5
いちにいさん、いちにいさん、いちにいさんしーごーろく。
前に揺れ、右に揺れ、最後に左に行って、ゆっくりと女性を抱えてターンする、のところで見事に足を踏まれ、その状態で私は倒れずにまわりきった。
家具をどかした居間に、パンパンパンパンとトラヴィスの拍手が響き渡る。次いで、ヴァイオリンの音が途絶えた。
「さすがです、エディアルド。あなたはたいへん素晴らしい運動神経の持ち主ですね」
そのとたんに、主は私の足の上から飛び下りて、ごめんなさい! と叫んだ。それまで踏みつけっぱなしだったのは、曲の途中でダンス以外の動きを入れると、トラヴィスに叱り飛ばされるからである。
「痛くなかった? 重かったでしょう? もう、本当に、ごめんなさいっ」
おろおろと顔を真っ赤にして、今にもしゃがんで私の足をさすりだしそうな主の腰と手をしっかりと支えて引き止めたまま、私は微笑んでみせた。
「なんともございません。お気になさらず」
「大丈夫でございますよ、サリーナ様。旦那様が特注で作らせたその靴は、サリーナ様の体重くらいではびくともしません。構造上、少々重いのが難点ですが、エディアルドは完璧に履きこなしています。問題ございません。サリーナ様は堂々と踊っていらっしゃればよろしいのです。後はエディアルドがなんとかしますから」
しかし、主は黙りこんで情けない表情となった。
それはそうだろう。自分の練習のつもりだったのに、いつの間にか練習の目的が、私の補助力の向上に置かれてしまっているのだから。
このままでは、当日は私と踊るしかなくなる。他にもっと一緒に踊りたい相手がいるだろうに、それでは主にはつまらないことになるだろう。
私は主を励ました。
「ずいぶん動きがなめらかになっていらっしゃいます。確実に上達なさっていますよ。きっと当日は上手に踊れましょう。お手伝いいたしますから、諦めずに頑張りましょう」
「……はい」
主は小さな子供のように頷いた。
腕の中でしおらしく頬を染めて目を伏せられると、抱き潰してしまいたい心持ちになる。
私はそうする代わりに、支えている腰を引き寄せた。体がふれあう寸前の正しい位置まで。主が少々恥ずかしげに私に視線をよこす。
「サリーナ様、もう少し顎を上げて。ちゃんと見つめあってください」
トラヴィスの厳しい声が飛び、主は表情を引き締めて、私を真正面から見据えた。真剣そのものなのが微笑ましい。
クレマンがヴァイオリンを弾き始めた。私は主の手を握っている指で軽く拍子をとり、主がリズムを飲み込んだところで、軽く頷いて合図を送り、一歩目を踏み出した。
夕食後、食休みがすんだ後のひとときが、ダンスの練習の時間である。
主の運動神経では、大勢が輪になって次々にパートナーを入れ替えていくフールヴィヨンは無謀なため、その後でカップルで踊るトゥルーストウに的を絞っている。
そうでなかったとしても、人波にまぎれてしまうフールヴィヨンは勧められない。警護の問題がある。平和なトリストテニヤで何かあるとは思えないが、何もないとは言い切れないのである。その点、トゥルーストウなら、安全確認をしやすい。
それに、貴族の間でフールヴィヨンは踊られない。それに替わるのは四人から偶数人で踊るカルーテドゥラルだが、主に若い男女が技量を示して名を上げるためのものであり、王国でも名門のライエルバッハの当主がするまでもないものだ。
結局重要になるのは、最も格式の高いトゥルーストウである。これは国王主催の夜会などでは指名されて、貴族の嗜みとして披露しなければならないこともあるために、淑女必須の技能でもあった。
ちなみに、恋愛小説の山場に持ってこられることが多いのも、この夜会のトゥルーストウである。
