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ほんの少しだけしょっぱい、涙の味が舌先から伝わる。
ああ、とうとうやってしまったな、という妙にさっぱりとした気分で、主の頬から唇を離し、見下ろした。
主は、ぽかんとして私を見ていた。まばたきも忘れて、凝視している。
驚く、よな。
私だって、馬車の中でやられた時は、驚いた。それはもう、心臓がばくばくで、すぐには動けなかったほど。
なんだかおかしくて、くすりと笑う。
すると、主が夢から醒めたように、まばたきを繰り返した。まるで、まばたきを一回すれば、次に見えた世界は違うものになっているのではないかと、疑っているかのようだ。
信じられないのか。信じたくないのか。
「エディアルド?」
「はい」
「あの、」
「はい」
わざとすぐに答えてたたみかけたら、主は言葉につまって、口をつぐんだ。そのかわり、無意識にだろう、頬に手をやる。
さて、どうしようか。
焦る気持ちはなかった。これほど大勢の居る場所で、自分がしでかしたことは、充分にわかっていた。また噂は燃えあがるだろうし、いろいろ言われもするだろう。
でも、もう、どうでもよかった。
自分でも、今、理解したのだが、どうやら私は、噂に自分の気持ちを言い当てられているのが、一番嫌だったらしい。
それも、自らさらけだしてしまった後では、だからどうした、だった。
だって、当然だろう。
こんな女性は、二人といない。知性に富み、人品に優れ、それでいて女性らしい優しさにあふれている。素晴らしいところをあげれば、きりがない。
誰もが惹かれないわけがない。そんな女性に、私もまた、心を捧げているだけだ。
ただし、本当に心揺すられてしかたないのは、こんな無防備な表情なのかもしれなかった。出会った頃そのままの、……復讐を果たして死ぬよりも、もう少し彼女の笑顔を見ていたいと、この笑顔を守りたいと、そう思わされた、素のままの彼女の。
そう。私は、彼女がたった十四歳だったあの頃から、彼女に命を握られ、魂は屈服している。
それを、恥だとは思わない。ただ、彼女に出会えたことを、この身の最大の幸運と思うだけだ。
どれほど、この人が、大切か。どれほど、……どれほど、愛しているか。
そのすべてを隠しておくには、もう、気持ちは大きく深くなりすぎていた。
今さっきまでは、この気持ちを欠片でも漏らしてしまえば、二人の関係は破綻すると思っていた。本当にほんの少し前だ。今の今、こんなことをやらかす寸前まで。きっと、結局は傷つけてしまうと。
だが、この瞬間に感じるのは、理由のわからない自信だった。
どんな形であれ、この人がこの気持ちを肯定してくれるのなら、私はこの人の望む形で、この人の傍にいられるだろう、と。
兄でもいい。家族でもいい。バトラーとしてでもいいのだ。彼女にとって、かけがえのない人物でありさえすれば。それで、よかった。
そうやって愛情を示せるなら。もう、理由をつけて、押し殺しておかずにすむなら。
目の前の主は、私を一生懸命見透かそうとしていた。どうしてこんなことをしたの、と。
その答えを選ぶのは、主だ。五年前、私が生きることに意味を与えてくれたように、今また、思うままに、この気持ちにも意味を与えてくれればいい。
そうして、あやふやな関係を終わらせ、新しい関係を築くのだ。
けっして途切れない、一生をかけて紡ぎ、繋いでいく、関係を。
私は待った。静かに主を見つめて、彼女が答えを出すのを。
「……な、なんで?」
ためらいがちに尋ねてくる。
その質問は、単純なだけに答えるのが難しかった。あの時の気持ちを、言い表すことはできない。あの行動がすべてだ。それでも、言葉にしてみるならば。
「……したかったからです。お嫌でしたか?」
彼女は目を丸くして、息を呑んだ。みるみる頬に血をのぼらせていく。それからかなりの逡巡の末に、恥ずかしげに、答えをくれた。
「嫌じゃ、なかった、けど」
「けど?」
彼女は困ったように考え込んだ。視線をうろうろさせている。ずいぶんそうしていたが、そのうち、何を思いついたのか、急に拗ねた表情になって、私を見た。
「エディアルドは、誰にでも、ああやって慰めるの?」
慰める? ああ、涙を吸ったからか? でも、あれは、
「慰めてはいません。悲しくて流したものではなかったでしょう?」
私は、そう感じたのだが。
首を傾げて問いかけたら、なぜか主は、さらに真っ赤になって、突然怒りだした。
「さっきから、ずるいわ! 質問に質問ばかり返して、ちゃんと答えてくれない!」
「質問が正しくなければ、正しい答えも返せません」
落ち着いて指摘すれば、主は、う、と唸って黙った。それは上に立つ者の心得として、旦那様に折に触れ注意されていたことだ。
それでも、なにやら納得できないらしい主は、上目遣いで、すっかり意固地な顔になっていた。これではまともな会話にならないだろう。
どうやら答えを求めるあまり、追いつめすぎたようだ。そこで、助け舟を出すことにした。
「そうですね。あのように慰めるのは、あなたと、……母だけでしょうね」
なるべく正直に正確に答えたくて、私は母のことも付け加えた。主はまだ変わらない目つきで、聞き返してきた。
「それは、家族、だから?」
「いいえ。父や兄には、そうする気にはなれません。そうではなくて、私にとって、命を懸けて守りたい女性だからでしょうか」
自分の無意識の中にあるだろう答えを探りながら、ゆっくりと口にする。
主の眉間から険が消えた。
「命を、懸けて?」
「ええ」
「お母様と、私だけ?」
「そうです。母と、あなただけです」
言葉にするほどに、自分の心がはっきりと浮かび上がる。ああ、そうだったのかと、自分でも思うほどに。
主は確かめるように、私を見ていた。やがて、おとなしく視線を落とすと、不機嫌ではない声で、せいいっぱいな感じに、澄まして言った。
「だったら、いいの」
私は喜びに、笑みが浮かぶのを止められなかった。
それは、主が初めて見せてくれた、私に対する独占欲だった。