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「お兄ちゃーん」
「エディアルドお兄ちゃーんっ」
その時急に、子供たちが口々に呼ぶ声が聞こえて、私はメディナリーの部屋の窓から下を見た。
汚れた前掛けをした若い女が勝手に馬に触っている。
挿絵画家のジェニウス・カラバだ。通称ジェン。今回の小説の挿絵画家である。彼女もこのアパートメントの住人だった。
だからアパートメントの前にいてもおかしくはないし、べつに盗むわけでないのなら、馬に触ってもらってもかまわないのだが、いかんせん、その手付きがいけなかった。
ぺたり、ひたり、と当てては、さすり、さすり、としている。たぶん、馬の皮の下にあるものを確かめているのだろう。そのうち皮を剥いで、筋肉や血管の具合を見させてくれと、言いだしかねない目つきをしていた。
そんな不穏な触られ方をして、馬が気に入るはずもない。カツカツと蹄を鳴らし、いつ蹴られてもおかしくない状況となっていた。
「ジェン! 触るな!」
私は挨拶もせずに、とにかく彼女を制しようと、鋭く声をかけた。だというのに、彼女は面倒くさそうに私を見上げて、そっけなく返してきた。
「おかまいなく」
私は頭痛に似た何かを感じた。彼女と話していると、必ず襲ってくる感覚だ。どういう思考過程を経れば、そんな返答になるのか、皆目見当がつかない。
しかし、とにかく、このまま放ってはおけない。
私はメディナリーの部屋を飛び出し、急いで階下へ向かったのだった。
息を切らして外に飛び出し、間一髪、今にも蹄にかけられそうになっていた彼女の背中のエプロンの紐を引っ掴み、引き寄せた。
それでも未練がましく馬に手を伸ばす彼女を、逃がさないように背後から首に腕をまわして、動けないように軽く締め上げる。
そうしておいて、私はあがった自分の息が落ち着くのを待った。危険なことばかり繰り返す彼女に、今日こそは反省してもらわなければならなかったからだ。
私は彼女の首から腕をはずすと、体をこちらへと向けさせ、しっかりと彼女の両の二の腕を掴みなおしてから、目を覗きこんで、教え諭した。
「危ないだろう。君は馬に触わるべきではないと何度も言ったのに、まだわからないのか」
「あなたははいつも意地悪ね。せっかく馬が触らせてくれていたというのに」
ジェンは少しも理解を示さず、不機嫌に私から逃れようと身をよじった。
この女は、いつもこうなのだ。興味の向くものに常に意識が集中していて、常識どころか、危機感さえ欠落してしまっているのである。
「触らせてなどくれていたものか。嫌がって、蹴られるところだったんだぞ」
「そんなことはないわ。機嫌よく、ブルブル言ってたんだから」
「それは、嫌だと言っていたんだ」
「聞いてもなかったくせに、適当なことを言わないで」
「聞いてはいないが、見ていた。カツカツと蹄を鳴らしていただろう。あれは」
「私の鼻歌に合わせて、リズムを取っていたのよ」
私は唖然として言葉を失った。どうやったらそこまで事実を無視して、自分の都合のいいように考えられるのかがわからない。
この女、いつか絶対、馬に蹴られて命を落とすに違いない。いわゆる、好奇心が猫を殺すというやつだ。
しかし、それでは困るのだ。当分彼女には、我が主のために挿絵を描いてもらわなければならないのだから。
と考えて、私は主を待たせているのを思い出した。これ以上、不毛な議論をしている暇はなかった。
「……わかった。日を改めて、私の監視下で馬に触らせてやる。だから、今日のところは、ここまでにしてくれ。御領主様が君に話があると、フラガ夫人の部屋まで来ていらっしゃるんだ」
「サリーナ様が? しかたないわね。わかったわ。絶対よ。約束ですからね」
その物言いに、何もしないうちからうんざりとした気持ちになったが、言い出したのはこちらだ。私は、必ず、と請けあった。
「では、メディナリーの部屋まで同行願えるか」
「ロラン? ああ、お仕事の話ね。あら、だったら、もう一つ条件を付けるわ。エド、あなたにモデルを頼むわ」
「なぜ私が」
嫌だった。この女とは、なるべく関わり合いになりたくなかった。
彼女は私を見て、きょとんとした。それから、ああ、と思い当たったように頷いて、
「だったら、サリーナ様に頼むからいいわ」
私が断れない唯一の方策を、さらりと口にして、それで私に興味を失ったらしく、アパートメントの方へと顔を向けた。
そこでフラガ夫人の部屋の窓から姿を現していた主を見つけて、サリーナ様! と、ぱっと笑顔になって叫んだ。私が手を離せば、いそいそと駆け寄っていく。
……なんだか、まだ朝だというのに、私はもう、精神的に疲れきっていた。さっさと城に帰って、自分の部屋で不貞寝をしたかった。が、まだ用事が何も済んでないのに、できるわけもない。
気分転換に一つ大きく深呼吸し、それから子供たちに知らせてくれた礼を言って、主をお連れするべく、挿絵画家の後に続いたのだった。