、その手はいまだ私の肩にかかっていた。たいした重みではないはずなのに、そうしてやんわりと上から押さえつけられ、目を覗きこまれて、私は身動き一つできなかった。
「……覚えておいて。これから先は、誓いのとおり、あなたの命運は私の命運よ。もしもあなたが傷を負わされたら、私はどんな手を使ってでも相手の体を切り刻んでやるし、名誉が汚されたのなら、死を願うほどの汚辱に落としてみせる。万が一、……万が一あなたが死ぬようなことがあれば、手を下した者も、指示した者も、その一族郎党、死んでなお人々に謗られるような破滅を与えてやるわ。それから、あなたの後を追う。あなたがいない世界で、私がおめおめと生き延びると思わないで」
激しい言葉の一つ一つが、心に体に魂に、絡みついてくる気がした。主が吐き出す、まだ居もしない敵に対する怨嗟は、まるで呪いそのものだった。
けれど、なんと禍々しい甘美さだろう。この人を復讐の女神に変えるのは、私の命運如何だというのだ。それも、死まで共にしてくれるというのだから。
私は、諌めなければいけないとわかっていながら、興奮にきらきらと目を輝かせる主の姿に、しばらく見惚れた。
私はいつも、主のこの姿に魅せられてやまない。華奢で優しげな姿からは想像もできない、強く激しい、『ライエルバッハの血』とでもいうしかない本性に。
ライエルバッハは、芸術を愛し、平和を好み、剣を持たない。だが、けっして腰抜けではない。むしろ、『触らぬライエルバッハに祟りなし』と恐れられるほどに、敵に対して、苛烈で容赦ない報復を行ってきた。
そして、この人は、誰よりもライエルバッハらしいライエルバッハだった。優しく、繊細で、優美で、優雅、地母神もかくやという顔の裏に、戦神をむこうにまわして退かない、知略と気概を持っている。
このような人に仕えられるとは、なんと幸せなことだろう。
私は恍惚とした幸福感に満たされていた。命を取り出すことができるのなら、今すぐ主に捧げてしまいたいくらいだった。そうして、この人に、私という存在を握ってしまってもらいたかった。
それは、献身でありながら、自分のすべてをこの人に受け入れてほしいという、身勝手な欲情でもあった。目を見交わしているだけで、誓いの口付けと共に与えられた疼きが増していく。目も眩むほどに、この人が欲しいと感じる。
心配からくる怒りが過ぎ去った後の、不安に揺れる表情で見られていれば、よけいに。
先程の姿からは一転して、頼りなげな風情となってしまった主の、薄く涙の膜の張った瞳に、私が映っていた。一心に見つめる瞳だけでなく、きっとその心の中も、今は私のことでいっぱいなのだろう。それは、歓喜以外の何物でもなかった。
私は手を上げ、頬に触れた。人差し指と中指の先で頬骨を撫でる。そうして拒まれないのを確認して、掌をあてて包み込むようにした。あまりに不安げな様子に、慰めを与えたかったのだ。
主は安心したように微笑み、目をつぶって、私の手に頬を寄せてきた。すり、すり、と幾度かこすりつけ、そして、満足気な顔となって、緩慢に今一度瞼を開く。その瞳は。
とろりと蕩けるような色っぽいまなざしで。
ずくりと欲望を刺激される。背筋に震えがきそうになる。それを体を強張らせてこらえ、咄嗟に手を引いた。同時に、彼女の視線を振り切るために、頭も下げる。それにつられて少し肩も下がり、主の手も離れていった。
そうした一連の性急な態度をごまかすために、私はことさらしかつめらしく呼びかけた。
「サリーナ様」
呼びかけたとはいっても、頭の中は真っ白だった。女性の色香に中てられた男なんてものは、皆そうだろう。理性よりも本能がまさり、ろくなことなど考えられない。だが、この状況ではそれが役に立った。本能に従っている時は妙に勘が冴え、切り抜けるのに必要なことだけはよくわかるのだ。
私はすべてを押し流す勢いで、説教を開始した。
「騎士と命運を共にする主が、どこにいますか。主は大義に生き、騎士はそれを支えるためにいるのです。共に死んだら、大義は潰えてしまいます。主が生き抜くことこそが、騎士の命を無駄にしないことにつながるのです」
主の気配が、頭の上で動いた。振られる手が視界の端で見え、強い口調の、抑えた声音が言い返してくる。
「無駄になんかしないわ。ちゃんと、するべきことはするつもりよ」
「だとしても、軽々しく後を追うなんて口にすること自体が間違っています」
