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彼女の唇が、ほんの少し、頬に触れただけだった。
なのに、彼女がどれほど私を大切に思っているか、まざまざと伝わってきた。
千の言葉をつくされるよりも、思い知らされた。
いまだ微笑みを消さない、目の前の彼女の瞳の中に、間違いなくその思いはあるのだと、確認できる。
……どうしてこれを見落としてきたのか。
私は、心臓を焼き尽くされるような喜びとともに、焦燥をもって、主を見つめた。
主が、優しく生真面目な方だと知っていたのに。あの約束をおろそかにしないのは、わかっていたはずだったのに。
……それは、私がある意味主を見くびっていたからだと、ここにいたってようやく気付き、己の傲慢さに歯噛みした。
ただ、弁解が許されるならば、私はあの約束を盾にして、主に何か迫ろうとは、全然考えていなかったのだ。
父親を失った少女が、ずっと傍にいてと、頼りになりそうな身近な大人に望むのは、当たり前のことだ。
もちろん、私の誓いは本物だ。旦那様との約束もあるし、それ以上に、大切な人である彼女を放り出せるわけもない。傍にいるのは、約束するまでもなく当然のことで、必要としてくれるかぎり、傍で守り、支え続けるつもりだった。
けれど、いずれ、他の保護者が現れれば、意味のなくなる誓いだとも理解していた。
本来のあれは、他の何かを求めた約束ではなかったのだから。
彼女を一人にしない、それだけのことだった。
それも、あの約束に義務があるのは私であって、まさか主までもが、ここまで縛られ、思いつめるとは思わなかったのだ。
この様子では、主は私を引き留めた者として、それこそ私の全生涯に責任を持つつもりのように見える。
おそらく祖父に対しても、私を渡すまいと、強硬な姿勢をとるだろう。……当主印を渡すなど、アルリードの全権を委譲すると言っているのと同じなのだから。
主が、一人では行かせないと強く言った時、このまま私が祖父の下に居ついてしまうのを危惧して、一緒に行くと言っているだけだと思っていた。
その程度ならば、約束を破るつもりはないと、きちんと説明し、トリストテニヤに二人で帰れば、それで済む話だと思っていた。
だが、それは見誤りだったようだ。
……とりあえず、早急に、祖父と二人きりで話す必要がある。
祖父は、主が敵うような相手ではない。主が傷ついたり、不利な状況になるのだけは避けたかった。
それには、主より先に祖父に会って、私が落とし前をつけておくしかない。そもそもこれは、私の撒いた問題だった。自分で刈り取るのは当然だった。
馬車の扉が叩かれ、着いたと知らされる。返事をすれば、外から扉が開かれた。
私の気持ちは乱れていた。理性と感情と体の感覚がうまく重ならない。
ただし、そんな心情はおくびにも出さないように気をつけて、私は主を馬車から降ろすために、華奢なその手をとったのだった。
現アルリード公邸は、貴族の屋敷が並び建つハンスブルク地区ではなく、商業区画として栄えるランスブルク地区にある。
商店や路商が賑やかな目抜き通りから脇道に入った場所には、大商人と呼ばれる者たちの大邸宅があり、アルリード公の屋敷もそういったものの一つだ。
私たちは馬車のまま正面玄関の前まで通され、そこで降りた。
相変わらず庭は綺麗に整えられ、屋敷も壮麗だ。
王城もそうだったが、どうもこういった場所に足を踏み入れると、私は場違いな気がしてしかたない。故郷で生まれ育った城は、城というより砦で、そういう点から言えば、幽霊城とはよく似ていた。無骨で実用一辺倒。私にはそういった方が落ち着くようだった。
玄関では、バトラーのグレンが出迎えてくれた。父と同じくらいの歳のはずだが、祖父の話を聞いていたせいか、昔にくらべて彼の皺が深くなり、また白髪が増えた気がした。
「お待ち申し上げておりました。ようこそおいでくださいました」
常套の文句からはじまった、型どおりでありながら、それを感じさせない自然で慇懃な挨拶のあと、案内され、通されたのは客室だった。
「お湯の用意をしてございます。まずはゆっくりと旅の疲れを癒していただきたいとの、主の心尽くしでございます。その後、晩餐にお招きしたいと申しておりますが、いかがでございましょうか?」
これぞバトラーの鑑とでもいうべき立ち居振る舞いを、しっかり脳裏に刻むべく、私はじっくりと彼を観察した。
「アルリード公に、お心遣いへの感謝を。それから、もちろん喜んで伺いますと伝えてください」
主は優雅に返答した。
「かしこまりました。こちらにご滞在中は、こちらのエセルが御用事を承ります。なんなりとお申しつけくださいませ。わたくしは、エディアルド様に隣のお部屋をご案内して、いったん下がらせていただきますが、何か主にお言付けがあれば、承ってまいります」
「いいえ、ありません。お会いした時にお話します」
「かしこまりました。では、エディアルド様をお連れしてもよろしいでしょうか」
「ええ。エディアルド、また後でね」
にこりと微笑みかけられ、私は一礼した。
私から尋ねさせることなく、主の前を辞せるようにする手並みも見事だ。
私たちは、隣の部屋に移った。そこは主の部屋と遜色ないものだった。ただし、湯は用意されていなかった。
改めて、畏まったグレンから挨拶を受ける。
「お久しぶりでございます、エディアルド様。ずっと、お待ち申し上げておりました」
「うん」
この屋敷で、一番さんざん迷惑をかけたはずの彼にこう言われると、私としては返す言葉がなかった。
祖父とは顔を合わせれば良くて無視、悪くて喧嘩。窓から外へ飛び出すこともしばしばで、当然、窓辺は靴で汚し、庭園も踏み荒らした。
台所を襲って晩餐の酒を全部せしめたことも、図書室から高そうな本を持ち出し、読んだ後に質屋に売りさばいたのも数知れず。
バトラーになってみて、祖父に苛立ちをぶつけようとしてやらかしたものの責任が、すべて彼にあったと知って、たいへんな恥ずかしさと申し訳なさに悔やんだのだった。
あの頃の私は、本当に子供だった。子供とわかってもいない、子供だった。それを全部知られていて、なおまだ主筋扱いされるのは、いたたまれないものがある。
「実は、サザール様から、すぐにでも二人きりで対面したいと言付かっております。……どうかお願いでございます。わたくしなどから申し上げるのは、たいへんに失礼なことと存じております。それでも、後生でございます。エディアルド様、どうか、サザール様の話を聞いてさしあげてくださいませ」
「うん。わかっている」
言葉少なに了承すると、彼はほっとした表情を見せた。
「ありがとうございます。では、サザール様の寝室にご案内いたします」
私たちはすぐに、足音を忍ばせ、そっと客室を後にしたのだった。