表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

エクスプレス・サイン

作者: 希望無人
掲載日:2026/06/10

「エクスプレス・サイン」


 それは、大口を開けた六弦の怪物。

 体は光沢がかかり、曲線を描いた体躯の中心を、まっすぐな糸が張り詰める。

 奏でる欲望を、掻き鳴らす本能を、遥か昔から繋ぎ続け今の形へと成る。

 ——多くの人は、忘れ去ってしまった。

 それが鳴らす音を。震える指先の感覚を。約五十キロの張力と、反発する刺激を。

 深い闇に包まれ、弦は錆びつき、その体は埃を被った。人々はいつしか、奏でることを忘れてしまった。


 ——悔しいと思ったんだ。

 年端も行かない、ずっと昔のこと。

 ナオトは、兄のつけるブレスレットを、羨ましそうに眺めていた。

「ほら、見てみろよナオト。最新式だぜ」

 兄はブレスレットの電源をつけた。するとたちまち、空中にホログラフィーが映し出される。

 ナオトは、オンボロのブレスレットを握りしめた。

「俺も、それが欲しかった……」

 そう言うと、兄はこう返した。

「無理だよ。だってお前、負けたじゃん」

 二人の兄弟に与えられたのは、単純な課題だった。学校で最も良い成績を収めた兄弟が最も良い報酬を手にし、そうでない兄弟が下等な報酬を手にする。

 ナオトは口をつぐんだ。

 ある時は、食事で同じことが再現された。そこでもナオトは勝負に負けて、平民以下の食事を手にした。

 ある時は、身を飾る服で。ある時は小遣いで、ある時は、ある時は、ある時は……。

 ことあるごとにナオトは敗北し、その度に代償を払わされた。ゆえに、ナオトは兄弟の中で最も惨めで、最も痩せ細り、最も見窄らしいと同時に、最も貧しかった。

 思えば、敗北を重ねる人生だった。恥に恥を塗る生涯だった。

 悔しかった。ちょっとくらい、泣いたりもした。

 でも、そんな自分にも一人だけ、優しくしてくれる人がいた。三つ上の、ハル姉さん。

 彼女は綺麗で、強くて、才能に溢れていた。そして何よりも、人一倍心優しかった。

 当時、部屋に引きこもっていた自分に、彼女はずっと付き添ってくれた。それでも出ようとしないのを見て、彼女はこう言った。

「——やっぱり、この世界って間違いだらけだね」

 戸惑う自分に、こうも言った。

「私、いつかこの世界を変えてやるんだ。ナオトだって、好きに生きて、好きに欲しがれるんだって、訴えてやるんだ」

 荒唐無稽だと思った。そんなこと、絶対に無理だとも。それでも、姉さんが自分を大切に思ってくれてることだけはわかった。

 だから、引きこもりはやめた。

 ……だけど、ハル姉はある日を境に姿を消した。

 行方不明。消息は綺麗さっぱり断たれた。

 今も、ナオトはどこかで彼女の姿を追っている。またいつか、言葉を交わせることを望んでいる。


 今日の天気は快晴だって、ニュースキャスターの人は言ってた。

 でも、ナオトにはそれがとても快晴であるようには見えなかった。

 灰色で、どこか仄暗い。白とも言えないような、青とも言えないような、そんな色。

 ずっと、こんな調子だ。天気を綺麗だなんて思えたのは、いつだっただろうか。だから、ナオトは度々こんなことを考える。

 ——青って、なんだっけ、と。

『——十一時三十三分、T地区五番地にて犯人を逮捕しました』

 白黒のパトカーがサイレンを鳴らしている。空中には警備用ドローンがざっと五体。

 現行犯逮捕だったらしい。密輸入と、裏取引の現場を即刻取り押さえ。犯人は五人グループで、うちひとりは常習犯だという。

 渡された資料を見て、ナオトは眉を顰めた。まだ新品の警察服が、重く肩にのしかかる。

「ナオト、わかっているな」

「……はい、父さん」

 神田宗一郎。警視庁警視総監にして、この国の治安を担うトップ的存在。それと、ナオトの父親。

「お前たち二人には、いずれ警察の仕事を継いでもらう。だが——ナオト、特にお前については、どれほどそれが絶望的か、言うまでもないな」

「はい……」

 父は無感情に告げた。

「ならば、取り調べはお前がやるんだ。そして、少なからず成果を挙げろ。話はつけてある」

 ナオトはわかっていた。

 『成果を挙げろ』という言葉の裏には、『さもなければお前を見限る』と言う言葉が隠れていることを。

 取調室は、閑散として無機質だった。中央には机と、向いには髭ズラの男が一人。

 男はナオトを見るや否や、驚いたように目を丸くした。

「ハッ! 取り調べと聞いてどんなクセモンが出てくるかと思えば、ただのガキじゃねえか!」

 正直、今すぐにでも帰りたい。

 そんな思いを押し込め、男の正面に対峙する。

「それでは、取り調べを始めます」

 取り調べで重要になるのは、相手に自白をさせること。事件の証拠以上に被告人の言質は重い、のだが……。

「あなたが取引を主導したことに、間違いはありませんか?」

「ああ、間違いないね」

「では、罪を認めると?」

「おう、要はそういうことだな」

 ……手応えを感じない。

 相手があまりにもあっさりと非を認める。いや、現行犯なのだから言い逃れができないといえばそうなのだが、それにしたって雲を掴むかのような感覚だ。

