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『鼠の恩返し』亭は、メディナリーのアパートメントからさほど離れていない場所にある。彼の通いつけの食堂だ。
うちの城下町には、アパートメントや家庭的な料理を出す店が多い。というのも、初代城主の頃から、芸術家が多く集ったせいだ。
こう言っては語弊があるかもしれないが、彼らは特異な才能を授かったかわりに、まっとうな日常生活を送る能力が欠落しているのではないかと思われる。
作品に没頭し始めれば、寝ないのはもちろん、飲まず食わずで倒れることもしばしば。うっかり放置しておけば、腐乱死体で発見などということも無きにしも非ずだ。
一見まともそうなメディナリーでさえ、話を聞いていると、ベッドで眠るのは月に片手の数ぐらいのようだし、ジェンが汚れた前掛けをいつもしているのは、服の汚れなど気にせずに、突然思う存分描き殴りはじめるせいだ。
なので、各アパートメントには、しっかり者の大家を置いて、彼らの安否確認を怠れない。それに、そんな状態で清潔な生活が送れるわけもないので、家政婦を雇って定期的に派遣もしている。……領主であるライエルバッハ家が。
トリストテニヤは税収の豊かな領地であるが、ライエルバッハ家は資産家ではない。入った金のほとんどは、芸術家の卵たちの支援にまわされてしまっているせいだ。
それでも、芽が出る者は、ほんの一握り。あとは無名のままで埋もれていくのだ。ある意味、博打に近い投資である。
しかし私は、そのことについて、口は出すまいと決めている。芸術とはそういうものだと、前御領主が教えてくださったからだ。
昔、前御領主の肖像ですと言って、目と鼻と口がばらばらにくっついている奇怪なナニかの絵を、自称画家が持ってきたことがある。
前御領主は、大変に素晴らしいと褒め、次も頑張りなさいと、その男に大金を渡した。
私はそれを、眉をひそめて見ていた。私にはその絵が、子供の落書きよりも酷いものとしか思えなかったのだ。
前御領主は画家が帰ってから、自分の顔の横に絵を掲げてみせて、朗らかに笑った。
「ご覧、これは私だそうだよ。美しい絵じゃないか。照れるね」
その時私は、その笑顔に瞠目した。穏やかで、寛容で、茶目っ気のあるいつものお顔であったが、それが、確かに、横に並ぶ絵の中にも描かれていたからだった。
とても人の顔とは思えないものなのに。色使いもお世辞にも美しいと言えない。であるにもかかわらず、そこには前御領主の善いものが表現されていた。
「これはきっと、売り物にはならない。いや、私だと言ってくれたものだから、売るつもりはないのだけどね。これを理解できる者が、今の時代にはいないのだよ。私も含めてね」
前御領主は絵を膝の上に戻すと、つくづくと眺めながら言った。
「ああ、私も、神の領域の芸術を理解できる才能がほしかったよ。そうしたら、世界はもっと、祝福に満ちて見えただろうに。……ん? 何か言いたそうだね。正直に言ってごらん」
あの方に嘘は通用しない。それはわかっていたから、私は思ったままを言った。
「おっしゃることはわかりますが、きっと、世間には変人としか思われないでしょう。……彼のように。それではお仕事に支障が出るのではないかと」
「ああ、まったくそうだ!」
前御領主は大きく頷いて笑った。
「ないものねだりはするものではないね。私は私に与えられた才能で、私の役割を果たそう。もちろん、君もだよ。だから君に、いいものをあげよう」
絵をテーブルの上に注意深く置き、執務机へと行って、引き出しの中から何か小さな物を取ってきた。
「これは、倉庫の鍵だ。ほら、東側に大きな建物があるだろう。あそこだよ。中には、代々の城主が支援した芸術家たちの作品が収められている。ところがねえ、私たちはどうもずぼらで、押し込むだけ押し込んで、中にいったい何があるのか、わからないのだよ。だからそろそろこのへんで、収蔵品の整理をしなければならなくてねえ。それを君に頼みたいんだ」
そう言うと、私の前に鍵をさし出した。
「剣を振るうのに、どんな手練れでも初めは練習がいるように、実は芸術を見極める目も、本物を多く見ることで肥えていくのだよ。君には、これからこのトリストテニヤを背負って立つ人物になってほしいと思っている。きっといい勉強になるはずだ。頑張ってくれたまえ」
そして、恐る恐る出した私の掌の上に、チャリと鍵を置いたのだった。期待に満ちたまなざしで。
まあ、それで、仕分けはトラヴィスにアドヴァイスをもらいながら、うず高く積もった埃の方は、ハンナに指導してもらいながら、片付けたわけだが。
……全部終わっても、やっぱり私にはただのガラクタの山にしか見えなかった。よく考えれば、売れ残り品ばかりなのだから、当たり前なのかもしれない。つまり、駄作か凡作か神にしか理解できない作品かのどれかなのだろう。
しかし、どれも、無から人の手が創り出したものには違いなかった。どんな駄作だろうと、奇跡の欠片には変わりないのかもしれないと。
