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金の女領主と銀の騎士  作者: 伊簑木サイ
第三章 彼の後悔、彼女の決意
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「エディアルド、お掃除はすんだ?」

 風が通るようにと開けてあった扉から、主が呼ぶ声が聞こえた。

 ちょうど部屋の反対側で窓を閉めていた私は、書棚の間から顔を出して答えた。

「終わったところです。いかがなさいましたか?」

「久しぶりに焼き菓子を作ったの。上手に焼けたから、皆でお茶にしようと思って」

 いきいきと目を輝かせた主は、とても楽しそうだった。主は本当は手料理をふるまうのが好きなのだ。

 領主に就任する前は、いずれ婿を迎えて領地を任せ、自身は女主人となるべく、ハンナの指導の下、家事の勉強にも余念がなかった。

『新しいパンが上手に焼けたの。だから、お弁当を持って、魚釣りにいかない?』

 台所からいい匂いがしてきて、しばらくすると、よく彼女はそんなふうに私を誘いにきたものだった。

 どのへんが『だから』で繋がるのか、私にはさっぱりわからなかったが、期待に満ちた瞳で落ち着かなげにしているのを見れば、ああ、それは楽しそうだと、頷く以外の返事は思い浮かばなかった。

 案の定、釣りは気もそぞろ。だから頃合を見計らって、早めに弁当を催促するのが常だった。

 彼女はいつも私の横に座って、自分の分に口も付けずに、自分が作ったものが食べられるのを、心配そうに待っていた。そして、私がしっかりと味わった後に、おいしいと褒めると、それは嬉しそうに、はにかんだ可愛らしい笑みを見せてくれたのだった。

 ……旦那様が生きていらっしゃったあの頃は、パンがうまく焼けただけで特別な日になってしまうくらい、穏やかな日々だったのだ。今となっては、どれほど貴重な時間だったことか。

 私は感慨にひたりながら、道具をまとめてその場に置き、主の許へ行った。

「それは楽しみです。他の者も呼びに行ってまいりますか?」

「いいえ、あなたが最後よ。トラヴィスは帰ってきたところを捕まえたし、クレマンが、裏庭のオルザノールが見ごろだと教えてくれたの。だから、そちらにお茶の用意をしたのよ」

