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城内はどこもかしこも陰気だが、その中でも一等重々しい雰囲気が降り積もっている場所。それが図書室である。
室内は薄暗い。蔵書が日に焼けないように、必要最小限の光源しかないのだ。
私は陰鬱な天井まで届く書架の間を縫い歩き、奥にある閲覧室に向かった。
果たしてそこに、我が主はいた。
色の褪せた元は緑だか茶色だか判別つかない、クッションの潰れきったソファに、靴を脱いだ足を上げ、丸まるようにして本に食いついている。いや、食いつくように読んでいる。
朝、両脇を編んで頭の後ろでくくってあった髪は、最早鳥の巣のように絡まっていた。どうせまた、ソファの上で読みながら、仰向けに寝転んだり、うつ伏したり、背もたれに寄りかかってみたりと転げまわっているうちに、邪魔だと髪留めを外してしまったに違いない。
「お取り込み中、失礼致します、御領主様」
入り口ではっきりと大きな声で言ってみたが、反応はない。本に夢中になっているのだ。
しかたなく私は歩み寄り、傍に跪いて、そっと本を取り上げた。一瞬夢から覚めたような顔をして、それからすぐに、むっとして不機嫌に視線をよこしてくる。
小造りな顔は美人というにはだいぶ足りないが、けっして不細工ではない。肌は肌理細かく上質の絹のようだし、なにより琥珀色の瞳は知性にあふれている。
「メディナリー氏が、新作を読んでほしいと来ていますが、いかがいたしますか」
「なんだと? すぐに行く」
我が主は隠しきれない喜色を浮かべて立ち上がった。
私がソファの下に脱ぎ捨ててあった靴を揃えて足元へ出すと、肩に手を置かれ、見守る先で靴の中に華奢な足がおさまった。ストラップを締めてやれば、颯爽と歩きだそうとする彼女を、手を取ることによって引き留める。
「髪が乱れていらっしゃいます。暫しお待ちを」
ソファにもう一度座らせ、後ろにまわって懐から出した櫛を入れる。丁寧に絡まった髪を梳かしてゆけば、赤味がかった金髪は豊かに波打ち、豪華に広がった。それを手早く一本の三つ編みにし、ソファの上に落ちていたリボンでくくった。
「お待たせいたしました」
「うん、ありがとう」
主は立って、こちらを振り返った。無表情に人の顔をじっと見てから、軽い溜息をついて、前へと向き直った。
なにやら呆れているようである。非常に感じが悪い。が、しかたない。私はどうやら主の美意識から外れた存在なのである。
別に彼女の審美眼に適う存在にはなりたくないため、むしろそれで結構だったが。
「ロランに軽食を用意してやってくれ。それから客室も」
「かしこまりました」
今晩は新作の小説について、喧々諤々語りあうのだろう。またもや徹夜だろうか。酔狂な。
今夜の主と自分の睡眠時間を思って顔を顰めたくなったが、私は表には出さなかった。
私の仕事は、我が主が居心地良く過ごせるよう取り計らうことである。文句の付けられる身分ではない。
ただ、一言ご忠告申し上げるのは、バトラーの職務からはみ出るものではないだろう。
私は主の後ろを歩きながら声をかけた。
「一晩中二人きりで男と語り合うのは、淑女のなさることではありません。お控えください」
たとえ欠片もいかがわしいことがないとしても。
「わかっている。そのつもりだ」
主の声は硬い。淑女という言葉に弱いのだ。
主の読む本の大半は、様々な専門書である。農業、土木、医学、薬学、地理、歴史、神学、旅行記等々。ここ、トリストテニヤ領は、製本の地として知られている。女領主として領地や城と共に受け継いだ技術と知識を最大限に利用するべく、彼女は新しい原稿はもとより、城の図書室に集められた本も片っ端から目を通しているのだった。
だが、彼女が本当に好きなのは、実はこの頃流行の「恋愛小説」なのだ。
その中では、私が読もうとした限りでは、見知った言葉の羅列なのに理解できない台詞が乱舞しており、唐突に滑稽な事件が起こったりする。
あらすじ的には、素敵な淑女が立派な紳士と結ばれて幸せになる、というものらしいのだが、とにかく私には読めない代物であった。
あれが立派な紳士の言動だというのなら、私は一生できなくていい。道の真ん中で、君を愛しているなどと、誰が叫びたいと思うのだろう。あまつさえ、その場でキスの嵐を起こすのだそうだ。
主にどんなに求められても、私はそうはなれない。だったら、職を辞した方がましである。
ただ、主はそうではないらしい。寝食を忘れるほどの恋愛小説好きが高じて、駆け出しの恋愛小説家のパトロンまでやっている始末だ。
夢見るばかりで足元の浮ついたあれらに金を出すことに、時々、というか毎回やりきれなさを感じるが、中には売れっ子になって、我が領の財政に貢献してくれる者もいる。
興味が架空の男女の色恋、それも常識外れの想像を絶する夢想に浸っている彼らは、おおむね変人ではあっても善人であり、なにより他に楽しみのない主の、たった一つの道楽だ。
今日訪ねてきたロラン・メディナリーも、この頃ようやく芽が出てきた者だ。
主の書物全般に対する査定眼は確かで、彼女が面白いと思うものは売れるらしい。アドヴァイスも非常に的確なそうで、そのために徹夜での議論になるのだ。
人間、好きなものには時間を忘れてしまうものである。
どうか、彼の携えてきた小説の完成度が高く、少しでも早く議論が切りあがってくれるようにと願うことしか、ここの他に行く当てのない私には、できないのだった。