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金の女領主と銀の騎士  作者: 伊簑木サイ
第二章 恋愛小説家とのつきあい方
15/82

 挿絵画家のモデル業務は、非常にハードなものだった。

 着けるだけでも人に手伝ってもらって半時間はかかる、重くて暑い鎧を着けて、乗馬はもちろん、延々と休みなく剣やら槍やらを振り回すよう指示されたのだ。

 モデルと言えば、動かずにじっとしているものかと思うだろうが、人気挿絵画家ジェニウス・カラバのスケッチは、人とはかなり違っている。

 集中した真剣なまなざしでこちらの動きを注視し続け、突然視線をクロッキー帳に落としたかと思うと、さらさらと何枚も描き始めるのだ。

 そんな彼女の絵は、とても生き生きとしている。絵心のない私でも、思わず目を奪われるほどに。

 それは、その瞬間にしか存在しなかったはずの一瞬がそのまま切り取られ、まるで永遠を与えられたかのようだった。

 そんな相手に、手を抜いた動きを披露するわけにはいかない。彼女はそのまま(・・・・)を描き出してしまうのだから。

 だから、最後に、城に戻ってきていた主が女性モデルとして引っ張り出されて、二人で馬に乗ってみせた頃には、汗みずくでへとへとになっていた。

 昼も食べずにぶっ続けで五時間ほども動いていれば、さすがに私でも疲れ果てもする。

 私は終わると同時に井戸端に行って、庭師のクレマンに手伝ってもらって鎧を脱いだ。思ったとおり、全身に塩をふいていた。それを洗い流すために、頭から盛大に何度も水をかぶらなければならなかった。

 そこにトラヴィスが塩辛いチーズと気付けのワインを持ってきてくれて、私は上半身裸のびしょぬれのまま、それらを口にしたのだった。


 自室で服を着替え、この部屋備え付けの立派なソファに深く身を沈めた。埃を払うばかりで、滅多に座ったりはしないのだが、今日はそうせずにはいられなかった。

 ベッドにひっくりかえりでもしたら、確実に眠ってしまう。もう少ししたら、夕食の時間である。私には主の食事の給仕という仕事があった。

 どのくらいそうしていたのだろう。時計の音を聞いてぼんやりとしていたら、扉が控え目にノックされた。

「はい」

「あの、……私、だ。ちょっと、今、いいだろうか」

 主の声がした。私はすぐに立ち上がっていって、扉を開けた。

「いかがなさいましたか?」

「あ、いや、その、疲れただろう? さしいれを持ってきた。入ってもいいか?」

 お茶と軽食の載ったトレイを持った主は、上目遣いに言った。

 確かに、もうただの娘ではない主が、こんな行動をするのは褒められたものではない。しかし、私は単純に主の気遣いが嬉しかった。

「ありがとうございます。どうぞ」

 大きく扉を開け、招き入れる。

 主は先程まで私がいたソファのテーブルの上に、持ってきたトレイを置いて、ソファに座った。

「エディアルドも座って。ねぎらうために、来たから。……お願い」

 主は自分の隣を示して、そこに座るようにと私にうながした。

 本当なら、主と同じ席に座るなど許されない。だが、ここまで受け入れておいて、今さらである。

「失礼致します」

 私はなるべく主から離れて座った。三人掛けなので、離れると言っても、高が知れていたが。

 二人でぎこちなく並んで座り、見るともなくテーブルの上の物を見る。

「えーと、お茶をどうぞ」

 主は手ずから取って、私に渡してくれようとした。が、少し距離がありすぎ、腕を伸ばしきっても、私の手元までは届かなかった。

 それが、気まずかった。主の心尽くしを、まるで私が無碍にしてしまったような。

 昔は、仲良く並んで座ったのだ。どんな場所でも、こんな限られた椅子の上じゃなくても、野原に敷いた広い敷物の上でも、触れ合うほどに肩を並べて。屈託なく笑いあって。

 私は手を伸ばして受け取るついでに、少しだけ距離を詰めた。主の手が、私の膝の上に届くくらいまで。

「ありがとうございます」

「昼も食べずに彼女に協力してくれたと聞いた。とてもいいスケッチができたと喜んでいた。ありがとう」

「お役に立てたようで、ようございました」

 私はお茶に口をつけ、カップを下ろした。そこへ今度は、主は軽食の載った皿を差し出してきた。

「どうぞ」

「いただきます」

 私は遠慮なくいただいた。使用人の食事は主の後だ。まだだいぶ先になってしまう。さっきのチーズとワインだけでは、とても足りなかった。

 私はしばらく食べるのに専念した。主が皿を捧げ持ったままでいてくれるのが心苦しく、早くしなければと思ったからだ。

 すみやかに食べ終わり、お茶を飲み干して、皿やカップをトレイに戻してしまえば、それ以上することはなくなる。

「ごちそうさまでした。ありがとうございました。こちらは私が返しておきます」

「いや、いいんだ、私がする」

「でも」

「私がしたいの」

 ふっと昔の言葉遣いに戻って、主は言った。

 不意打ちの可愛らしい物言いに、不規則に心臓が脈打った。私はとっさに言葉を返すことができなかった。

 私たちはお互い、うつむきがちに黙り込んだ。さっきから、一度も目を合わせてはいなかった。こんな近くで主を直視する勇気はなかった。特に、急にただの『サリーナ』に戻ってしまったかのようなこの人とは。

