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金の女領主と銀の騎士  作者: 伊簑木サイ
第三章 彼の後悔、彼女の決意
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 私は剣をはずして、座席の隅にたてかけて置いた。そういえば、銃は御者席に置いたままだと思い出したが、なぜかその銃が袋ごときちんと足元に移してあった。

 どうやらクレマンは私の考えをお見通しだったらしい。溜息まじりに座ったところで、急に馬車が動きだした。

「きゃっ」

 思わぬ揺れに主が体勢を崩して、前のめりになる。私は間一髪、主が前の座席に顔から突っ込む前に、その体を抱きとめた。

「大丈夫ですか」

「あ、ありがとう」

 怖かったのだろう。腕の中の体は緊張して固まっている。私も恐ろしさに、心臓がばくばくしていた。

 いつも不思議なのだが、どうしてあそこですぐに手が前に出ないのだろうか。だから怖くて、結局乗馬の練習も途中で打ち切ったのだ。普通でも落馬は危ないものなのに、受身も取れずに落ちたら、簡単に死んでしまう。それなら、荷物よろしく馬に載せて、私が轡を引いていった方が、はるかに安心だった。

 ……だから、こうならないように、慎重に馬を進めようと思っていたのに。

 私はクレマンを呼び出そうと、右手を上げて御者台との境にある小さな会話用の戸を叩こうとした。

「いいの、エディアルド、私は気にしていないわ」

 呼び声に、反射的に声の元に視線を落とし、私は息をつめて、しまった、と思った。

 他家を訪ねる予定の主は、貴婦人らしく髪を結い上げている。いつものくくってまとめただけの簡単なものではない。趣味のいい髪飾りで留め、うっすらと化粧もしていた。

 その上、身に纏った深緑色の上品なドレスは、主の琥珀の瞳や赤味がかった金髪をよく引き立てており、本当にとても、とても綺麗なのだ。

 おかげで、朝、目にした時から、心臓を柔らかいもので引っかかれるような感じに、何度も心拍が速められてしまっていた。

 もちろん、今も。というより、今が一番心臓に悪かった。

 体勢を崩した主はしどけなく胸にすがりついており、私はそれを、無造作に片腕で抱き寄せていたのだ。

 なぜ自分はこんなことを、と考え、すぐに、馬車の揺れに憤慨して、クレマンを呼び出そうとしたからだ、と答えが出る。しかし、答えが出たところで、自分の所業が変わるわけではなかった。

 喘ぐようにして吸い込んだ空気に、主がつけている甘い香水の匂いが混じっていて、鼻腔をくすぐる。

 ……だから、こうならないように、御者台に行こうと思っていたのに。

 私は体の奥底からわきあがってくるものに慄きながら、重ね重ね、そう思った。

 こんな綺麗な主と、人目のない狭い密室に半日も閉じ込められたら、さすがに自分の理性に自信がもてない。

 なにしろ、手だけを握っていた頃とは違うのだ。このところ、ダンスの練習を通して、やたら主の体の華奢さや柔らかさを確認してしまっている。……それも、昔とは違い、すっかり大人の女性になった体を。

 しかも、主をありのままに受け入れると決めてからは、主も心を開いてくれていて、とても話せないような感覚でいっぱいになっている男の腕の中なのに、無心に無防備な様子で抱かれている。強く抱きしめて口づけても、そのまま身を任せてきそうな無邪気さだ。

 ……そんなわけ、ないだろう。

 頭の中のどこからか、強い声で窘める自分の声が聞こえ、私は一瞬にして我に返った。冷や水を浴びせられた心地だった。

 獣に踊らされて無体をはたらいて、なけなしの信頼さえ失うつもりか。

 私は注意深く、主を元の座席に押し戻した。

 主が反対側の席で心細げな表情を浮かべた。私はそれに穏やかさを装って微笑みかけた。

「やはり、クレマンと御者を代わってまいります」

 主はしばらく、じっと私を見て、それから抑えた声音で言った。

「私と乗っていくのは、嫌?」

「そんなことはございません」

 私は急いで答えた。

「……だったら、傍にいて。私を支えて」

 主がまっすぐに私を見て、手をさしのべてくる。淑女がエスコートを求める手つきで。

 私はその瞳に呑まれるのを感じた。ほとんど反射的に、その手を取る。

 そこには、主の強い意志があった。あの日、旦那様が亡くなった時とよく似た。この人に心の底から望まれる、それに従わずにはいられなかった。

 手がゆっくりと引かれる。主の横へと。並ぶ位置へと。

 主の求めるままに、私は席を移した。

 腰を落ち着けると、主が体を少し倒してよりかかってきた。主の右手を、私も右手で受け取ってしまったせいだった。揺れ続ける馬車の中で動くのに、自分の方へと主の手を引っぱってしまったのだ。

 私の左腿を横切って、主の腕があった。右の膝頭の上につながれた掌がある。

 熱く、脆く、恐ろしく、甘美で、それでいて、どうということもない自然なものにも感じられた。

 私は、……いいや、私たちは、目的地まで手を離すことはなかった。途中の休憩は別だったが。馬車に戻れば、無言のままに、どちらからともなく、同じようにつなぎ続けた。

 私たちは、その間、一つも言葉を交わさなかった。だが、気詰まりではなかった。触れ合った場所から、確かにつながる何かがあったのだ。

 ただ、祖父の屋敷の庭に停まったとき、降りる寸前に、主は一言だけ尋ねてきた。

「聞くのはこれで最後にします。……王都に戻りたいとは思わない?」

「思いません」

 私はきっぱりと答えた。私がいつでも帰りたいのは、この人のいる(・・・・・・)幽霊城だった。

 主は、花がほころぶように笑った。

「だったら、あなたに後悔はさせないわ」

 主はおもむろに首を伸ばし、急に近付く顔に戸惑った私の頬に、かすめるようなキスをした。

「……約束よ」

 間近に微笑む主を、私は瞠目して見返したのだった。

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