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「クレマンが帰ってこないとは、困りましたね」
晩餐の後、くたびれきってソファに沈み、それでもお茶をすすりながら書類を眺めていた主に向かって、トラヴィスは遠慮なくそんなことを言いだした。
「トラヴィス」
なにもこんな忙しかった日に言うことでもあるまいと、名を呼んで制止してみたが、
「エディアルド、ダンスの道は一日にしてならずですよ。移動でお疲れだった昨夜は、ろくな練習にならないだろうとお勧めしませんでしたが、本来ダンスというものは、一日休めば三日分逆戻りしてしまうものなんです。サリーナ様なら、残念ながら、五日分でしょう」
トラヴィスは、ますます追い討ちをかけるように酷いことを言った。
トラヴィスの言を信じるならば、アルリードの屋敷でも練習をさぼったから、全部で四日の五倍、二十日にもなる。先日始めたばかりの練習日数を上回ってしまっている。戻るどころか、マイナスだ。いくらなんでも、そんなわけはあるまい。大袈裟すぎる。
「しかたございませんから、手拍子で代用するとしましょうか。さあ、そんな仕事は明日にして、練習をなさってください」
「トラヴィス」
あんまりな言い様に、重ねて、今度は強く抗議の意を込めて呼んだ。
「いいの、エディアルド」
主は溜息混じりに苦笑して、書類をテーブルに置いた。
「全然集中できなかったの。頭の中が、ぱんぱん。もう、明日考えるわ」
そして、座ったまま、手だけ私に向かって伸ばして、ふざけたように、ぷらぷらと振った。
「おつきあい願えるかしら?」
そのおどけた様子に、笑みを誘われる。主がそれでよいなら、否やはない。
「喜んで」
私は歩み寄って、いまだ振られている手をとり、主を引き起こした。
惨憺たる練習を終え、とぼとぼと歩く主の足元をランプで照らし、横に並んで廊下を歩いていた。
主が、はあ、と溜息をこぼす。私は見かねて声をかけた。
「毎日練習をすれば、すぐに勘を取り戻せましょう。豊穣祭までは、まだまだございます。きっと、誰とでも楽しめるくらいに上達なさいますよ」
励ましたつもりだったのに、主はどうしたわけか、さらに俯いて足を止めた。私も遅れて立ち止まる。
「いかがなさい……」
屈んで顔を覗き込もうとした瞬間、主が勢いよく顔を上げて、にこ、と笑った。
「そうよね。せっかくの豊穣祭なのに、私の相手ばかりでは、エディアルドも楽しくないわよね。でも、一番最初は、私と踊ってね。ほら、一応、先導役で踊らなきゃならないから」
「いえ、私はあなた以外とは踊りません。あなたの警護をおろそかにするわけにはまいりませんので」
「え? あ、そう……なの?」
主は人差し指を顎につけて、考え込むようにした。
だいたい、主が相手でなければ、ダンスなんかに興味はない。
ところが主は、考え込んであらぬ方を見たまま、有難迷惑なことを、とつとつと語り出した。
「でも、やっぱり、エディアルドだって、楽しむべきだと思うの。あなた、いつも、自分のことは二の次なんですもの。……私、ちゃんと誰かといるようにするし、たくさんの人目があるところで、何かあるわけがないわ。……だから、いいのよ、誰か誘っても」
「お気遣いありがとうございます。ですが、誘う相手もおりませんので」
「……誘いたい人がいるなら、私から、」
「いません」
私は、ぴしゃりと遮った。
これ以上、主が他の女との縁を取り持つようなことを言うのを、聞きたくなかったのだ。
だが、すぐに、ああ、まずい、と後悔した。いくらなんでも無礼がすぎる。それよりなにより、せっかくようやく心を開いてくれていたのに、きつい拒絶に、また主が怯んでしまうかもしれない。
私は、固唾を呑んで主の反応を窺った。しかし主は、予想に反して、壁のどこかを見るのをやめて、まっすぐな視線をよこしてきた。
「本当に?」
怯む様子はなかった。むしろ、しっかりと私を捉えていた。
「ええ。本当です」
間髪入れず頷くと、主は何回か瞬きをした。それから恥ずかしげに目をそらし、そして、ぽそぽそと嬉しいことを口にしてくれた。
「じゃあ、私とたくさん踊ってくれる?」
「私でよろしければ。ですが、あなたこそ他に踊りたい者がいるのではないですか?」
「どうして? そんな人、いないわ」
主は驚いたように視線を戻して、早口に言った。
「遠慮なさらずとも。メディナリーや、……ハリスンもお気に入りでしょう。セインとは気心の知れた仲のようですし、他には……」
「どうして、さっきから、そんなことばかり言うの?」
名前を挙げるほどに不機嫌な表情となった主に、私は何が悪かったのかわからず、口をつぐんだ。
「私は……、私は、あなたと踊れれば、それでいいの」
言ってから、主は顔をそむけた。……強張った面持ちで。
私と踊れればいい? そんな不本意そうな顔をしているのに?