「——では、この男に見覚えは?」

 写真を提示する。そこにはサングラスをかけた中年の男が写っている。

「名前は田代雄一。あなたと同じ、違法取引を行なっている者です」

「ふーん……あ!」

 男はポンと手を叩いた。

「知ってるぜ。前に取引をしたことがある。……話が見えたぜ。警察さんは、コイツのことを追ってるんだな?」

 逆に問われ、ナオトは言葉を詰まらせた。

「……え、と。その」

「若いねえ。そこは、「いいから答えろ」って詰めるところだ」

 実際のところ、男の言う通りだ。

 しかし、と彼は頭を振った。

「だが残念なことに、俺もコイツのことはよく知らない。M地区で活動しているとは聞いたがな。それと——」

「それと?」

「近頃、デカいことをする、とかなんとか言ってたなあ……」

 デカいこと……。それだけの情報では、内容の全貌は見えてこない。

 それからいくらか問い詰めてみたが、男からハッキリした回答が返ってくることはなかった。

 ……一時間くらい、経っただろうか。汗が流れて、明確な疲労を感じる。抵抗の意思は無いとはいえ、犯罪者と一対一。精神はすり減る一方だった。

 しかし、これで証拠と言質はとれた。罪に問うことはできる。あとは、罪状を決めるだけだ。

「——では、これについて、心当たりはありますか」

 机の上にそれを見せると、男は目を見開いた。

「ああ……立派なボディだ。かつて世界を席巻したアートの中でも、とりわけ音に取り憑かれた輩が手にしたらしい」

 木材のボディに、六本の弦。三角のピックと、三対のペグ。

 かつての芸術家は、これのことをこう呼んでいたと言う。

「——ギター、ってやつさ」

 ナオトは問い詰めた。

「あなたの取引リストに含まれていたものです。これが違法に当たることは、ご存じですね」

「もちろん」

 男は、当然、と言わんばかりに肩をすくめた。

 ——表現禁止令。今より百年以上前に制定された法令によって、芸術作品、またはそれに準ずる物の所持は禁止された。

 それが常識となってから久しく、芸術品の裏取引は各地で横行してきた。

「絵画、小説、彫刻……中でも楽器はさァ、コンスタントに高く売れんの」

 男は自慢げにそう言った。

「アイツら、本当にバカなんだ。ギターのことになると、こっちがどんだけフッかけても食いついてくんの。目がないってのは、まさにこのことだと思わないか?」

 たちまち、男の高笑いが室内に響いた。

 付き合いきれない。疲労が臨界点に達した感覚に、ナオトは項垂れた。

「もう、結構です。取り調べはこれで——」

「まあ、もう少し付き合ってくれよ」

 言葉を遮られる。

「オレァ、これでも心のどこかで、アイツらを理解してるんだ。シンパシー、ってやつかなァ」

「……はあ」

 いまいち話が読めない。

「オレには分かるんだ。アイツらが芸術に夢中になるのは——背徳感が抑えきれないからだ」

 瞬間、脳髄にヒヤッとした感覚がよぎった。寒気がして、肌に触れると、鳥肌が立っているのがわかった。

「抱えきれない犯罪欲。露出狂と同じだ。アイツらはお堅い奴らの面前で、Fワードを連呼するような感覚をずっと妄想しているに違いない」

 気づけば男に距離を詰められ、その双眸が目前まで迫っていた。

 瞳は黒く濁り、向こう側に自分の姿が見えた。

「——っ!」

「まあ、アンタらには理解できないかもしれないがな」

 瞳が、去っていった。詰まっていた息を吐き出す。

 すると、胸ポケットにさっきまでなかった重みがあることに気づいた。それは電子機器のようで、スピーカーがついていた。

「これって——」

 しっ、と男は指を立てて言葉を遮った。目線の先には……監視カメラと、ボイスレコーダー。

「いつの間に……」

「オレみたいな人間は、手先が器用じゃないと立ち行かないんでね」

 それは、不気味な質量を感じさせた。

「まァ、なんつーか、それは非道徳の塊みたいなモンでさ、社会批判とか政治批判とか、とにかくお偉いさんが聞いたら激怒じゃ済まないようなことを歌った曲が、その一個に詰まってる」

 そう聞いたら、なんだか胸ポケットの内側にあるものがますますただならないモノに思えてきて、怖気を覚えた。

「昔の人間は、ミュージックプレイヤー、なんて呼んでいたらしい。ともあれ、そいつを他人から隠れながら聞いてみるとさァ、最ッ高にキモチイイんだ」

 生唾を飲み込んだ。

 こんなもの、さっさと突き返さなければならないのに。なぜだか、そうするつもりになれなかった。

「俺の同類だったら、ウン百万はくだらない値打ちをつけるだろうなァ」

「それはつまり、何が言いたいんですか」

 男はニヤついた笑みを貼り付けて、頭を振った。

「こっからは全く関係ない話になるんだが……まあ、要するに、色をつけて欲しいんだ」

「どういう、意味ですか……」

 彼はあっけらかんと言葉を続けた。

「そのままの意味だよ。程よく、体よく、情状酌量の余地を感じれるくらいに、その報告書を書き上げてほしい。お願いさ。俺だって、牢獄で二年も三年も過ごしたくないんだ」

 なんて白々しい。だけど、抗いがたい強制力を覚えてしまうほどに、ナオトは男のペースに乗せられていた。

 

