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金の女領主と銀の騎士  作者: 伊簑木サイ
第四章 こぼれた想い
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 ほんの少しだけしょっぱい、涙の味が舌先から伝わる。

 ああ、とうとうやってしまったな、という妙にさっぱりとした気分で、主の頬から唇を離し、見下ろした。

 主は、ぽかんとして私を見ていた。まばたきも忘れて、凝視している。

 驚く、よな。

 私だって、馬車の中でやられた時は、驚いた。それはもう、心臓がばくばくで、すぐには動けなかったほど。

 なんだかおかしくて、くすりと笑う。

 すると、主が夢から醒めたように、まばたきを繰り返した。まるで、まばたきを一回すれば、次に見えた世界は違うものになっているのではないかと、疑っているかのようだ。

 信じられないのか。信じたくないのか。

「エディアルド?」

「はい」

「あの、」

「はい」

 わざとすぐに答えてたたみかけたら、主は言葉につまって、口をつぐんだ。そのかわり、無意識にだろう、頬に手をやる。

 さて、どうしようか。

 焦る気持ちはなかった。これほど大勢の居る場所で、自分がしでかしたことは、充分にわかっていた。また噂は燃えあがるだろうし、いろいろ言われもするだろう。

 でも、もう、どうでもよかった。

 自分でも、今、理解したのだが、どうやら私は、噂に自分の気持ちを言い当てられているのが、一番嫌だったらしい。

 それも、自らさらけだしてしまった後では、だからどうした、だった。

 だって、当然だろう。

 こんな女性は、二人といない。知性に富み、人品に優れ、それでいて女性らしい優しさにあふれている。素晴らしいところをあげれば、きりがない。

 誰もが惹かれないわけがない。そんな女性に、私もまた、心を捧げているだけだ。

 ただし、本当に心揺すられてしかたないのは、こんな無防備な表情なのかもしれなかった。出会った頃そのままの、……復讐を果たして死ぬよりも、もう少し彼女の笑顔を見ていたいと、この笑顔を守りたいと、そう思わされた、素のままの彼女の。

 そう。私は、彼女がたった十四歳だったあの頃から、彼女に命を握られ、魂は屈服している。

 それを、恥だとは思わない。ただ、彼女に出会えたことを、この身の最大の幸運と思うだけだ。

 どれほど、この人が、大切か。どれほど、……どれほど、愛しているか。

 そのすべてを隠しておくには、もう、気持ちは大きく深くなりすぎていた。

 今さっきまでは、この気持ちを欠片でも漏らしてしまえば、二人の関係は破綻すると思っていた。本当にほんの少し前だ。今の今、こんなことをやらかす寸前まで。きっと、結局は傷つけてしまうと。

 だが、この瞬間に感じるのは、理由のわからない自信だった。

 どんな形であれ、この人がこの気持ちを肯定してくれるのなら、私はこの人の望む形で、この人の傍にいられるだろう、と。

 兄でもいい。家族でもいい。バトラーとしてでもいいのだ。彼女にとって、かけがえのない人物でありさえすれば。それで、よかった。

 そうやって愛情を示せるなら。もう、理由をつけて、押し殺しておかずにすむなら。

 目の前の主は、私を一生懸命見透かそうとしていた。どうしてこんなことをしたの、と。

 その答えを選ぶのは、主だ。五年前、私が生きることに意味を与えてくれたように、今また、思うままに、この気持ちにも意味を与えてくれればいい。

 そうして、あやふやな関係を終わらせ、新しい関係を築くのだ。

 けっして途切れない、一生をかけて紡ぎ、繋いでいく、関係を。

 私は待った。静かに主を見つめて、彼女が答えを出すのを。

「……な、なんで?」

 ためらいがちに尋ねてくる。

 その質問は、単純なだけに答えるのが難しかった。あの時の気持ちを、言い表すことはできない。あの行動がすべてだ。それでも、言葉にしてみるならば。

「……したかったからです。お嫌でしたか?」

 彼女は目を丸くして、息を呑んだ。みるみる頬に血をのぼらせていく。それからかなりの逡巡の末に、恥ずかしげに、答えをくれた。

「嫌じゃ、なかった、けど」

「けど?」

 彼女は困ったように考え込んだ。視線をうろうろさせている。ずいぶんそうしていたが、そのうち、何を思いついたのか、急に拗ねた表情になって、私を見た。

「エディアルドは、誰にでも、ああやって慰めるの?」

 慰める? ああ、涙を吸ったからか? でも、あれは、

「慰めてはいません。悲しくて流したものではなかったでしょう?」

 私は、そう感じたのだが。

 首を傾げて問いかけたら、なぜか主は、さらに真っ赤になって、突然怒りだした。

「さっきから、ずるいわ! 質問に質問ばかり返して、ちゃんと答えてくれない!」

「質問が正しくなければ、正しい答えも返せません」

 落ち着いて指摘すれば、主は、う、と唸って黙った。それは上に立つ者の心得として、旦那様に折に触れ注意されていたことだ。

 それでも、なにやら納得できないらしい主は、上目遣いで、すっかり意固地な顔になっていた。これではまともな会話にならないだろう。

 どうやら答えを求めるあまり、追いつめすぎたようだ。そこで、助け舟を出すことにした。

「そうですね。あのように慰めるのは、あなたと、……母だけでしょうね」

 なるべく正直に正確に答えたくて、私は母のことも付け加えた。主はまだ変わらない目つきで、聞き返してきた。

「それは、家族、だから?」

「いいえ。父や兄には、そうする気にはなれません。そうではなくて、私にとって、命を懸けて守りたい女性だからでしょうか」

 自分の無意識の中にあるだろう答えを探りながら、ゆっくりと口にする。

 主の眉間から険が消えた。

「命を、懸けて?」

「ええ」

「お母様と、私だけ?」

「そうです。母と、あなただけです」

 言葉にするほどに、自分の心がはっきりと浮かび上がる。ああ、そうだったのかと、自分でも思うほどに。

 主は確かめるように、私を見ていた。やがて、おとなしく視線を落とすと、不機嫌ではない声で、せいいっぱいな感じに、澄まして言った。

「だったら、いいの」

 私は喜びに、笑みが浮かぶのを止められなかった。

 それは、主が初めて見せてくれた、私に対する独占欲だった。

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