「だって、そうでも言わないと、あなたは簡単に死んでしまうでしょう!? 私やトリストテニヤと自分の命を天秤に掛けて、利益があると判断すれば、捨てかねないじゃない!!」
思いもしなかった叫び声が浴びせられた。取り繕うことをかなぐり捨てた、心がむき出しになった声。
私は思わず顔を上げそうになった。が、そんな危険は冒せなかった。こんな声の主を見れば、私はまた流されてしまう。
私は主を守るために生きているのだ。それができないのなら、生きている理由がない。とうてい主の要求には、応えられないのだ。
だから、卑怯とわかっていて、頭を下げ続けた。そして、短く、少しずれた答えを返す。
「それが騎士の気概ですので」
主がするどく息を吸い込んだ音がした。沈黙が降ってくる。下ろされた手が、ぎゅっと握りこまれるのが見えた。
私は待った。このまま主が納得して諦めてくれればと願いながら。
やがて、震える声が静寂を破った。
「……わかってるわ、そんなこと。あなたは、どこでどんな姿で何をしていたって、騎士なんだってことは。……でも、でも、私は、ロランみたいに強くは生きられない。あんな嘆きには耐えられない」
ぽたり、と目の前の地面に、何かが落ちてくる。もう一つ、ぽたり。透明な小さな雫が。
「ずっと見てきた。何年も、何年も、泣いて、泣いて、物もろくに食べられないで、お酒に溺れて、それでも忘れられずに、会えない人の名を呼ぶの。あんなのは……怖い」
主の言に、こんな時でありながら、頭の隅で、ああ、そうだったのかと、私はようやく腑に落ちた気がした。
だから主は、いつもメディナリーを気にかけ、時にいたましいものを見るようにしていたのだ。
では、主はメディナリーに心惹かれていたわけではないのか。主の想い人は、彼ではなかった……?
私は物思いに沈み込みそうになった。けれど、主の声に現実に引き戻される。
主は続けて、強がるでもなく、静かに、動かし難い真実だとでもいうように語りかけてきた。
「あなたを失ったら、私は生きていけない。……できないんだもの。しかたないでしょう?」
その、諦めと、居直りと、切なさと、でもどこか誇らしさも感じる不思議な響きに、私はとうとう顔を上げた。
主は滂沱と涙を流していた。私と視線が合うと、ごしごしと目をぬぐった。鼻をすすりあげて、止まらない涙をぽたぽたとこぼして、それでも私をひたりと見つめてくる。私の視線を逃すまいとするようだった。
「だから、死なないで。危険なこともしないで。自分を大事にして。お願い」
涙に声が揺れる。所々裏返る。それがどれほどの思いをのせたものか、如実に伝わってくる。
「……もとより、あなたのものであるこの命を、粗末に扱うつもりはありません」
苦しい言い逃れだった。『粗末』の程度は私の主観に拠る。こんな玉虫色の答えを、主は欲していない。
「そんな言い逃れは聞かない」
案の定、厳しい表情になって、主は数瞬黙り込んだ。
「約束してくれないというなら、命じます。……エディアルド、私より先に、けっして死んではなりません」
「そんな無茶な命令には従えません。だいたい、私は男で年上です。それだけでも無理がある」
「無理じゃないわ。その前に、私を殺してくれればいいだけだもの」
「何を仰るんですか! この剣は、主の血で汚すためにあるのではありません!」
とんでもない要求に、私は思わず声を荒げた。
「あら。そんなことはないでしょう? 古から、落城の際に、敵に討たれる前に主の首を落とすのは、第一の騎士の役目のはずよ? なんとしてでも生き残り、最後の最後まで主を守る。それが、第一の騎士の覚悟なのではなくて?」
恐ろしい故事を持ち出し、こともなげに言う。
この人はわかっていない。怒りとともに、そう思った。殺気とともに剣を向けられ、命を危険にさらされたことがないから、そんなに簡単に殺せなどと言えるのだ。
「命の遣り取りがどんなものか、あなたは何もわかっていない。こんな戯言は聞くに値しません。……頭を冷して、よく考えてみてください。失礼いたします」
私は一度頭を下げ、立ち上がった。硬い表情の主を見下ろし、軽く会釈をして、踵を返す。
主を傷つけているとわかっていた。きっと、怒らせてもいるだろう。けれど、どうしても曲げられなかった。
私は、この事態の落としどころの見当もつかず、どうしたらいいのかと頭を抱えつつも、それでも主を庭に一人残して、城へと引きあげた。