「疲れた……」

 すっかり疲労困憊になってしまった。ナオトは取調室を出るや否や、重いため息を吐き出した。

「これ、どうしよう……」

 胸ポケットから、重みのあるデバイスを取り出す。簡素な白塗りの機器には、麻薬にも等しい犯罪因子の数々が記録されている。

 売ったら百万はくだらない、か……。

 即刻処分すべきだ。しかしそれだけに、到底軽々しく扱えないような魔力がそれには込められているようだった。それもこれも、自分の優柔不断さゆえだ。

「いや、迷ってる場合じゃない」

 変な気を起こしてしまう前に、こんなものは捨ててしまうべきだ。

 そう思った直後、

「——見ィつけた」

 肩に手を置かれる感覚。

 愉悦。あるいは、恍惚。面白いものを見てしまったと言わんばかりに、その声は上擦っていた。

「——っ!」

 咄嗟に隠そうとしたひょうしに、プレイヤーが手から滑り落ちた。慌てて拾い上げようとするが、無駄だった。

「隠そうとしても無駄だよ。オレの目は誤魔化せない」

 背後からの声は、無慈悲にそう告げた。

「……兄さん。どうして、ここに」

 金髪の男を見て、ナオトは後退りした。

「いやね、自分の弟がどんな調子でやってるのか見にきてたんだけど……面白そうなもの、持ってるじゃん」

「その、これは……」

 言い訳をするよりも先に、兄はプレイヤーを取り上げた。それから珍妙そうにそれを見つめると、流れ出した音楽を嘲笑った。

「ハハッ、ヒッドイ。父さんが聞いたら血管切れて死んじゃうかも」

 冗談じゃない。文字通り、冗談じゃない。

「イケナイじゃないか、ナオト。こんなのを持たされて、誰にも報告しないなんてさあ」

 残念ながら、反論の余地はない。それでも、

「に、兄さんだって、同じじゃないか」

「はあ? 今、ナンつった?」

 目を泳がせながらも、兄の目を睨みつける。

「兄さんも、それ、おもちゃにして遊ぶんじゃないか? ちゃんと報告する保証なんて、どこにもない」

 それは弱者の抵抗だった。勇気を振り絞った、必死の反撃だった。

 しかしようやく挙げた狼煙は、一瞬にしてかき消された。

「口答え」

「……え?」

「口答え、すんの?」

 鋭い眼光にさらされて、反抗の意思は粉々にされる。

「いや、その……そういうわけじゃ……」

「じゃあ、黙っとけよ」

 蹴り飛ばされた。ナオトは地面に尻餅をついて、呻き声を漏らした。

「これはオレが大切に保管しておく」

 そう言って、兄はプレイヤーを持ち去っていった。


 ……今日は、散々な目にあった。

 いつも散々だけど、今日は特にだ。

 夜空に三日月が登っている。今夜はこのぽっかり空いた胸の慰みに、ジャンクなフードの一つでも買って帰りたい気分だったが、そうは行かない。

 やってきたのはM地区。男が言っていた情報によれば、ここが田代の活動している領域らしい。

 話の真偽はともかく、大きな動きを見せている田代の詳細をつかめれば、手柄になるかもしれない。

「しかし、M地区と言われてもなあ……」

 これでもかなり広い領域だ。正直、どこから調査したらいいものかわからない。

 ああでもない、こうでもないと脳内会議を繰り広げていると、不意にナオトは足を止めた。

「あれは……」

 遠くに見える、大柄な体躯。制服を見るに、見間違いではないようだった。

 名前は確か……

「そうだ、タクミだ」

 フルネームは確か、砂川タクミ。話したことはあまりないけど、高校のクラスメイトだ。

 こんなところで、何をしてるんだろう。ちょっと挨拶でもしようか。そうして後についていったのだが。

「おかしい……」

 タクミの後を追うごとに、人気が減っていく。

 住宅街からは遠く離れ、やがて閑散としたビル街へ。しばらくして、村田社の旧本社ビルの下までやってきた。

 大型トラックメーカーとして栄花を極めていた村田社。しかし、配送ドローンや陸空両用車の台頭で需要が低迷し、その後本社ビルを手放すこととなったと聞く。