私がメディナリーの勧めによって目を通した恋愛小説の中には、わざと国王陛下の御耳に届くような公衆の面前で告白、陛下の祝福を受けて指名され、広いホールのど真ん中で二人きりで踊る栄誉を得るという、夢物語以外の何ものでもないものすらあった。
だいたい、下っ端貴族の恋愛ごときに、陛下が采配を振るうなど有り得ない。そもそも、そんな若輩者が陛下のお傍に寄れるわけがないし、陛下のお傍で陛下より目立つことをするなど、打ち首覚悟のやぶれかぶれの大胆さなのか、人々の嘲笑を買いたい頭が空っぽなだけの輩なのかの、どちらかであるとしか考えられなかった。
であるにもかかわらず、そういうのを恋愛至上主義というのだそうだ。他の何をさしおいても恋の成就に懸ける。それほどの恋情を礼賛しているらしい。
しかし、恋が成就しても生活が破綻すれば、未来はない。私には馬鹿馬鹿しいとしか思えないのだが、そう言うと、メディナリーは、「儚いからこそ、甘美なのだよ。君もたまには美しい夢を見たまえ」などと笑うのだった。
そんな彼の言動を思い出して、私は少々腹立たしくなった。そのせいで、気もそぞろになっていたのだろう。私は、つんのめった主の頭突きを、うっかりもろにくらって、よろけて足を止めてしまったのだ。
その上、胸部が圧迫されたために、ごほ、と咳き込んでしまう。大失態だ。
「あああっ、ごめんなさいっ。大丈夫、エディアルド!」
主がよりかかってすがりついた体勢のまま顔を上げ、必死な様子で謝ってくる。主は気がついていないが、体が胸から足まで密着状態である。はっきり言えば、理性が飛びそうな触り心地だった。
私は自分よりも先に主を真っ直ぐに立たせて、それとなく体を引き剥がした。
「大丈夫でございます。支えきれずに申し訳ございません」
「いいえ、私が悪いの。ごめんなさい」
今にも泣きそうな表情が、目の毒だ。ものすごく庇護欲をそそるのである。
なんというのか、役得も、行き過ぎれば蛇の生殺し状態の悩ましさがあった。
体を寄せ合って、見つめあって、扇情的な音楽に合わせて、一人の女性と踊るのだ。この状態で、身も心も興奮しない男はいない。
練習を始めてからは、夜はなかなか寝つけないし、早朝の鍛錬は多少激しいものに変えた。そうでもして少しずつでも消化していかないと、もやもやとしたものが溜まって、堪らなくなってくる。
それでも断ろうとか逃げ出そうとかいう気にはならないのだから、男とは滑稽な生き物である。むしろ、貪れるだけ貪りたいなどと思っている。
そんな不埒な馬鹿者に、泣きそうに思いつめてまで謝ることなどないのだ。
下から覗き込んでくる純真なまなざしが痛い。美しいどころか、えげつない夢の贄にされていると知らないから、こんな目をできるのだろう。
メディナリーの奴め、人の気も知らないで、なにが美しい夢だ。そんなものは、架空の世界での常識外れの夢想の中にしかあるものか。
胸の内で悪態をついて気を散らせてみたが、主の魅力の前には無駄な足掻きでしかなかった。
……ああ、まいった。今夜も夢を見そうだ。
私は主を宥めながら、今日も罪悪感とそれを上回る自分の下心に、辟易するのだった。
「練習中、申し訳ありません、お客様がお見えです」
ノックを打ち鳴らす音に練習をやめて、扉から現れて来客を告げたハンナに、注意を向けた。
「お客様?」
主が聞き返す。
夜も更けている。こんな時間に、いったい誰なのだろう。
「はい。エディアルド様に。アルリード公の御使者で、ラスティ・カルスとおっしゃる方がお目通りを願っています」
「アルリード公?」
主とトラヴィスがその名を口にし、私を見た。私は眉を顰めてしまいそうになるのを抑えるために、無表情を取り繕った。
「……昔の知り合いでございます。追い返してまいりますので、少々お時間をいただけますか」
