10
祖父はベッドの上で起き上がっていた。背中に入れたクッションに、深く寄りかかっている様子は見受けられず、記憶の中とそう違わず、威風堂々と背筋を伸ばしていた。
厳しい顔も、鋭い眼光も変わらない。ベッドの中に入っているのが不思議なくらいの、偉そうな態度も。
ただ、昔のように、彼を見ただけで、反射的に席を蹴立てて出て行きたくはならなかった。
こんな人だっただろうか、と思う。少しも私より強そうには思えなかった。厳しそうではあるが、普通の年老いた男に見えた。
昔はあんなに、近付けば頭から丸呑みにされて、いいようにされてしまいそうな雰囲気があったのに。
彼が変わったのか、私が変わったのか、それとも両方だろうかと不思議な感慨を抱きながら、入り口から深く中には入らず、立ち止まり、その場で片膝をついて頭を下げた。
相手がどうであろうと、私がここに来た理由は、一つだった。
「私が今まで貴方に対して行ってきた、数々の非礼をお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした」
誠心誠意という態をとり、謝罪する。
ところが、ここまではすらすらと出てきていた言葉が急に出てこなくなって、私は不覚にも、いったんそこで口を閉ざしてしまった。
次に言わねばならない言葉に、強烈な忌避感を覚えたのだ。そんな自分の正直な反応に、舌打ちしたくなる。
私はここで、決定的に、祖父に膝を折る意を示さなければならなかった。姿を見ただけで踵を返すようなまねは、二度としないと。きちんと向き合い、話し合う心積もりなのだと。
しかし、これまでの行動が行動だ。それに信用を持たせるためには、謝罪だけでなく、許しを請うべきだと考えた。
だが、許しを請うとは、思っていたよりもプライドを折られるものだったらしい。
謝罪だけならば、いくらでも並べ立てるだけで済みもするが、許しを請うには、相手にへりくだり、おもねる態度が必要になってくる。思えば、それが私は昔から、大嫌いだった。
父には様々なことでよく叱られた。それに悪態をついては殴られ、それでも頑として謝りもしなければ言うこともきかなかった。だから罰として納戸に閉じ込められて、食事を抜かれたりもしたものだった。
暗くて狭い中で、他にできることもなくてじっとしているうちに、だんだんと頭の中も冷めてきて、自分が悪かったのはわかってくるのだが、それでも許しを請うぐらいなら、飢え死んだ方がましだと、幼いなりに、本気で考えていた。
あの頃の自分は、本当に考えなしで愚かで幼かったと思う。自分のことも、世の中のことも、まったくわかっていなかった。
騎士団時代も似たようなものだったと、今ならわかる。何もわかっていないから、力にあかせ、傲慢にふるまっていられたのだ。
けれど、トリストテニヤに連れてこられ、前御領主やトラヴィスやクレマン、ハンナやアンやダイナ、温かく迎え入れてくれたたくさんの領民たち、そして誰よりも主から、腕力や金や権力だけが、人を左右し従える力なのではないのだと学んだ。
おかげで人間的に少しは成長できたと思っていたのに、大事なところで許しを請えないなど、私の本性は、あの頃とまったく変わっていなかったらしい。嘆かわしいことだった。
これが相手が前御領主や主だったらなんでもないことなのだが、と考え、主の姿が脳裏に浮かび、ふっと心が軽くなった。
私に人より抜きん出ているものなどない。……だが、主へのこの忠誠だけは、誇れる者でありたい。
そう心を定めたとたん、続けるべき最後の言葉が、自然に口から流れ出ていった。
「私が不遜で愚かでした。どうか、お許しください」
私と祖父の間に沈黙が落ちた。私は床を見つめたまま、動かずに祖父の答えを待った。
呼吸にして十回程の時間が過ぎた頃だろうか。ようやく祖父から静かに声がかかった。
「今の謝罪は、誰のためだ。おまえのためか。他の誰かのためか」
「自分のためです」
私はうつむいたまま、迷いなく答えた。嘘偽りではなかった。これは、主のためなどでは、けっしてない。主を守る力がほしいのは、他の誰でもない、私自身なのだから。
「エディアルド、立って顔を見せなさい」
「いいえ、お許しをいただけるまでは」
筋を通そうと逆らえば、ふん、と鼻を鳴らすのが聞こえた。
「顔を隠す者の、何を信じよと?」
私はしかたなく、顔だけを上げた。祖父の目を、しっかりと見据える。祖父は私を表情も変えずに見ていたが、やがて、覚悟だけは決めたようだな、と言った。
「……いいだろう。おまえに、アルリードとシダネルの全権を委譲しよう。ただし、おまえはこれまでどちらとも関わってこようとしなかった。生半可なことでは従えられんぞ」
「わかっております」