 ランドマークとなる外付けの大型昇降機は、都心の真ん中でありながら異様に目立っていた。

 あれから買い手がついたとは聞いたが、その詳細は未だ明かされていない。

「おっと、そんなことより、今はこっちだな」

 危うくタクミの姿を見失うところだった。壁の陰から頭だけ出して確認すると、ちょうど角を曲がるところだった。

 よし、こっちだな。

 いそいそと彼の行った道を辿る。二十メートルくらい進んだくらいだろうか。角にたどり着いたので、その先を目にした。

 目にしたところで、ナオトは絶句した。信じがたい光景に、自分の目を擦る。

「……いない」

 彼は、いなかったのだ。

 すっかり、さっぱり、タクミの姿は消失していた。

 あり得ない。たった数秒目を離していただけなのに。これでは、彼が角を曲がった後光速で走り出したとかでもない限り理由がつかない。

 戻ってもう一度確認してみる。今度は、より注意深く。

 すると、ビルとビルの間の路地裏で、ナオトは足を止めた。闇が立ち込める路地裏は、見た目よりもずっと奥深くまで続いているようだった。

 この奥には、一体何があるのだろうか。足を踏み出しかけたその時、

「うわあ!? って、なんだ、電話か……」

 かけてきたのは、父さん。

 ナオトは肩を落とした。

「門限、忘れてた……」


 翌日。学校に来たナオトは、まず初めにタクミの姿を追っていた。

 窓側の、一番後ろ。そこで、タクミは頬杖をついていた。

 いつもと違いは、無いようだ……。

「——ねえ、砂川の噂、聞いた?」

 何やら、ナイショバナシが聞こえてきた。

「聞いたぜ。この前の中間、全教科赤点だったんだろ? こりゃ伝説作れるぜ」

 ……どうやら、あまり聞いてはいけない部類の話だったようだ。

 しかし実際、彼は、なんというか……いわゆる馬鹿と揶揄されるような人間であることに間違いはなかった。

 しばらくして、授業が始まる。タクミは、眠たげにあくびをし始めた。

「——今日は、表現規制の歴史についてお話しいたします」

 教壇に立つのは、女教師の長谷部。

「まず初めに、あなた方に知っていただきたのは——表現はクソということです」

 タクミがまたあくびをした。

「表現とは、野蛮で、稚拙で、唾棄すべきものなのです!」

 うっつら、うっつらと、頭が左右に揺れる。すでに限界が近いようだ。

 観察をしていると、いつの間にか授業は本題に突入していた。

「かつて芸術、表現は野放しにされてきました。規制がされるようになったのは、随分後になってからです。——しかし、問題はそこからでした」

 時計の長針が半周する頃には、彼の意識は七割方飛んでいた。

「国家の規制に対し、芸術派は暴動を起こしたのです! この『芸術派暴動事件』を皮切りに、国家と芸術派(やばんじん)の対立は強まっていきます」

 窓から微風が吹いた。

 もはや、タクミの体は微風にも容易く攫われてしまいそうなほどだった。

「長い戦いだった……しかしその果てに、国家は勝利を手にしたのです!」

 長谷部の授業はクライマックスへ。

 タクミの眠気もクライマックスへ。

「戦争文学。こんなものは、軍国主義の助長です。純文学。こんなものは、反社ののたまうエゴの掃き溜めです。芸術とは、無価値な廃棄物も同然なのです!」

 しん、と教室が静まり返った。

「せんせー」

 そこに、一人の生徒の手があがる。

「はい、そこのあなた」

「せんせーはそういうけど、自分はこの前路肩で楽器弾いてた人たち、結構いい人だと思いました」

 すると、長谷部の顔が陰った。

「集団デモ……まさかあなた、集団デモのことを言っているのですか!?

 アアアアアアアァ……! あんなテロも同然の行為を、あなたは肯定するというのですか!?」

 ヒステリックな声が響き渡る。

「良いですか、我々は理性ある生き物です! 節制に勤め、怠惰を排除し、利己主義を否定することこそ真に求められる人間性であり、故にこそ人が抱くべき最大の美徳とは——沈黙なのです」

