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「ついてこい」
ラスティの横をすり抜けざま、小声で指示して廊下に出た。そこで、呆れたことに気付く。
この真っ暗な中を、あいつは灯りもなしで入ってきたのだ。恐らく、外から見た明かりの位置で、当たりをつけたのだろう。
さほどの時間もかけずに居間まで辿り着いたということは、何度か偵察に来て、規模や窓の位置から、中の間取りを探っていたに違いない。
……あの日もそうだったのかと、今頃になって思い及び、私は舌打ちをした。偵察の最中に、いつもは城から出てこないはずの私が町の方から現れて、隠れきれないと悟り、わざと姿を見せたのだろう。
どうしてすぐにその可能性に考え到らなかったのか。どうも平和呆けしている。これでは守るものも守れない。ラスティが暴漢だったなら、主の前まで迎え入れてしまったということになる。
ひやりとしたものが背筋を駆け抜け、私は深く反省した。
私は三階に上がり、端にある客室を選んで中に入った。こういった使者や御付きの者用の小さな部屋だ。
窓を開け、サイドテーブルに掛けてある埃避けの布を片手で剥いでいると、ラスティがベッドに掛かった物を自分で剥ぎはじめた。
テーブルにランプを置き、布を渡されるのを待つ。ラスティは丸めた布を、かなり逡巡した挙句、手荒に私に押し付けてきた。
「おまえ、本気で尻に敷かれてたんだなっ」
苛々とした声で言う。
「情けないとは思わないのか。銀月の騎士の再来と謳われたおまえが、こんなところで、使用人まがいのことして……っ」
「まがいもなにもない、使用人だ」
「違うだろう! おまえはライエルバッハの名を得たはずだ! そうでなければ、あそこから出られはしなかったんだからな!」
前御領主が私の身の潔白を保障し、その証として、ライエルバッハの名を与えてくれた。だから私は独房から出られた。それも、貴族としての身分を回復して。
「私はライエルバッハに相応しくない。おまえも見ただろう。我が主はあのような方だからな。はっきりと身を引いていると示さなければ、まわりが勘違いをする」
「おまえらしくもない! だいたいあれは、ヘンリルの真似だろう!」
見事に言い当てられて、私は忍び笑いを漏らした。
そう、故郷でさんざん世話をかけたバトラーを手本として、私は行動していた。できたバトラーが身近にいたことは、本当に幸いだった。でなければ、親すら持て余した荒い気質で、どう振舞っていたかわからない。
「言っただろう。おまえが『らしい』と感じる男は、ここにはいない。私はただの『エディアルド』だ」
ラスティは激昂した雰囲気をまとったが、目を逸らして、はっと息をつき、感情を収めた。
「まあ、いい。こうなれば、返って幸いだったかもしれない。名家の名を二つも継ぐことはできないからな」
私はそれには言及せず、祖父の病状や病名をはっきり知りたくて尋ねた。
「あの人は、いったいどうしたんだ」
「どうしたもこうしたもない。あの方も、もう七十八になられるんだぞ」
私はその年齢に、素直に驚いた。
「もうそんなになるのか」
「なるんだよ! この五年ですっかり老け込まれた。季節の変わり目で風邪をひかれて、それから回復されないんだ。おまえが戻るまではと頑張っておられるが、限界だ。アルリードはやっかいな連中も従えているからな。このままでは見限られて、分解する」
だが、まだ私はここを離れるわけにはいかない。アルリード家の力が手に入らなくても、他に力を手に入れる方策はあるから、別に困りはしないが、主やトリストテニヤに何かあるのだけは、避けなければならない。
「……ラスティ、アルリード公に身を寄せている、と言っていたな」
私はふと思い出して聞いた。仕えているとは言わなかったのだ。
「あたりまえだ。俺はおまえに臣従を誓っているんだから」
間髪入れずに返される。名状し難い何かが胸の内に凝り、私は悪態をついた。
「……鬱陶しい奴だな」
「相変わらず、ひどい性格だ」
ラスティは嬉しそうに笑った。それでこそおまえだ、とでも言わんばかりに。
私は内ポケットから当主印を取り出し、彼に放った。
「馬っ鹿かっ、欠けたらどうする!」
あわてて受け止めて、彼はわめいた。
「おまえが持っていろ。私は当分、ここから離れられない」
「冗談言うなっ。俺が持っていられるわけがないだろう!」
「あの人には、私が話を通す。おまえがあの人を支えるんだ」
「それとこれは別だっ。そんなのは、言われなくったってやっている。これは、おまえが、」
「おまえのものは、俺のものだろう?」
ラスティは、口を開けて何か言おうとした形のまま止まった。
私は、これ幸いと、これ以上面倒なことをラスティが言い出す前に、話を切り上げることにした。
「腹がすいているなら、軽い物を何か用意するが」
「……ああ。頼む。なあ、おまえ、」
「わかった。持ってくる」
何かまだ言おうとしていたが、私は聞く耳を持たず、布を抱えて、さっさと部屋を出ようとした。
「あ。アル! ランプを忘れている」
後ろから、真っ当な理由で引き止められた。私は振り返って答えた。
「それはおまえが使え」
私一人だったら、本来必要ないものだ。城の中なら、目をつぶっていても歩けるのだから。
「本当に、相変わらず、おまえは……。その剣は、飾りじゃないと思っていいんだよな?」
「飾りにきまっている。とりあえず腰に提げておけば、警戒するだろう?」
練習相手もいないのだ。苛め抜くようにして体も鍛えていない。腕なんか落ちたにきまっている。
「まったく、本当に、おまえ……」
ラスティは途中で、我慢できないというように声をあげて笑った。
城の中を目をつぶっても歩けるようにしたのは、何か起きた時、暗闇に慣れた者を相手に遅れをとらないためだ。
剣も、毎朝、最低限の鍛錬は続けている。
そういった戦いに備える行動は、幼い頃から仕込まれ続けたせいで、習い性になっている。どんなに平和な場所にいても、やらずにはいられないのだ。
私は、簡単な受け答えで正確に私の意図を読み取り、喜ぶ彼に背を向け、部屋を出た。
ラスティを通して、自分の行動の規範がはっきり見えて、何に、とも、何が、とも言えない、忌々しい気分でしかたなくなっていた。
優男な紳士になんて、なろうとしたって、なれるわけがなかったのだ。育ちどころか、生まれからして違う。私はラスティと同じ穴の狢なのだから。
……あの騎士道馬鹿と。
自分が場違いだなんてのは、ここに来た時から、わかっていた。それまで、この世に、こんな『悦びの地』のような場所があるなんて、思いもしなかった。
『悦びの地』。善事を多くはたらいた人間が死後に招かれる、神々の楽園。トリストテニヤの人間は、誰も彼も、半分あの世に頭を突っ込んでいるかと思うような変人、いや、善人ばかりだ。
私には、まるっきり羊の群れに見える。そこで私は、せめて牧羊犬になれたらと思っていた。羊の群れを導き守る、羊飼いの忠実な僕であろうと。
それでも、犬は犬で、羊ではない。私はここで、自分が異質であると常に感じていた。
ここは、私のいるべき場所ではないのだろう。……どんなに憧れ、焦がれようとも。
私は溜息をつき、立ち止まった。軽く左右に首を振る。
考えてもしかたのないことに拘泥するのは、時間と気力の無駄だ。するべきことにのみ、心を傾けなければ。二度と同じ失態を犯すことのないように。
私は、この後の予定を頭の中で描いて、まずは玄関の戸締りを確認するために、ホールに向かった。