半年が過ぎる頃には、そう思えるようには、なったのだった。
そのようにして、美術品に対しては耐性ができたのだが、恋愛小説の方は、まったく進歩がみられなかった。
べつに、読書全般が苦手なのではないのだ。むしろ、本とは面白いものだと思っている。
騎士団では、あまり読み書きに重きをおいていなかったが、私は王都にいる母方の祖父に呼び出されるたびに、腹いせに祖父の本を持ち帰っては読んでいた。
それは、質屋に売るといい小遣いになったからだったが、それだけだったら、それこそ凝った彫刻のついたドアノブだってよかったのだ。
わざわざ私が本を選んだのは、本の中にある知らない世界を知るのが楽しかったからだ。
だがしかし、恋愛小説はどうも苦手だった。というか、理解不能だった。遠い異国の珍しい習俗よりも、私にとってはもっと不可解な世界なのだ。
というわけで、時に、それを生み出す恋愛小説家も、私には不可解であることが多い。
今、目の前にいる人物、マイクロフト・ハリスンなんかは特に。
彼はとても痩せていて蜘蛛のように長い手足をした男で、いつもおどおどとして挙動不審だ。
その彼に、食堂に入ったとたん、声をかけられた。出入り口に一番近い席から立ち上がり、足早に近寄ってくる。
「エ、エディアル、あいたっ」
どうやら舌を噛んだらしい。いきなり口を押さえて涙目になる。いつものことなので、私は大丈夫かとも聞かず、足を止めて彼が落ち着くのを待った。
「や、やあ、エディアルド君、こんばんは。……ご機嫌いかがかな」
私は密かに、イラッとした。
最後に萎むようにうかがう言葉が付け加えられたのは、恐らく私がにこりともしないからだろう。
この男にだけではない。私は男に振舞う愛想は持ち合わせていないのだ。
しかしそれを気にするのは、この男ぐらいなものだ。私は彼にご機嫌伺いをされるたびに、正直に、まさに今、機嫌が悪くなったと言ってやりたい衝動に駆られる。まるで、愛想良くしろと言外に強制されている気分になるのだ。
だが、それがどれほど大人気ない対応か承知している。彼はただ、誰とでも友好的な関係を築きたいだけなのだ。それをしようとしない私に、とやかく言う権利はない。
彼は気弱だが、気遣いにあふれた優しい性質の男なのだろう。主曰く、彼ほど繊細な小説を書く人はいない、だそうだから。
彼もまた、主お気に入りの若手恋愛小説家だった。私は当たり障りなく挨拶を返した。
「こんばんは。おかげさまで、悪くはないよ」
「そうかい。よかった」
彼は大袈裟に頷いて笑みを浮かべた。少し落ち着いたのか、すべらかに話しだす。……猫背の上目遣いで、胸の前にかまえた拳をニギニギと握ったり弛めたりしながらの妙な動作で。
「さっき、ロラン君に、騎士団にいた頃の話を聞かせてもらえると聞いたんだが、ぜひ私も同席させてもらえないかな」
嫌だった。今日はそちらはおまけで、私は主とのことを相談に来たのだ。それはメディナリー一人がいれば充分で、何人にも自分の弱みを見せる気はなかった。
だが、彼の目は必死なものを宿していて、簡単に引き下がるようには見えなかった。どうやら彼の足は、緊張のあまり、震えているようである。
「何を聞きたいんだ?」
試しに聞いてみる。
「王族の方々のことを」
「私は直接お仕えする立場になかった。たいしたことは何も話せないが」
「それでも、歩く姿や、話す姿、ダンスを踊るところだって見たことがあるだろう? 小さなことでいいんだ。それがリアリティをもたらす。私は、実際に見た人から、話を聞いてみたいんだ」
小説の話になったとたん、彼からおどおどとしたものが抜け、急に雄弁に語りはじめた。さっきまでの彼もあしらいに困ったが、これはこれで払いのけられそうにない。
「今度は、姫君が出る話でも書くのか」
私は溜息混じりに聞いた。
「うん。うまく書けたら、ロラン君の本と同時に出版してもらえるんだ」
華麗な物語を書くと評判なメディナリーの騎士の出てくる小説と、繊細なマイクロフト・ハリスンの姫君の出てくる小説。いかにも恋愛小説好きな者たちを熱狂させそうな仕立てだ。
それに、対照的なそれらを同時に出版することで、相乗効果が期待できそうだった。鮮やかな対比は、それぞれの特徴を際立たせるに違いない。少なくとも、話題作りにはなる。
「それは、サリーナ様の提案だね?」
「うん、そうなんだ。ぜひ書いてみないかと話を貰って」
だったら、しかたない。
「そうか。なら、来るといい。君が知りたいことが話せるかはわからないが」
「ありがとう! ありがとう、エディアルド君!」
突然、興奮しきりに彼に手を掴まれて、握手のように振られた。
私はとっさに振り払いそうになったのを我慢して、さりげなく手を引っ込めた。そのかわりに、では、行こうか、と彼を促す。
私は先に歩きながら、いくつもこぼれそうになる溜息を呑み込んで、今夜は本当に仕事に徹するしかなさそうだと、諦めを抱いたのだった。