私は、主の真意がつかめず、考え込んだ。
おそらく、ダンスが下手すぎて、他の者と踊れる自信がないのだろうが、私以外に踊りたい相手がいないとまで言い張るのは、もしかして、苦手意識がまさるあまり、ダンスが嫌いになってしまっているのだろうか。
だとすれば、それは私の落ち度でもある。真に上手い踊り手は、ダンスの心得のない者を相手にしても、優雅に導き踊らせるそうだから。
それに、地位ある身で踊るのが嫌いなど、これからの主のためにならない。どうしても立場的に、今回のように、踊らなければならないことがあるからだ。
それも、領内の見知った者たちの前だけではない。いずれ、国王陛下の前でも披露する機会が訪れるはずだ。貴族の当主の結婚には、国王の許可がいるのだから。
となれば、私がとるべき行動は一つである。
「どうか諦めないでください。大丈夫です。必ず、誰とでも踊れるようになるまで、私が責任を持って練習にお付き合いいたしますから」
主は、ぴくりと肩を揺らし、ゆっくりとした動きで顔を上げた。呆然といったまなざしで、まじまじと私を見ている。
どのくらい、そうやって見つめあっていたのだろう。その眦が、突然、キッと吊りあがった。それに戸惑っていると、主は、すーっと大きく息を吸いこんで、猫がフーッと毛を逆立てるのとそっくりな感じに、大声をあげた。
「どうしてそうなるの! もうっ! エディアドの、ばかぁっ」
私の目の前で、癇癪を炸裂させて、淑女にあるまじき地団太を踏む。両の拳を握って、上から下へと勢いよく振り下ろした。
「どうせっ、どうせ私なんか、」
胸を衝くような声で叫んだところで、激情を抑えこむかのように、急に押し黙った。そのまま動かず、体を緊張させたまま、私を睨みつけている。その瞳に、涙がもりあがってきた。
ああ、こぼれてしまう。
その瞬間、主はぷいっと横をむいて、その方向に一人ですたすたと歩きだした。
私はその後をついていった。ランプの灯りがなければ、主はすぐに不自由するだろう。
しかし、今向かっているのは、さきほど出てきた居間の方向であった。寝室とは反対側だ。どうするのかと思っていたら、途中の階段を上りはじめた。上階に入ると、寝室のある方向へ向かい、そして、階段を下りた。つまり、城の中を、ぐるっとまわって、ほぼ同じ位置に戻ってきたことになる。……どうしても後戻りしたくなかったらしい。
下りの階段で、いつものように手を取ろうかと思ったが、怒った肩に、手を振り払われそうだと感じ、声をかけられなかった。しかたなく、手の届く位置に陣取り、何かあったら、すぐに助けられるように身構えて、あとは主がしっかり手すりを掴んでいるのを見て、よしとするほかなかった。
どうやら、ものすごく怒らせたらしい。たぶん、言い方がまずかったのだろう。
はじめから上手く踊れる人間なんかいるわけないのだから、下手なのを気にすることはないのに。まさか、あんなに気にしているとは思わなかった。こちらの胸が痛くなるような声で、どうせ私なんかと、叫ぶほどだったとは。
……なのに、この人は、たくさん踊ろうと誘ってくれたのだ。『私とたくさん踊ってくれる?』と、好きでもないダンスをねだるふりをして。
それはたぶん、主が、私がダンスを好きだと思っているから。踊る相手がいないと言った私のために、だったのだろう。
主がそう信じ込むのも、無理はない。私は確かに、主との練習を、とても楽しんでいたのだから。
……まったく、本当に、いつまでたっても変わらない。優しくて、お人好しな人だ。
私は、くすりと笑った。これほどの怒りを買っているのに、今までのように、胃の痛くなる気分にはならなかった。
こんな子供っぽいふるまいを、少し前の主なら、けっしてしなかっただろう。
たとえ、目の前の背が怒っていますと言っていても、いつもより歩幅が幅広くても、それこそが、心を許し、甘えてくれている証なのだと感じる。
もちろん、主を怒らせるのはよくない。だが、怒らせたからといって、この程度で何かが壊れたりしない。それを、深く実感していた。
主は部屋の前まで着くと、立ち止まって、後ろ手に手を突き出した。ランプをよこせということらしい。
ランプの提げ輪をしっかりと握らせようと、……いや、触れたくて、その手を掴んだ。主の背が、びくりと揺れ、ランプも揺れて、影がおどった。
「今日は飲み物はいりません。……おやすみなさいっ」
主は小さく叫ぶように言って、部屋の中に飛び込んでいった。
「かしこまりました。おやすみなさいませ」
主の寝室の扉は、気のせいでなければ、私の挨拶が終わってから、ばたんと閉められたのだった。