 主は案内しようというのか、先に立って廊下を足早に歩き、そのまま階段を降りようとした。

「お待ちください」

 私は大股で追い越して、二つ段を降り、階段のとば口で立ち止まった主に手をさしのべた。

 とにかくこの城は、住むためではなく、軍事拠点として築かれたせいで、階段が急なのだ。主が先では、何かあった時に支えられない。

 主は小首をかしげて、鳥の羽のように、私の掌の上に手をのせた。

「いつもありがとう、エディアルド」

 しっとりと優雅に微笑む。

 私は目を奪われ、息を止めた。胸の奥が、ぎゅっと締まり、じんわりとした痛みを放ちはじめる。 

 ……なんとこの人は変わったことだろう。出合った頃は背が伸びている途中の、やせっぽちで、あどけない表情が抜け切らない少女だったのに。

 もちろん、領主になったこの一、二年で、急に大人びたとは思っていた。もう、子供ではないと。

 けれど、目の前のこの姿は。庶民と言ってもとおりそうな簡素な普段着であるのに、見間違いようもなく淑女そのもので。

 ……ああ。この人は、大人になったのだ。

 唐突に、それを知る。

 もう、子猫のように私にまとわりついて離れなかった、あの『サリーナ』ではないのだ。

 たとえ、あの頃のように、自分の料理をふるまうのが好きであっても。

 階段の上から微笑んで私を見つめる主の姿に、一瞬、幼い『サリーナ』の姿が重なって見え、私は寂しさとも焦燥ともつかない思いに捕われた。

 私はそのまま言葉にならない感情を抱えて、主に一つ目礼をし、ゆっくりと階段を降りていった。


 オルザノールは青い丈の短い花だ。星型のふっくらとした花が上を向き、中に黄色い花芯が見えている。それらが密集して揃って花開いている様は、確かに美しいものだった。

 その前に敷物を敷き、他の者たちが揃って笑いさざめいていた。

「あ、いらっしゃった! こちらにどうぞ!」

 アンがばたばたと動いて、何も落ちてないように見える敷物の上を、せわしく手で払った。そこに主と並んで座る。

 その間に、ハンナがお茶を注ぎ始め、受け取ったダイナが、まず座ったばかりの主にカップを手渡した。主は皆にお茶が行き渡るのを待ってから、いただきますと口を付けた。

 少し、スッとした香りのする軽い渋みのあるお茶だった。飲み慣れない味である。ハンナに目で問いかけると、彼女はクスリと笑って、中央にあるトレイの覆いを取り去った。

「ご質問には後でお答えします。先に、お菓子をどうぞ」

 プリザーブのベリージャムをふんだんに使ったタルトが、用意よく小皿に取り分けられていた。フォークと一緒に渡され、私はそれを手元で切り分けて、口に運んだ。

 舌の上で生地がほろほろとよい具合に崩れていく。ジャムと共にとけて、芳しい甘みが広がる。

「ああ。美味しいですね」

 自然に褒め言葉がこぼれでた。主は嬉しそうに顔をほころばせた。

 しかし、もっと感嘆したのは、途中でお茶を口にした時だった。特徴的な香りと渋みが、菓子の残り香や甘みと響きあって、思ってもみない爽やかさをもたらしたのだ。

「これは」

 思わず呟けば、主が私の顔を覗き込むようにして、お口に合ったかしら? と悪戯に聞いてくる。

「ええ。とても」

「クレマンが薬草を分けてくれたの。果物と一緒に摂ると、疲れがとれていいんですって。でも、すごく渋くて、ジャムを入れても、あんまり美味しくなかったのね。それで、他のお茶とブレンドしてみたのよ。これなら飲みやすいでしょう?」

「はい」

 どうやらこれが、ハンナが後でと言っていた答えらしいと察する。

 私はあっという間にタルトを食べ終わって、一つ息をついた。

 主の手料理を食べたのは久しぶりだ。恐らく、前御領主が昏睡に陥って以来、つまり、一年半ぶりぐらいになるだろう。

 初めてのことばかりで夢中だった一年目が終わり、二年目に入った今年は、いくらか余裕を持って事に当たれているように思う。この菓子は、その証に思えた。

 主の、お父上を亡くした悲しみも、少しは薄らいでいてくれると良いのだが。

 私は、茶を飲みつつ、行き交うなんてことのない会話を聞き流しながら、そんなふうに物思いにふけっていた。

 と。隣の主が、もぞもぞといずまいを正して、あのね、と話しはじめた。

「皆に集まってもらったのは、実はお願いしたいことがあるからなの」

 私は主に注目した。皆も同じように主に顔を向けていた。

「昨年、父が亡くなって、一年間、領地全体が喪に服してくれました。皆も、悲しみを共にしてくれて、ありがとう。……けれど、その喪も四月で明けました。そこで、秋の豊穣祭は盛大に行いたいのです。それを皆に手伝ってもらいたいの」

「もちろんでございます」

 いの一番に、トラヴィスが答えた。異口同音に、私も含めた皆が頷く。

「よかった。ありがとう。心強いわ。それで今年は、私もダンスに参加しようと思うのです。楽しく皆と踊って、もう憂いはないのだと示したいの。だから、ハンナ、アン、ダイナ、祭り用に新しいドレスを頼みます。明るい色の華々しいものを」

「はい、かしこまりました」

 ハンナは包み込むような温かい笑顔で答えた。アンとダイナは興奮してお互いの手を握り合って、「もちろんです!」「がんばります!」と、きゃあきゃあ騒ぎはじめた。

 色は何がいい、とっておきのレースを使ってしまいましょう、形は袖をふくらませて、などと、ぽんぽんと若い二人からアイデアが飛び出してくる。まるでとどまるところを知らないようだった。

 それをハンナが、「早めに布地を届けさせて、しっかりとデザインを詰めましょうね。トラヴィス様、明日さっそく、布地屋に連絡をお願いします」と、やんわりと、且つ重々しく取り仕切った。

