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金の女領主と銀の騎士  作者: 伊簑木サイ
第三章 彼の後悔、彼女の決意
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15

 夜も更け、酒のせいで話がぐだぐだになってきたので、おひらきにした。

 ラスティにテーブルを片づけるのを任せ、私は窓を開けにいった。

 主が訪ねてくるわけがない。しかし、もしもの時に、自分のみならず部屋の中まで酒臭いのでは、不快な気分にさせるだろう。

 小さなバルコニーに出れば、酒に火照った体に、外の風は気持ちよかった。見下ろす庭には、そこここに篝火が焚かれている。防犯のためであろうが、篝火の台の形も、照らし出す場所も、庭師によって、きちんと計算されていて美しい。

 主が見れば、喜ぶにちがいない光景だった。見せたいものだと思ったが、今晩は時間が時間である。もう、私の方から訪ねていくには遅すぎるように思われた。

 寝る前の飲み物も届けなければ、挨拶もしない。最後に主の顔色も確かめずに一日が終わるなど、どうにも物足りない。

 主が部屋に戻っているのは、人が出入りした音で知っている。隣の部屋に、今は一人でいることも。

 そろそろ寝入っているだろうか。それとも、寝付けないで困っているだろうか。まさか、グレンの目が行き届いているこの屋敷で、主に不都合があるとは思えないが、煩わされていることはないだろうか……。

「アル」

 ラスティの呼びかけに物思いから醒め、振り返れば、おやすみ、と言われた。

「ああ。おやすみ」

 ラスティが出ていく。

 そろそろ私も寝ようか。

 窓はそのままに、とりあえず着替えようと、私は室内へと戻った。


 クロゼットを開けて、コートにまだブラシをかけていなかったことを思い出し、取り出して、丁寧に埃を払った。

 たいへんに良い品なのである。希少なヤギの毛を使っていて、雨に濡れても中まで通ることはない。しかもこれは春秋用で、真冬用はまた別にある。

 スチュワードやバトラーは、着道楽と言われるほど身なりに金をかけるものだ。それが主家のステータスともなる。そうとわかっていても、前御領主や主が用意してくれたこれらは、身にあまる気がしてしかたなかった。

 私は次に、上着を脱いで、それにもブラシをかけながら、溜息をついた。この、ブラウンダイヤを使ったボタンは、いったいいくらするのだろうと。

 光加減で主の目の色と同じに輝くこれは、ライエルバッハ家の収集品の中にあったものらしい。使わなければ宝の持ち腐れでしょうと、主は笑っていたが、糸が切れて一つでも落としたらと思うと、気が気でない。

 ボタンの糸に綻びがないか、しっかり確かめ、私はクロゼットに上着を掛けた。

 タイを抜き取り、首もとのボタンをはずしたところで、どうにも自分の息の酒臭さが気になり、先に口をすすごうと、鏡台の前へ行った。

 ついでに顔も洗い、いくぶんさっぱりする。使った水をバルコニーから外へ捨て、さて、夜着はどの引き出しにしまってあるのだろうと、クロゼットに戻りかけたところで、扉がノックされた。

「はい」

 まさか主ではあるまい、と思いながらも、彼女でしかない予感がして、急ぎ、扉を開けに行く。

「……いかがなさいましたか。ああ、その前に、どうぞお入りください」

 はたして、廊下にたよりない風情で立っていたのは、主だった。上着は羽織っているが、その下に見えるものは、明らかに夜着だ。こんな姿を、誰かに見せるわけにはいかない。

 私は大きく扉を開けて、どうぞ、と、いくらか急かして主を招きいれた。

 さっきまでラスティが座っていたのとは違う席に案内し、カーテンがひらりと風にひるがえったのが目の端に入り、窓を閉めにいく。

 そして、改めて主の許へ戻り、傍に膝をついて、顔色をうかがった。

 それほど悪くはないようだった。少し疲れて見えるが、不安そうだったり辛そうだったりする様子は見られない。

 そこで私は、先に、お寒くはありませんか、と聞いた。私はいまだ酒が抜けきらず、どうということもないが、空気を入れ替えたばかりの部屋は、外気と同じくらいまで気温が下がっている。