「どのくらいわかっておるのやら。当主印をラスティに押し付けたと聞いたが」
「それについてですが、申し訳ございませんが、私は命の恩人との約束を果たすまでは、トリストテニヤを動くことができません」
「アルフォンス・ライエルバッハ卿か。どんな約束だ。娘を守ってやってくれとでも言われたか」
「はい。アルフォンス様もそうですが、私の真の恩人は、現ライエルバッハ公、サリーナ様です。アルフォンス様が亡くなった折に、領主として立つあの方を一人にはせず、支えると約束しました」
「なるほど。……公が夫を娶るまでが約束の期限と考えてよいのか?」
「はい。私はそのように考えています」
「公は御歳十九だったか。短くて一年、長くても三年というところか」
祖父は考える素振りを見せ、だがすぐに会話に戻ってきた。
「その口ぶりでは、相手の目処はついているように感じるが」
「どうなるかはわかりませんが、候補は」
「わかった。冬の間は猶予をやろう。話が進むよう、手を打て。その相手が駄目なようなら、すぐに連絡を寄こすのだ。こちらで良い候補を見繕っておこう。春からの社交シーズンに公を招いて、それとなく紹介できるよう手配する」
「……ありがとうございます」
「公の婚姻の目処がたったなら、おまえにもアルリードの娘を何人か紹介しよう。どうしてもと心に決めた者がいるのなら相談にものるが、そうでないなら、アルリードから妻を迎えるのが、一番風当たりが少なくなる」
「わかりました。おまかせします」
私は、妙に凪いだ心境で答えた。感情的にはなるまいと、祖父の部屋に入る前に決めていた。理性に従い、主にとって何が一番いいのか、その観点からのみ考えるのだ、と。
今までのところ、祖父は的外れなことは言っていなかった。……いいや、むしろ、私が躊躇って先延ばしにしていたことを、すぐにでもせよと言った。祖父の言うことの方が、正しかった。
自分が無意識に抱えていた未練がましさに、苦笑がこぼれそうになって、私はゆるやかにうつむいた。
「エディアルド」
祖父が、溜息のように私を呼んだ。何かとすぐに顔を上げれば、呼び声そのままの表情で、こちらに来なさいと、手招かれた。
「こうしているのは疲れる。……ゆっくり話したいことがある。そこの椅子に座りなさい」
背中のクッションを崩し、体を倒そうとしているのを見て取って、私は急ぎ足で近付き、祖父の体を支えた。楽な姿勢になれるようにまわりを整え、その中に寄りかからせる。
触った祖父の体が、前御領主の最期の頃とは違って、意外としっかりしているのに安堵した。まだ死ぬ人間の体ではなかった。
私はおとなしく椅子に座った。
「少し、昔の話をしてもよいか?」
「ええ」
私は頷いた。祖父は腹の上で組んだ指に視線を定め、皺が深く見える面持ちで口を開いた。
「おまえは、私がおまえの祖母を捨てたと思っているのだろうが、捨てられたのは私の方だった」
突然語られた内容に、私はぎょっとして目を瞬いた。
「ある日、私には飽きたから、もう会いたくないと言われた。顔も見たくないから、二度と来ないでと言われた。私は……、私はずいぶんショックを受けたのだが、それを表すのが悔しくて、私もおまえの顔は見飽きたところだと捨て台詞を吐いて、別れた」
重苦しさに、こちらの心まで軋むようだった。が、祖父は微動だにせず、話をすすめた。
「その頃、私は前アルリード公に認められて、娘の婿にと、それとなく打診を受けていた。アルリード公の申し出は魅力的だった。私は駆け出しだったし、ノーザンプロストの庶子とはいえ、認知もされていない平民の身分では、貴族相手の仕事は足元を見られることが多かったからな。だが、エヴァがいるのに、そんな話を受けるつもりはなかったのだ」
エヴァ。祖母の愛称なのだろう。祖母の名はエヴァンジェリンだったと聞いている。
「三日たって、頭が冷えて、どうしてもよりを戻したくて、エヴァを訪ねた。けれど、彼女は姿を消していた。ずいぶんあちこち探し回ったが、とうとう見つからなかった。そこまで避けられて、よりを戻せるとは、さすがに思えなかった。私はエヴァを諦め、アルリード公の申し出を受けた。愛した女ではなかったが、結婚するからには、大事にしようと思った。日々を重ねていけば、そのうち、育めるものがあるだろうと。実際、夫婦仲はそれほど悪くなかった。実は、私を先に見初めたのは公ではなく、あの女の方だったらしい。好意を持たれていれば、悪い気はしないものだ。あの女の好意は時に重くも感じたが、私はなるべく応えようとしていたのだよ。けれど……、けれど、私はエヴァを見つけてしまった。……場末の娼館で」
祖父は目をつぶった。その体は硬く強張っていた。