 一気に捲し立てた。タクミは、机に突っ伏して寝息をたてていた。


 授業が終わると、みんな一斉に教室移動を始めた。ただ一人、彼を除いて。

 肩を叩いて起こす。

「うわぁ!? ごめんなさい!」

 授業中と勘違いしたのか、タクミはしばらくして「あ、終わってるのか」と虚しげにつぶやいた。

 移動を始めようとするのを傍目に、ナオトは仕掛けてみることにした。

「タクミってさ、昨日、M地区にいたよね」

 ピタリ、と動きが止まる。横目で見ると、見るからに動揺していた。

「さ、さあ……どうかな」

「村田ビルにいるとこまでは見てた」

「〜〜〜〜〜〜〜!?」

 ガタン、と椅子から崩れ落ちた。そして、揺れ動く瞳でナオトを見つめる。

「その、お前の家って確か、警察、だったよな」

「うん。そうだね」

 答えると、たちまち彼は頭を抱え込んだ。

「やっちゃった……俺、やっちゃったよ……」

 見るに堪えない焦り様だ。

「タクミ……?」

「む、紫色の壁だ!」

「へ?」

 訳のわからない返答に、一瞬思考が停止する。

「路地裏を入って、三十歩。紫に変色した壁を、絶対に押すなよ! 絶対だぞ!」

 そう言ったが最後、彼はナオトの制止を払いのけて走り去ってしまった。

 一人教室に取り残されて、ナオトはタクミの机からはみ出た科学の教科書に目をやった。

「教科書、忘れてる……」


 結局、タクミのことについては何も分からずじまいだった。

 帰路についてからも思考はそのことだけで、晴れないモヤにあくせくするばかりだった。

 スマホに通知が飛んでくる。

「……ん?」

 差出人は、父。メールの内容は、「こい」と、ただそれだけだった。

 首筋がチリチリした。こういう時は、決まって良くない知らせが舞い込んでくるものだからだ。

 ノックをして書斎に入ると、表情を抜き取ったかのような面の父と、ニヤニヤ笑みを浮かべている兄が待ち構えていた。

 徐に、父が口を開いた。

「ナオト……お前には、反省すべきことがあるはずだ」

 ほら、言ったとおりだ。この面々で、ましてや平和な団欒なんてものはあり得ない。

「はあ……それは、なんでしょうか。心当たりが、ありません……」

 無駄だと思いながら、とぼける。学校の成績も、警察の研修も、指摘される点はいくらでもあった。

「ならば、私が説明してやろう」

 父は引き出しに手を伸ばした。

「——今朝、お前の兄の机から、こんなものが見つかった」

 瞬間、身体中に動揺が走った。

 机に置かれたもの。それは——ミュージックプレイヤー。

「話は聞いたぞ、ナオト。昨日の取り調べで、持たされたらしいな」

「それは、その……確かにそうだけど、訳があって——」

 だめだ。まともに言葉を返せない。脳内を焦燥と混乱が埋め尽くして、保身にすら頭が回らない。

 非難されることはいくらでもあった。でもこれは、その中でも一番論われてはいけないものだった。

「賄賂か……裏で横行しているとは聞き及んでいたが、まさか実の息子が手を染めていたとは、聞きたくなかったものだ」

 冷や汗が、一気に吹き出す。

「こんなに汚らわしいものを持たされて、正義を背負う立場にあるお前は、何も思うところがなかったのか?」

「え、と……だから、これは、そうじゃなくて……」

 何か、何かないのか? 必死に脳みそを働かせる。

「——そうだ! 兄さんです! それは、兄さんの机から見つかったんだから、俺に罪を問われるべきではないでしょう!」

 兄の方を指差す。

 しかし、当の本人は肩をすくめてとぼけて見せた。