「ええ。大丈夫」

 主は微笑みと共に頷いた。

「いかがなさいましたか?」

 私の質問に、主はバツが悪そうに苦笑して、眠れなくて、と言った。

「ベッドには入ったのだけれど、寝付けなくて。……耳を澄ませても、どこからも物音は聞こえないし。そのうち、本当にあなたはいるのかしら、とか、私、一人きりなんじゃないかしら、とか、そんな気がしてきて。そうしたら、窓の方からあなたの声が聞こえたの。何を言っているのかは、わからなかったけれど。それで、まだ起きているんだって、わかって、そのうちに、人の出て行く音がしたから、……その、」

 主は途中から目をそらし、最後には言葉につまって、恥らってうつむいた。

 用もなく使用人を呼び出す主は、嫌われるものである。人を使う立場にある者は、それを心得ていて、むやみと無駄な用を言いつけたりしないものだ。

 特に我が主は、もう少しこちらに任せてくれてもと思うくらい、なんでも自分でやってしまう人だ。

 そんな人が、ただ私の顔を見たくて、訪ねてきた。それが、とても嬉しかった。

「私も、あなたがどうなさっているかと思っていました」

 主が目を見開いて、顔を上げた。

「庭はごらんになりましたか?」

「いいえ」

「篝火がとても綺麗なのです。それをお見せしたいと思ったのです」

「見たいわ」

 主が嬉しそうに言うのに頷いて、私はクロゼットから、さきほどしまった上着とコートを取り出してきた。

「どうぞ」

 立ち上がった主にコートを羽織らせ、自分は上着を着て、手を引いてバルコニーへと導く。

「ああ、ほんとうね。綺麗ね」

 主は笑みを含んだ声で言った。

 いくつもの篝火が、闇に沈む庭に、点々と灯っている。オレンジから紅に猛り、踊る炎は、それだけでも美しかった。それに照り映える彫刻や庭も。

 一人で見下ろしていた時にはなかった、満たされた気持ちになる。この人が傍にいるだけで、どうしてこれほど心が安らぐのか。

 私は主と並んで、穏やかな美しい夜を楽しんだ。

 ……楽しんでいたのだが。

「おじい様は素敵な人ね」

 主の何気なさにあふれた言に、急転直下で気分が下降し、思わず顔をしかめ、主を見下ろした。

 暗くて主の表情はわからない。主にも、私がどんな顔をしているか見えないだろう。それでも、主は私を見上げて、楽しげに言った。

「あなたはおじい様に似たのね。初めてお会いした時、とてもそっくりで、びっくりしたわ。それに、おじい様と話していると、時々、あなたとよく似た仕草をするの。そんな時は、未来のあなたと話しているような、不思議な気持ちになるわ」

 なんと答えたらよいのかわからず、私は黙ったままでいた。

「きっと、あなたも、あんなふうに素敵に歳をとるのね」

 それにも答えられずにいるうちに、主は庭に視線を戻した。庭を見つめ、小さな声で、何かをつぶやく。

 あまりに小さくて聞き取れず、私は聞き返した。

「なんとおっしゃいましたか?」

 主は再び私に視線をくれて、なんでもないわ、と笑った。

「たいしたことじゃないのよ。……この夜が、とても綺麗だと思っただけ」

 私の掌の上に添えられていた手が、そっと私の指を握る。

「……もう、入りましょう? あなたが寒そうだわ」

 主は先に部屋へと一歩踏み出した。

 私も手を引かれるままに、名残惜しく庭に背を向けたのだった。


 翌日、クレマンに祖父との面会が許され、彼はしばらくこちらに残ることになった。

 彼は最も有名な薬草をまとめた本、「薬草大全」の著者である。彼がそれを書いたのは四十歳の時だったそうだが、それ以来有名になりすぎ、雇いたいという者が殺到したらしい。

 しかし彼は薬師になりたかったのではなく、ただ草花を育てることが好きだっただけで、そのため、庭師(・・)として雇ってくれたライエルバッハに身を寄せたのだという。

 クレマンは主治医と相談しながら、これから祖父に投薬を施すのだそうだ。

 そこで、帰りはアルリードのお抱え御者が、馬車を操ってくれることになった。

 ……同じ馬車であるはずなのに、クレマンより、数段馬車の乗り心地がよかった。お抱え御者が上手いのか、クレマンが下手なのか。いずれにしても、これから先も、当家で馬車を操るのはクレマンである。

 とりあえず、帰ったら、馬車の中のクッションを、主のために増やそうと思ったのだった。

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