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メディナリーは、国王の騎士より先に弟御に会うべきだという意見で一同一致し、明日を待たずに出立させることになった。
いきなり騎士の尋問で心理的に追いつめられれば、誤った判断に傾くこともありえる。まずは、メディナリーが解決の道があると示せば、その恐れも少なくなるはずである。
メディナリーには、祖父に書き送った献策の写しを渡しておいた。それと当座の金を用意してやり、あとはトラヴィスに任せた。トラヴィスならば、馬車の手配からなにから、抜かりなくやってくれるだろう。
そういうわけなので、クレマンには今夜はゆっくり休むようにと伝え、それから、国王の騎士との移動は、あらゆる手段で邪魔をし、遅らせるようにと言い含めた。アストルには悪いが、ぜひとも彼の足止めをしてもらわねばならないからだ。
メディナリーの口ぶりから察するに、弟御は生真面目な性格のようである。ならば、兄からの援助の手を拒む可能性もある。とにかく、少しでも話し合う時間が必要だと思われたのだ。
私はすべての手配を終えてから、執務室に戻り、疲れた様子で書類に書き込みをしていた主に、声をかけた。
「お茶はいかがですか?」
「……もういいわ。晩餐が食べられなくなってしまいそうだから」
主は苦笑した。
「では、晩餐まで、少し散歩でも?」
「そうね。一人でなければだけど?」
そう言って、私に手を差し伸べてくる。
「もちろん、お供いたします」
私はその手を取り、立たせた。主が身を寄せてきて、するりと腕をからめてくる。
私たちは御前会議の後から、自然と、手を取って導いて歩くのではなく、腕を組み寄り添って歩くようになっていた。バトラーと主の距離としては間違っているのだろうが、私はそのくくりにこだわるのはやめていた。私たちは、私たちであればいい。そして今は、主の心を少しでも慮れる位置にいたかった。
先程の会話の中で、主自身もメディナリーの想いを承知していたようなのは見受けられたが、だからといって、気に掛かけている相手の、あんな告白を面と向かって聞かされたら、辛いはずだ。
ただ、そんな様子はさっきから少しも見出せず、もしかして、メディナリーは主の想い人ではなかったのかもしれないと、そんな気もしてきていた。
それほどに、負の感情を隠すのが上手くなってしまったのかもしれない。でも、それにしては屈託のない笑みを見せている。足取りも軽やかだ。主はとても楽しそうに、窓の外の紅葉を指差して、あれを見に行きましょうと言った。
私たちは庭に出て、窓から見えた、ひときわ赤く色付く木の下に立った。
はらりはらりと葉が舞い落ちてくるそれに、主は手を伸ばした。しかし、そのわずかな空気の流れでも葉は向きを変え、逃げていってしまう。落ちる葉をつかむのは、とても難しいものだ。
幾度も手を伸ばす主の横で、私は広がる枝の下に掌を出してみた。静かに待つ。赤く染まった葉が、この手の中に落ちてくるのを。時折、ひらひらと葉が指先をかすめてはいくが、けっして掌の上にはやってこなかった。それもまた、奇跡に近いことなのだ。
なんとままならないことか。落ちる葉一つ思いどおりにはならない。……まるで、人生のようだと思う。
「本当は、ドラクロワ卿と行きたかったのではなくて?」
なんの脈絡もなく、不意打ちで聞かれて、私は主に顔を向けた。主は手を下ろし、茫洋と色付く梢を見上げていた。
「いいえ。……なぜそのようなことを?」
「あなたにとって、騎士の誉れは命にも等しいものでしょう?」
それは、ルドワイヤの男の気概。すべての騎士の覚悟でもある。……騎士と呼ばれなくなった私にとっても、また。
けれど、それは守るものがあってこそのもの。それがないままに力を振るう者は、本物の騎士ではない。……騎士団にいた頃の、私のように。
「サリーナ様」
私は主の名を呼んだ。この人は、本当に言いたいことを言っていないように感じた。なんでもないように振る舞おうとしているけれど、違う。
……この頃、ようやく気が付いた主の癖がある。この人が目をそらして話す時は、最も気掛かりなことを話題にしている時なのだ。隠すことができないほどの感情を、見せまいと、無意識にそういう行動に出るのだろう。……今も、おそらく。
たぶん主は、私に騎士に戻ってほしくないと思っているのだ。恐れていると言ってもいいかもしれない。……目も合わせられないほどに。騎士に戻るということは、私がここを出て行くということに他ならないから。
笑みが心の底からわいてきた。
それほどに、傍にいてほしいと思われている。それが嬉しくてならなかった。
だから、呼ばれてゆっくりと顔を上げ、どこか怯えたように見る主に、私はにこやかに伝えた。
「私が守りたいのは、あなたです。あなたに危険が迫っているかもしれないのに、傍を離れたいとは思いません」
主の顔に、やっと微笑が浮かんだ。が、それは幾許ももたず、なぜかすぐに泣きそうに変わり、私の肩へと顔を押し付けてきた。
「どうなさったのですか?」
私は驚いて聞いた。何か傷つけることを言っただろうか。彼女の触れているところが、じんわりとあたたかい。まさか泣いているのかと、反対側の手で彼女の肩に触れた。すると。
「……あなたは、私だけの騎士。そう思っていい?」
思わぬことを言われ、それでも、常に心の中にあるそのままに、すぐに口にする。
「はい。私の忠誠は、あなただけに」
主はいっそう強く私にすがってきた。そして、顔を見せないままに、誓句を唱えはじめた。騎士を任命する時の、主側の誓いを。
「……我は汝の忠誠を受け入れん。これより先、汝の命は我がもの。故に、我らが命運は一つと心得よ。我が誉れは汝の誉れ。汝の血は我が血。もしも汝の血が流れることあらば、我は命にかえても、憎き敵の血でその血をすすがん」
言い終わると、主は唇を真一文字に引き結んで、私を見上げた。瞳に涙はなかったが、強固な決意を秘めて、その激情に、今にも泣きだしそうだった。
私はその意志の前に、自然に片膝をついた。成約のため、腰の剣を引き抜き、すみやかに主に手渡そうとする。だが、主は柄頭の上から柔らかくそれを押し留めた。
「私の手に、剣はあまるから」
そう言って、腰をかがめ、私の肩に手をついて、顔を近づけてきた。すぐ目の前で、その頭が傾けられる。唇に吐息がかかり、主が目をつぶった。
唇が、重なる。
私は、柔らかい感触に、息を止めた。体の動きも止めた。ただただ、焦点も合わないほど近い主の顔を見つめる。
体が熱かった。血潮がうねるようにめぐっていた。少しでも動いたら、これ以上の刺激を受けたら、もう正気ではいられないだろうとわかっていた。
触れているだけの、長い長い口付け。それが、離れていく瞬間に、ほんの少し擦れた。それに、どうしようもなく体がうずいた。
唇を離した主は、未だ吐息のかかる距離で私を見つめて、囁いた。
「……これがライエルバッハの流儀よ」
けぶるように伏せられたまなざしが、匂うように艶めいて見えた。