 胸が苦しかった。傍にいて、この人の息遣いを感じているだけなのに。

 私がそんな風になっているなど、この人は思いもよらないに違いない。

 それに罪悪感を覚える。この人が純粋に寄せてくれている信頼を、どこか裏切っている気がして。

 それでも、自分の心であっても、私にはどうにもできなかった。どんなに打ち消したい、捨て去りたいと願っただろう。けれど、この思いはけっして消え去ってはくれなかったのだ。

 それどころか、この人に触れるたび、二人きりで過ごすたび、どんどん深く強くなっていく気がする。

 いつか、隠しきれなくなる日がくるのではないかと、私はそれが怖かった。

「……聞きたいことが、あるの」

 主がさっきのままの言葉遣いで、小さな声で言った。ちらりと目を上げ、でもすぐに伏せ、少し慌てたように続ける。

「あの、でも、答えたくなかったら、いいの。できたらでいいから。だから、本当のことだけを教えてほしいの」

 そこに、真摯な願いを聞き取り、私は、はい、と答えた。わかりました、と。

「えーと、あの、ね、エディアルドは、その、ジェンのこと、どう思っているの?」

 『どう』とは、また曖昧な問い掛けだった。私は思わず考え込み、その過程で、まずい、との認識に到った。

 今朝のフラガ夫人の部屋での不興は、これだったのか。私の挿絵画家に対する態度が悪いから、親切にせよと怒ったのか。

 それほど態度に出てしまっていたとすれば、不興を買うのも当然だ。主の抱える職人相手に、バトラーがそんな不躾をしていいはずがない。

 私は恥じ入って、申し訳ございません、と謝罪した。

「……そう」

 主は落胆を隠さない声で、一言だけ言った。私は本当に申し訳なく思い、弁解をせずにはいられなかった。

「ですが、けっして嫌っているわけではないのです。カラバ女史の才能も認めています。ただ、少々苦手なだけで。いえ、だからといって、失礼な態度をとっていいわけではございません。ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」

「え?」

 主ははじかれたように顔を上げて、びっくりした表情で私を見た。

「え? あの、エディアルドは、ジェンが苦手なの?」

「はい。行動が突拍子もなくて。会話をしても、ぜんぜんこちらの言うことを理解してもらえませんし」

「……天敵」

 主がポツリと呟く。

「ああ、そうです。そんな感じです」

「ジェンも、あなたのこと、そう言ってたわ」

「そうですか。彼女と合意に到ったのは、これが初めてです」

 お互いが天敵だという認識だとは、まったく皮肉なことだったが。

「それほど態度に出ていたとは、気付いておりませんでした。未熟で恥ずかしいかぎりです。これからは気をつけますので、どうかお許しを」

「え、いいえ、ぜんぜんそんなことはなかったわ。あなたは彼女を丁重に扱っていた。むしろ私は、」

 主はそこで不自然に口をつぐんで、急に頬に血をのぼらせた。そして、あたふたと目をそらし、落ち着きなく膝の上で指を組んだりいろいろしだした。

「と、とにかく、あなたに落ち度はありません。謝らなくていいです。そ、それと、今朝は、私こそ不機嫌な態度をとって、ごめんなさい。あ、あの、それだけ、言いたかったの」

 主は勢いよく立ち上がると、トレイを手にして、後退った。

「じゃあ、また、あとで」

 そして、背をひるがえすと、ガチャガチャと皿類を鳴らしながら、逃げるように去っていく。

 ところが、扉の前で、あ、と叫んで、主は振り返った。

「ロランがあなたに、騎士団の話を聞きたいそうなの。明日の夜、行ってもらえるかしら」

「明日ですか?」

 今日と聞いていたのだが。

「ええ、明日。駄目かしら?」

「いえ、結構です」

「そう。では、お願い。夕方、『鼠の恩返し』亭で待っているそうよ」

「かしこまりました」

 主は忙しなく頷き、部屋を出ていった。

 見送る先で、ぱたん、と扉が閉められる。そこに、主のスカートの端が挟まれてしまっていた。あ、と私が腰を浮かしかけると、それがするすると抜けていって、消える。そしてすぐに、ばたばたと廊下を走っていく音が聞こえた。

 私は腰を下ろしなおした。くく、と笑い声が漏れだす。

 ロランの願いを叶えてほしい、か。

 私は一人、痛む胸を押さえながら、くすくすといつまでも止まらない笑いに、身をまかせたのだった。

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