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応接室にお茶と軽食の用意をして行くと、廊下まで御領主の荒げた声が響いていた。
「だが、これは……っ!」
我が主は小説の話となると、興がのって、作家と丁々発止で大声で話すこともある。だが、今の声音はそれとは違った。危機感が滲んでいたのだ。
私はワゴンをそこに残したまま、開けっ放しになっている扉から、急いで部屋の中に押し入った。
ソファから立ち上がり、原稿を持った手を振り上げていた主と、その向かいで座ったままの小柄な男。二人は揃って口を噤み、同時にこちらに振り向いた。驚いた顔をしている。
どうやら、主の身に危険があったわけではないようだった。
私はメディナリーに突進するのをやめて、姿勢を正した。
「お茶をお持ちしました」
「あ、ああ、そうか」
主は、はっとしたように原稿を下ろすと、ソファに座りなおした。
私は廊下に取って返し、ワゴンを運んできた。すみやかに二人の前にお茶と軽食を出す。
「やあ、嬉しいねえ。トリス夫人の料理は、どれも絶品だからねえ」
メディナリーは、どれから食べようか迷っているのだろう、揉み手をしながら、その茶色のくるくると踊る巻き毛と同じように、陽気に笑った。
彼は気のいい男である。私は、メディナリーが女性に対して暴力をふるったり、無理強いをするような男とは思っていない。だが、同性として男の本性を知る身としては、気を許すことも、またできないのだった。彼とて激昂すれば、獣の本性を現さないとも限らないのだから。
主の身を守ることも、私の仕事だ。
必要最低限の人員でこの城を切り盛りしている以上、ずっと主の傍に誰かを置いておくわけにもいかないし、主はそういったことを好まない。
だから、こうして私が自分の厳つい容姿を利用して男たちを牽制しつつ、気を配り、それでも手にあまるようなら秘密裏に遠ざけるようにしている。
主が男性だったならと思わないこともなかったが、だったらそもそも私はここにいないだろう。
領主の息子とはいえ五男坊で、いわゆる私はあぶれ者だ。しかも、職を得るために入った騎士団も、上司を殴って首になった。
本当に首と胴体が離れてもおかしくなかったのを、先代の御領主がコネを使ってうまく収め、引き取ってくださったのだ。それ以来、私はライエルバッハ家に仕えている。
メディナリーはハムと野菜の挿まれたパンを手に取って齧りついた。彼は感極まって、ああ、と唸った。
「彼女の愛情を感じるよ」
愛情が味覚で感じられるとは思えないが、確かにトリス夫人の料理は美味しい。
騎士団宿舎の飯は料理というより餌だったから、ここに来て彼女の料理を食べて、私は人間の生活というものを思い出した気がしたものだった。
私は、軽食に夢中になりだしたメディナリーから、なにやらもぞもぞしている主に注意を戻した。主は尻のあたりで手を動かして、何度も腰を上げては座りなおしていた。
この城の調度はどれも古いから、座面のクッションがへたれて座り心地の悪い場所にあたってしまったのかもしれない。
一応、応接室のものは客が使う以上、当家の面目を保つために気遣っていたのだが、見逃してしまっていたようだ。
私はソファの隅にあったクッションを差し出しながら、屈んで主の耳元で囁いた。
「手入れが行き届かず、申し訳ございません。どうぞこちらをお使いください」
びくっとして、主が振り返った。どういうわけか、見守る先で、かーっと頬に血をのぼらせていく。
「あああ、いや、その、えと、ありがとう」
主はクッションを受け取ると、素早く尻の下に敷いた。
その時、メディナリーの持ってきた原稿が主の尻の下になってしまっていたのを見つけた。座り心地が悪かったのは、あれのせいかもしれない。
私はもう一度屈んで、主の耳元で囁いた。
「御領主様、大切な原稿が下敷きになってしまったようです。少し腰を上げていただけますか?」
「いやっ、これは、いいんだ! 気にするな!」
「酷いですよー、サリーナ様。自信作なんですから」
メディナリーがぼやく。
「いや、だが、しかし、これは」
「あくまでも僕の創作ですよ。素敵な内容でしょう? それとも、なにか不都合でも?」
主は眉をひそめて黙り込んだ。どうやら主が言い負かされたらしい。
私は鋭くメディナリーを見据えた。主の意に染まぬことを言いくるめようとするなら、排除しなければならない。
主は19歳とまだ若い。男であっても若造と見られる年代な上、数少ない女領主でもある。相手によっては軽々しく扱ってきたり、時には不埒な行為に及ぶ者さえいる。
そんな卑劣漢に睨みを利かせるのに、君の存在が必要なのだ、と前御領主はおっしゃってくださった。どうか私の娘を守ってやっておくれ、と。
恩人の遺言である。私の全身全霊をかけて、あらゆることからお守りすると約束した。
それに、我が主は、それに足るだけの方だ。頼まれたからだけではない。心から守りたいと思っている。
「やあ、君を見てると、強さは美しさでもあるのだと、知れるね」
メディナリーは底の知れぬ微笑を浮かべて、足を組み替えた。その膝の上に肘をのせ、手の甲に顎をつく。少し前のめりの姿勢で落ち着くと、じっくりと私を観察しだした。
「鋼色の髪に、アメジストの瞳。狼のように孤高なまなざしに、男らしい顎と、意志の強そうな唇。そこから紡がれる声は、低いハスキーボイス。男の僕でも時々腰にくるよ。ねえ、サリーナ様も、そうでしょう?」
「な、なにを。そんなわけ、あるかっ」
「そうですか? 僕なんか、あの広い胸に抱き締められたら、うっとりすると思うんだけどなあ」
実際、うっとりとメディナリーに見つめられ、背筋がぞわりとざわめいた。私は我慢できずに、思わず口走ってしまった。
「御領主様、彼にはお帰り願いましょうか」
「ああ、君も酷いなあ。作家は人間観察と想像力が命なのだよ。少しくらい付き合ってくれてもいいだろうに」
こんなやりとりさえ楽しんで、芝居めいた口調で彼は言った。
「ごめんこうむります。そういったことは、どうぞ他の人間でやってください」
「いやー、今の僕は君に夢中で」
「エディアルド!」
主に唐突に名を呼びつけられ、私は、は、と短く応答した。
「ロランと話を詰めたい。しばらく二人きりにしてくれるか」
硬い声でそう命じられれば、私は従うしかない。
「かしこまりました」
私はお茶のワゴンはそのままに、二人に礼をして、応接室を後にしたのだった。