表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金の女領主と銀の騎士  作者: 伊簑木サイ
第五章 誰がために 
53/82

 はっきりと顔を認識できる位置まで主は身を引いたが、その手はいまだ私の肩にかかっていた。たいした重みではないはずなのに、そうしてやんわりと上から押さえつけられ、目を覗きこまれて、私は身動き一つできなかった。

「……覚えておいて。これから先は、誓いのとおり、あなたの命運は私の命運よ。もしもあなたが傷を負わされたら、私はどんな手を使ってでも相手の体を切り刻んでやるし、名誉が汚されたのなら、死を願うほどの汚辱に落としてみせる。万が一、……万が一あなたが死ぬようなことがあれば、手を下した者も、指示した者も、その一族郎党、死んでなお人々に謗られるような破滅を与えてやるわ。それから、あなたの後を追う。あなたがいない世界で、私がおめおめと生き延びると思わないで」

 激しい言葉の一つ一つが、心に体に魂に、絡みついてくる気がした。主が吐き出す、まだ居もしない敵に対する怨嗟は、まるで呪いそのものだった。

 けれど、なんと禍々しい甘美さだろう。この人を復讐の女神に変えるのは、私の命運如何(いかん)だというのだ。それも、死まで共にしてくれるというのだから。

 私は、諌めなければいけないとわかっていながら、興奮にきらきらと目を輝かせる主の姿に、しばらく見惚れた。

 私はいつも、主のこの姿に魅せられてやまない。華奢で優しげな姿からは想像もできない、強く激しい、『ライエルバッハの血』とでもいうしかない本性に。

 ライエルバッハは、芸術を愛し、平和を好み、剣を持たない。だが、けっして腰抜けではない。むしろ、『触らぬライエルバッハに祟りなし』と恐れられるほどに、敵に対して、苛烈で容赦ない報復を行ってきた。

 そして、この人は、誰よりもライエルバッハらしいライエルバッハだった。優しく、繊細で、優美で、優雅、地母神もかくやという顔の裏に、戦神をむこうにまわして退かない、知略と気概を持っている。

 このような人に仕えられるとは、なんと幸せなことだろう。

 私は恍惚とした幸福感に満たされていた。命を取り出すことができるのなら、今すぐ主に捧げてしまいたいくらいだった。そうして、この人に、私という存在を握ってしまってもらいたかった。

 それは、献身でありながら、自分のすべてをこの人に受け入れてほしいという、身勝手な欲情でもあった。目を見交わしているだけで、誓いの口付けと共に与えられた疼きが増していく。目も眩むほどに、この人が欲しいと感じる。

 心配からくる怒りが過ぎ去った後の、不安に揺れる表情で見られていれば、よけいに。

 先程の姿からは一転して、頼りなげな風情となってしまった主の、薄く涙の膜の張った瞳に、私が映っていた。一心に見つめる瞳だけでなく、きっとその心の中も、今は私のことでいっぱいなのだろう。それは、歓喜以外の何物でもなかった。

 私は手を上げ、頬に触れた。人差し指と中指の先で頬骨を撫でる。そうして拒まれないのを確認して、掌をあてて包み込むようにした。あまりに不安げな様子に、慰めを与えたかったのだ。

 主は安心したように微笑み、目をつぶって、私の手に頬を寄せてきた。すり、すり、と幾度かこすりつけ、そして、満足気な顔となって、緩慢に今一度瞼を開く。その瞳は。

 とろりと蕩けるような色っぽいまなざしで。

 ずくりと欲望を刺激される。背筋に震えがきそうになる。それを体を強張らせてこらえ、咄嗟に手を引いた。同時に、彼女の視線を振り切るために、頭も下げる。それにつられて少し肩も下がり、主の手も離れていった。

 そうした一連の性急な態度をごまかすために、私はことさらしかつめらしく呼びかけた。

「サリーナ様」

 呼びかけたとはいっても、頭の中は真っ白だった。女性の色香に()てられた男なんてものは、皆そうだろう。理性よりも本能がまさり、ろくなことなど考えられない。だが、この状況ではそれが役に立った。本能に従っている時は妙に勘が冴え、切り抜けるのに必要なことだけはよくわかるのだ。

 私はすべてを押し流す勢いで、説教を開始した。

「騎士と命運を共にする主が、どこにいますか。主は大義に生き、騎士はそれを支えるためにいるのです。共に死んだら、大義は潰えてしまいます。主が生き抜くことこそが、騎士の命を無駄にしないことにつながるのです」