できるならば、祖父とのことは主に知ってもらいたくなかった。だから私は、不自然とはわかっていても、そう申し出た。
「でも、アルリード公の御使者を、話も聞かずに返すことはできませんよ」
トラヴィスが常識的な意見を述べてくる。
アルリード公、つまり祖父は、古い家柄を誇る名家の当主なのだ。……金で家柄を買った成り上がりと、嘲笑の対象ともなる名でもあったが。
「かまいません。その使者は、私の幼馴染です。とうに縁を切った者にございます。私が会おうとしないので、仕えている公の名を持ち出したにすぎないと思われます。そのような者の話を聞く必要はありません」
「幼馴染なのでしょう? 親しい人ではないの?」
主が気遣わしげに尋ねてくる。私が次にどう答えようか逡巡した時、ハンナが短い叫び声を上げた。
何事かと考えるより先に、主の手を引き、背後に庇う。
ハンナの後ろから、ぬっと影がさし、男が姿を現した。ラスティだ。勝手に入ってきたらしい。
「取次ぎの女性が行ったまま戻ってこられず、呼んでも誰の返事もございませんでしたので、不躾とは存じましたが、入らせていただきました。ライエルバッハ公におかれましては、このような夜分に、突然の来訪、たいへんご不快とは存じますが、火急の用事にて、どうか平にご容赦願います。私はアルリード公の下に身を寄せております、ラスティ・カルスと申します。高名なライエルバッハ公にお目どおりが叶い、恐悦至極に存じます」
そこまでいっきにぬけぬけと口上を述べ、右手を左胸に添える騎士の礼で優雅に腰を折った。
その前に、つかつかと、スチュワードであるトラヴィスが出て行って、受け答えをする。
「アルリード公の使者と言うならば、証拠となるものは持っておられますか」
「こちらに」
ラスティは首元から紐で吊るした小袋を抜き出し、中から小さなものを取り出した。鈍く赤く光る。……あれは。
「見事な紋章指輪でございますね。当主印のように見受けられますが」
「まさにそれでございます。アルリード公より、エディアルド様にお渡しするようにと、預かってまいりました」
ラスティは私へと視線を移した。穏やかさを消し、切羽詰ったものを宿して、訴えかけてくる。
「旦那様が倒れられました。ずっとエディアルド様を呼んでおられます。どうか一度、会ってさしあげて欲しいのです」
……まさか。まだ早い、という思いとともに、頭の中を様々なものがよぎっていった。
祖父と初めて会った日のこと、本当は彼に惹かれていたこと、けれど、祖母に対する裏切りを知って、怒りを覚えたこと、そしてなにより、正妻との確執と、彼女への復讐のために私を引き取って後継者にしようとしたのだと知り、どうしても許せなくなったこと……。私が祖父に抱くのは愛憎半ばの思いであった。
だが、その中で、結局最も心を占めたのは、このまま祖父を死なせられないという打算だった。
ずっと、祖父のやりようが許せず、軽蔑し、けっして思い通りになるものかと反発してきた。しかし今は、掌を返すようにして、祖父の持つ権力や財力や名を得たいと願い始めていた。
なぜなら、いずれ私は、主の幸せを確信できたら、ライエルバッハを出ていくつもりであるから。
ただしそれは、役目を放棄して逃げ出すわけではない。少し前までは、自分の思いに振り回され、主の結婚を見る前に逃げ出したいものだと、そして、主の噂を聞くこともない遠い異国にでも行こうかと、覚悟の足りない情けないことを考えていたのだったが、今は違う。
傍にいてはできない方法で、ライエルバッハを、ひいては主を、守りたいと思っているのだ。そのためには力が必要で、私はそれを、祖父から得ようと考えるようになっていた。
だから、とっさに、祖父をこのまま死なせられないと考えた。和解を演じ、アルリードの一門を黙らせ、祖父のすべてを受け継ぐまでは、祖父の協力と時間が要る。