 主はにこにことそれに付き合っていたが、騒ぎが収束すると、今度はクレマンの方を向いた。

「クレマンにはダンスの練習に、バイオリンを弾いてほしいの」

「はい。喜んで。……これからすぐにでもいいですよ。ひとっ走り、部屋まで取りに行ってまいりましょうか?」

 少々せっかちな彼の言い様に、主も皆も、くすくす笑った。

「嬉しいけれど、少し待ってね。肝心のパートナーを頼まないといけないから。……エディアルド、お願いできるかしら?」

「はい。私でよいのでしたら、喜んで」

 たぶんそうなるのだろうと予想していたおかげで、私はすんなりと答えることができた。

 恐らくこの人員で、主の相手が務められるのは、私しかいない。なぜなら、主は体を動かすことを酷く苦手としているから。

 ここに来たばかりの頃、ずいぶん乗馬の練習にもつきあったが、なんとか一人で乗っかっている(乗っているではない)程度にしか身につかなかった。

 それ以外にも、淑女に憧れる主はダンスの練習もしたがって、そのお相手も務めたのだったが、数節ごとに足を踏まれて(彼女は時々右と左がわからなくなるらしい)、私の靴はへこんで傷だらけになってしまったのだった。そして、それを旦那様が不憫がって買い換えてくださって以降、練習をしたいとは言わなくなってしまった。

 別に私は足を踏まれようと、向こう脛を蹴られようと、脇腹に肘鉄を食らおうと、騎士団の訓練に比べればどうということはないから、遠慮はしなくていいと言ったのだが、最後には涙目になって、もういいの、本当にいいのと、断られたのだった。

 とにかく、そんな主のダンスの練習相手を、腰が痛いとこぼすクレマンや、雨の日は神経痛が疼きますと言うトラヴィスには、押し付けられない。体の頑丈な私が引き受けるのは当然だった。

 それに、私としては役得だ。こんな日々は、あと三年も続かないだろう。短ければ二年……、あるいは一年。主が結婚相手を決めるまでのことなのだから。

 それまでに、あとどれほどの触れ合いを持てるのだろう。結婚してしまえば、気軽に手をさしのべることもできなくなる。

 もしかしたら夫君(ふくん)は、ライエルバッハの称号を持つ私を疎んじて、遠ざけるかもしれない。

 それならそれで良いと思っている。夫君が彼女をしっかり守ってくれ、円満な夫婦関係が築けるなら、むしろ私などいない方がよいだろう。

 なにも傍にいるだけが、主を守る術ではない。必要ならば離れた場所でも、いや、たぶん、そうした方が、手厚い守りが構築できる。

 その時に、この日々は、きっと私を温かくなぐさめてくれるだろう。

 この頃私は、毎日のようにそう思うのだった。

「パートナーも決まったことですし、では、さっそく取ってまいりましょう」

「ああ、いいのよ、クレマン、今はお茶を楽しんでくれれば」

 言うなり立ち上がった彼を、主は引き止めたが、彼は耳を貸さなかった。

「思い立ったが吉日ですよ。さあさあ、サリーナ様もお茶を飲み干して、靴を履いて待っていてくださいね」

 そう言って、さっさと行ってしまう。主は、まあ、急がなきゃ、とカップに残ったお茶を、こくこくと飲んだ。

「ところで、サリーナ様、私は何をいたしましょうか?」

 トラヴィスが、そんな主に話しかけた。

「ああ、そうでした。トラヴィスには一番重要なことを頼まないと。十日後に、泉の広場で御前会議を開きます。豊穣祭に意見のある者は集まるように、領内に触れを出してください。それから、会議での司会も頼みます」

「謹んで承ります」

 トラヴィスは胸に手を置き、大仰に礼をした。彼はすぐに顔を上げ、どこか人の悪く見える笑みで、主と、なぜか私に、にこりと笑いかけてきた。

「それと、勝手ながら、ダンスの教師も承りましょう。さあさあ、二人ともお立ちください。ダンスは立ち姿から始まりますからね。クレマンが来る前に、基本の確認をしますよ!」

 無礼にならない程度の強引さで、主と一緒に敷物の上から追いたてられる。

 私は先に立ちあがって、あたふたと靴を履いている主の前に手をさしだした。

 主が気付いて、笑顔になって私の手を掴む。

 私はその手をしっかりと握りしめ、ダンスの練習相手を務めるために、彼女の体を引き起こしたのだった。

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