 主の気配が、頭の上で動いた。振られる手が視界の端で見え、強い口調の、抑えた声音が言い返してくる。

「無駄になんかしないわ。ちゃんと、するべきことはするつもりよ」

「だとしても、軽々しく後を追うなんて口にすること自体が間違っています」

「だって、そうでも言わないと、あなたは簡単に死んでしまうでしょう!? 私やトリストテニヤと自分の命を天秤に掛けて、利益があると判断すれば、捨てかねないじゃない!!」

 思いもしなかった叫び声が浴びせられた。取り繕うことをかなぐり捨てた、心がむき出しになった声。

 私は思わず顔を上げそうになった。が、そんな危険は冒せなかった。こんな声の主を見れば、私はまた流されてしまう。

 私は主を守るために生きているのだ。それができないのなら、生きている理由がない。とうてい主の要求には、応えられないのだ。

 だから、卑怯とわかっていて、頭を下げ続けた。そして、短く、少しずれた答えを返す。

「それが騎士の気概ですので」

 主がするどく息を吸い込んだ音がした。沈黙が降ってくる。下ろされた手が、ぎゅっと握りこまれるのが見えた。

 私は待った。このまま主が納得して諦めてくれればと願いながら。

 やがて、震える声が静寂を破った。

「……わかってるわ、そんなこと。あなたは、どこでどんな姿で何をしていたって、騎士なんだってことは。……でも、でも、私は、ロランみたいに強くは生きられない。あんな嘆きには耐えられない」

 ぽたり、と目の前の地面に、何かが落ちてくる。もう一つ、ぽたり。透明な小さな雫が。

「ずっと見てきた。何年も、何年も、泣いて、泣いて、物もろくに食べられないで、お酒に溺れて、それでも忘れられずに、会えない人の名を呼ぶの。あんなのは……怖い」

 主の言に、こんな時でありながら、頭の隅で、ああ、そうだったのかと、私はようやく腑に落ちた気がした。

 だから主は、いつもメディナリーを気にかけ、時にいたましいものを見るようにしていたのだ。

 では、主はメディナリーに心惹かれていたわけではないのか。主の想い人は、彼ではなかった……?

 私は物思いに沈み込みそうになった。けれど、主の声に現実に引き戻される。

 主は続けて、強がるでもなく、静かに、動かし難い真実だとでもいうように語りかけてきた。

「あなたを失ったら、私は生きていけない。……できないんだもの。しかたないでしょう?」

 その、諦めと、居直りと、切なさと、でもどこか誇らしさも感じる不思議な響きに、私はとうとう顔を上げた。

 主は滂沱と涙を流していた。私と視線が合うと、ごしごしと目をぬぐった。鼻をすすりあげて、止まらない涙をぽたぽたとこぼして、それでも私をひたりと見つめてくる。私の視線を逃すまいとするようだった。

「だから、死なないで。危険なこともしないで。自分を大事にして。お願い」

 涙に声が揺れる。所々裏返る。それがどれほどの思いをのせたものか、如実に伝わってくる。

「……もとより、あなたのものであるこの命を、粗末に扱うつもりはありません」

 苦しい言い逃れだった。『粗末』の程度は私の主観に()る。こんな玉虫色の答えを、主は欲していない。

「そんな言い逃れは聞かない」

 案の定、厳しい表情になって、主は数瞬黙り込んだ。

「約束してくれないというなら、命じます。……エディアルド、私より先に、けっして死んではなりません」

「そんな無茶な命令には従えません。だいたい、私は男で年上です。それだけでも無理がある」

「無理じゃないわ。その前に、私を殺してくれればいいだけだもの」

「何を仰るんですか! この剣は、主の血で汚すためにあるのではありません!」

 とんでもない要求に、私は思わず声を荒げた。

「あら。そんなことはないでしょう? 古から、落城の際に、敵に討たれる前に主の首を落とすのは、第一の騎士の役目のはずよ? なんとしてでも生き残り、最後の最後まで主を守る。それが、第一の騎士の覚悟なのではなくて?」

 恐ろしい故事を持ち出し、こともなげに言う。

 この人はわかっていない。怒りとともに、そう思った。殺気とともに剣を向けられ、命を危険にさらされたことがないから、そんなに簡単に殺せなどと言えるのだ。

「命の遣り取りがどんなものか、あなたは何もわかっていない。こんな戯言は聞くに値しません。……頭を冷して、よく考えてみてください。失礼いたします」

 私は一度頭を下げ、立ち上がった。硬い表情の主を見下ろし、軽く会釈をして、踵を返す。

 主を傷つけているとわかっていた。きっと、怒らせてもいるだろう。けれど、どうしても()げられなかった。

 私は、この事態の落としどころの見当もつかず、どうしたらいいのかと頭を抱えつつも、それでも主を庭に一人残して、城へと引きあげた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