10
メディナリーは二階の個室にいる、と言うマイクロフト・ハリスンに案内されて、階段を上った。
雑多な下の食堂で、誰かの耳を気にして話さないですむのは、ありがたい。気が利いているし、約束を忘れたわけでもなさそうなのは認める。……だが、それとコレは別だ。
私は部屋の前でハリスンに少し待っていてくれるように頼んで、一人で中に入った。
「やあ、メディナリー。遅くなってすまない」
前菜で先に一杯やっていたらしいメディナリーにつかつかと近付き、右手をさし出した。
「いや、ぜんぜん待ってないよ。気にしなくていいから。って、君が怒ってるね?」
彼は心持ちのけぞり、手をけっして出そうとしなかった。
「どうしてそう思う?」
「どうしてって、僕が聞きたいよ! どうして君は怒ってる時ほど、笑うのかな!」
怒っている時というより、気分が高揚している時の癖なのだが、それは今、どうでもいい。
「心当たりは?」
「あるよ、あるある。ごめんって。だから、朝までだって、問題が解決するまで、僕はちゃんと君につきあうから。ね?」
「君は朝から寝てればいいだろうが、私には朝から仕事があるんだが?」
「君は寝不足ぐらいがちょうどいいんじゃないかな。少し正気を失ってみた方がいいんだよ」
反省の表情から一転、呆れた口調で軽く肩を竦めた彼の言葉が不可解で、私は眉を顰めた。
「どういう意味だ?」
「あー、いや、うん、そのへんは話が長くなるから、また後にしようか。それで、君が怒っているってことは、マイクも来てるんでしょう? だったら、ほら、さっさと仕事は終わらせようよ。君の話で彼の創作意欲に火を点けてやれば、部屋に飛んで帰るに違いないから。ね?」
調子のいいことを立て板に水で話し終えて、彼は愛想笑いを浮かべた。まったく、ずうずうしい。
「いいだろう。ところで、さし出された手を無視するのが紳士の振る舞いか?」
「だって、君のそれ、握手じゃないじゃないか!」
彼は必死な様子で言い張った。
「失礼な。私は礼儀正しい握手を心掛けているだけだ」
嫌々メディナリーが持ち上げた手を、私はしっかり掴んで、思い切り力を込めた。男同士の握手は、力の限り握るのが最上の敬意を表すのだ。
「痛い痛い痛い痛い!!!!」
メディナリーが大袈裟に騒いだ。うるさい。そのやかましさに辟易して、私は手を離した。
「あー、もー、酷いなあ。これじゃあ、しばらくグラスが握れないよ」
彼は手をぶらぶらと振っては息を吹きかけつつ、不満気に言う。
「朝までつきあってくれるんだろう? だったら、飲むな。酔っ払いの戯言など、聞く気にならん」
「……君って、なにげに我儘だよね」
メディナリーは恨みがましい目で、私を見上げたのだった。
なにはともあれ、三人でテーブルにつき、酒を運ばせて乾杯した。料理も先に運ばせてしまうことにする。途中で話の腰を折られないように。
何も聞かれないのをいいことに、しばらく無言で食べた。腹が減っていたし、王都の話など、こちらから話したい話題でもない。
メディナリーは先にいくらか食べていたせいか、行儀悪くテーブルに頬杖をついて、飲むなといったはずの酒を舐めている。ハリスンは、おどおどと自分に近い同じ皿から料理を取っては、ちらちらとこちらを見ていた。
その視線が鬱陶しくなって、私は彼に顔を向け、尋ねた。
「どれが食べたいんだ?」
「え?」
彼は、ぽかんと私を見た。
質問が見当はずれなのは、私だってわかっている。だが単刀直入に、何の用事だと聞いたところで、この男がうまく話せるとは思わない。会話のきっかけを投げかけたのだ。
「さっきから、同じ料理しか食べてないだろう。こっちに食べてみたいのがあるんじゃないのか」
「えっ?」
彼はなぜか真っ赤になって、うろうろと視線を彷徨わせた。そのうち、ナイフとフォークを置いて、へこりと頭を下げた。
「あ、ありがとうっ」
は?
真顔で聞き返しそうになったのを、私は無表情を装うことで、辛うじて回避した。
そうして、何が始まったかと呆然と彼を見ているしかないというのに、彼は頭を下げた状態で、滔々と話し始めたのだ。……聞くに堪えない、妄想を。
「君は、本当にいい人だね。急に同席させてくれと言っても、嫌な顔一つしなかったし、それに、私なんかの食事もちゃんと見てて、気を配ってくれて。私は君に謝らないといけない。実は、私は、ずっと君が怖かったんだ。あ、暴力を振るわれると思ったんじゃないよ。怖かったというか、気後れしてたんだ。なんていうのか、君は孤高で、私なんか足元にも及ばなくて、その、惨めになるっていうか、あ、それも、私が勝手にそうなるだけなんだけど」
どこの誰の話だ。この男、人間観察がまったくできていない。
「サリーナ様が、よく言うんだ。君はとても優しいって。いつもよく人を見ていて、そっとさりげなく助けてくれるんだって。自分に自信があって、それに見合うだけの実力があって、冷静で。そうして、遺憾なく持てる力を人のために使える君は、本物の紳士だね」
だから、どこの誰の話だ!
サリーナ様がそんなふうに評してくれているという件では胸が高鳴ったが、それ以外があまりにも気持ち悪くて、褒められたなどと喜ぶ気持ちは欠片も浮かんでこなかった。
むしろ私は食欲が失せて、げんなりと言った。
「私は、それほどできた人物ではないよ。妄想は小説のためにとっておいて、いいから今は、これを食べろ」
私は手近にあった皿を掴んで、その中身を、ざらりとハリスンの皿に落とした。とにかく口の中をいっぱいにして、黙っていてほしかった。
「ああああありがとうっ」
ハリスンは、ようやく顔をあげたかと思うと、ぱあっと笑った。犬が尻尾をちぎれんばかりに振り回すみたいに。
ああ、なんか、面倒なものを手懐けた。
私は、そう悟らざるを得なかった。