「私は気になって、それとなく人を使って調べさせた。彼女には子供がいた。子供の歳を聞いて驚いた。どう考えても、私と付き合っている時にできた子供だとしか思えなかった。……そう。私の子だった。おまえの母、イーリアだ。エヴァはアルリード公の申し出を知って、身を引いたんだ。私が、もっと事業を大きくしたがっていたのを、知っていたから」
祖父は目を開け、私へと向いた。彼は薄く笑んでいた。
「そこからは、おまえの知っているとおりだ。私はエヴァを愛人として囲った。イーリアに同じ道を歩ませるつもりかと脅して、娼館から足を洗わせた。彼女に、二度と、指一本触れるつもりはなかった。月に一度、金を渡しに行き、イーリアの顔を見て帰るだけだった。長居もせず、人目につかないように、極内密にしていた。私は、あの女やアルリードを憚って、イーリアを認知するつもりはなかったのだ。だが、あの女はどこからか嗅ぎつけて、嫉妬に狂って、ならず者を雇い、エヴァを殺した。なんとかイーリアだけは助けたが、その時の傷が元で、左足が不自由になってしまった」
母の左足には、腿の後ろからふくらはぎまで、大きな傷痕がついている。膝がうまくまげられず、いつも引きずって歩いていた。
「私は、あの女を憎んだ。我を忘れて、同じように殺してやろうと思うくらいに。私はあの女に暴力をふるって首を締め上げた。あの女の顔色が変わっていくのを見ながら、こんなに簡単に殺していいものかと、もっと残酷な殺し方をしなければ気がすまないとすら考えていた。……ところが、あの女は、恍惚とした顔で、呟いたんだ。嬉しい、と。私に殺されるなら、本望だと。私は、おぞましさに、女の首から手を離した」
祖父は、自分の手に視線を落とした。一度強く握って、大きく広げ、また握り締めた。
「いろいろと、考えたよ。気が狂いそうに、考えた。何がいけなかったのか。どうしてエヴァを失ってしまったのか。考えずにはいられなかった。……あの手を、離さなければよかったと、思ったよ。顔も見たくないと言われた日。私は自分のプライドを守るために、彼女を突き放した。娼館で見つけた後もそうだ。他の男に好きで抱かれた女になど、二度と触れるものかと思った。だが、違った。本当は、触れるのが怖かったのだ。他の男によって彼女が変えられてしまっているのを、知りたくなかった。私は、いつも、本当の気持ちを彼女に言ってこなかった。ちっぽけな矜持に縛られて、小さな自分を見せられなかった。私は、彼女に愛しているとさえ言わなかったのだ、一度も。事業を広げたかったのも、金が欲しかったのも、すべて彼女の心を自分に向けさせておきたかったからだったのに。ただ、彼女に傍にいて欲しかっただけだったのに。私はそれを、言わなかった」
祖父は、再び私を見た。さっきまでのどこか遠くを見るようなまなざしではなく、確かに私を見ていた。
「おまえがあの女と偶然会って、私たちの経緯を知った後、私をさけだしたのは、とても堪えた。おまえは知っているか? おまえのその瞳は、エヴァから譲られたものだというのを。おまえだけが、エヴァの面影を継いでいるのだ。その同じ瞳で、嫌悪をもって見られるのは、たまらなかった。まるで彼女に責められているようで。……今も、本当は、迷っている。エヴァは金など欲しがらなかった。おまえも、そんなものを欲しがるような人間ではない。……けれど、私は、エヴァにやりたかったのだ。私の得たものは、どんなものでも」
祖父は大きく息をついた。目をつぶり、眉根を寄せ、続けて苦しげに早い息を繰り返す。長い話に疲れたのだろう。
私は見ていられなくて、……聞いていられなくて、お祖父様、と声をかけた。
しかし祖父は、筋張った大きな手を上げて、それだけで私をさえぎった。強い視線で私をとらえ、激しさを抑えた口調で言い切った。
「おまえを、復讐のために利用しようとしたのではない。それだけは、言っておきたかったのだ」
「わかりました。……充分、わかりました」
その答えを聞いて、祖父の顔が少し安らいだ気がした。ベッドの中に沈みこんでいく。その途中で、呟くように、祖父は言った。
「おまえは、間違うな。私と同じ轍を踏むな。己の望みから、逃げてはいけない。力を欲するなら、なおさら。そうでなければ、その力が、大切なものを引き裂く。……わかるな?」
私は、すぐに答えられなかった。祖父の話は、思いあった人とのものだった。しかし、私の場合は違う。私の思いを優先しても、主は幸せにはなれない。
それに、そんなことをしたら、アルリードの後継者にもなれなくなるだろう。
だが、祖父の気持ちはわかった。痛いほどに、肉親の情を感じた。
だから。
「わかりました。肝に銘じます」
私は、祖父を安心させるために、そう答えたのだった。