いずれにしても、これは、ちょうどよいきっかけになるだろう。実は、どう祖父に近付こうかと、思いあぐねていたのだ……。
「祖父の病状は」
私は聞き返した。
汚い考えだという自覚はある。私の中にも、祖父と同じ血が流れていたのだと、自嘲せずにはいられない。
こんな思考はライエルバッハとは最も相容れないものだ。私は性根から、ライエルバッハに相応しくない人間なのだろう。
今さらながら、そんな感慨に捕われた。
「寝たきりで、床から離れられない状態です」
ラスティが沈鬱な面持ちで答える。……では、猶予はならないということか。
私は主へと向き直り、片膝をついた。頭を下げ、懇願する。
「どうかお願いいたします。暫しのお暇をいただけないでしょうか」
「エディアルド、立って。頭など下げないで」
主は屈んで私の手を取り、引っ張った。
「そういう事情なら、もちろんです。ぜひ、アルリード公の許へ参りましょう」
主のおかしな言い方に、私は顔を上げた。主と目が合い、にっこりと微笑みかけられる。
「私も一緒に行きます。それから、クレマンも連れていきましょう。彼ならきっと、アルリード公の回復に力を貸すことができるわ。そうね、クレマン?」
主は、ヴァイオリンを下ろして飄々と立つクレマンを、見やって聞いた。
「私の知識でお役に立てるのでしたら、喜んで」
私は慌てた。ぐいぐいと引っ張る主に逆らいつつ、言い返す。
「私事でお手を煩わすわけにはまいりません。数日いただければけっこうですので」
本当は数日で戻れるかわからない。なにより、泥仕合を繰り広げることになるだろう場所に、主を近づけたくなかった。
けれど、主は、思ってもみないほど強い口調で言った。
「一人で行くことは許しません」
離さないとばかりに、ぎゅうと手を握り締められる。
「それに私は、あなたのお祖父様に、一度ご挨拶したいと常々思っていたのです」
私は唖然とした。
「どうして、アルリード公が私の祖父だと知っていらっしゃるのですか」
母は公には認知されていないし、他家の養女となってから輿入れしている。我々の関係を、知っている者は知っているが、知らないものはまったく知らない、そういう類の話だった。
「あら。内緒のことだったの? 私は、アルリード公があなたをくれぐれも頼むと、何かあった時は頼ってほしいと、父に頭を下げたと聞いていたのだけれど」
私は舌打ちをしそうになった。だからあの人は嫌なのだ。人を利用しようとするくせに、妙に愛情深い態度を取る。
トラヴィスがやってきて、私に赤い石の嵌った当主印をさしだした。私はそれを、複雑な思いで受け取った。そして、渋々立ち上がる。
「そうと決まれば、御使者殿には、今夜はお泊りいただきましょうか」
トラヴィスが主に提案した。主はそれに頷いた。
「そうですね。出発は明日の朝ということにしましょう。ハンナ、私とエディアルドの荷物を用意してちょうだい。三日分でいいわ。エディアルドは、彼の部屋の用意を。クレマン、すまないけれど、これから馬車が使えるように点検をしてちょうだい。トラヴィスは、留守の間の打ち合わせをしたいので、執務室に。何か意見や質問のある者は?」
ございませんと、面々から返事がある。もちろん、私もであった。
見事に采配を振るった主は、最後に優雅に、そして凛として、ラスティに声をかけた。
「明日、早朝に出立します。私も参りますが、それに異存はありませんね?」
「もちろんでございます。不肖の身ながら、アルリード公に成り代わり、お礼申し上げます」
「では、今夜一晩、部屋を与えます。使者殿も、よく休まれるよう」
「寛大なご配慮に感謝いたします」
胸がざわつく。
私は、前兆もなく転がり込んできた小さな指輪の存在を確かめるために、密かにきつく拳を握った。