「とんだデタラメだ。父さん、こいつはオレに罪をなすりつけて、オレの地位を揺るがそうとしているんです」

 嘘だ。出まかせだ。しかし父は、まるでナオトの声に耳を貸そうとしなかった。

「ふむ、確かに、この賄賂はナオトが受け取ったものだ。ならばこれを兄弟の机に忍ばせ、不義を画策する可能性も捨てきれない」

「あり得ません! そんなこと、俺は絶対にしない……!」

「ならば、証拠は? 明確な証拠を提示することは、できるのか?」

 言葉に詰まる。ナオトは何も言い返すことができなかった。

「しかし、これは困ってしまった。双方に証拠がなく、判断材料に欠ける。しかし、裁かなければならない。こういった時、お前たちは何を判断の基準にすればいいと思う?」

 真っ先に、兄が口を開いた。

「それは、双方の信頼において判断すべきだと思います」

「その通りだ」

 父は深く頷いた。

「ではナオト、一つ聞こう」

「何、ですか……」

「たとえば、お前に二人子供がいたとして、その内の兄は成績優秀で、寄せた期待にも必ず答える。もう一方の弟は、出来損ないで、言われたこともこなせない。お前ならば、このうちのどちらを信用し、どちらに容疑を向ける?」

 ナオトは口をつぐんだ。

「え……いや、でも、そんなの……質問になってない……」

 それは、実質的に結論を語っている様なものだった。

「俺は……俺は——」

「ナオト。あまり、無駄口を叩かないことだ」

 冷酷に、残酷に、突き放すような声で告げられる。

「出来損ないであること。これは、努力次第で変えればいい。罪を犯すこと。これもまた、悔い改めれば許そう。しかし——惨めったらしく非を認めないこと。これは、何よりも唾棄すべき、低劣な行為だ」

 逃れようのない、抗いようのない、非難の応酬に、ナオトが覚えたのは絶望だった。

「もし、私の不快感に触れるようなことを口にしてみろ。その瞬間、私はお前を家族ではなく、生きる価値の無い畜生と見なす」

 ——敗北だ。全ては、敗北に始まっていた。

 神田ナオトという人間は、敗北により信用を失い、敗北により誇りを失い、そして今、敗北により反抗する牙さえも剥ぎ取られようとしているのだと悟った。

「では、もう一度聞こう。お前は、どちらを信用する?」

 直後、室内に訪れたのは静寂だった。

 静寂。そして、沈黙。

 ナオトを突き刺すのは、視線だった。

「人に求められるべき美徳は抗弁ではなく、沈黙だ」

 その視線はナオトの発しようとする言葉のことごとくを否定し、黙することを強要した。

 他人の気に障らぬように、他人の快不快に触れないように。

 沈黙とはつまり、自己の表現を束縛し、黙することを意味するのであった。

「俺、は……」

 もはやナオトに、抵抗する牙など残されていなかった。

「俺は、俺に容疑をかけるべきだと、思います……」

 彼はついに、沈黙することを選択した。

「本当に残念だ、ナオト。どうやら、お前には教育が必要らしい」

 含みのある言葉に、ナオトは身震いした。

 一体、罪を認めてしまった自分は、罰として何を受けるというのだろう?

 想像も絶するような、身の毛もよだつような、そんな自分の未来を想像した時、ナオトは残された選択肢が数少ないことを理解した。

「いや、だ……」

 魔の手が、伸ばされる。

 受容か、抗争か。ナオトが出した結論は——

「いやだ!」

 遁走だった。


 パトカーのサイレンが夜の街にこだまする。

 サーチライトが都会の街を照らし出し、逃げおおせようとする逃走者を追従した。

「クソッ、普通、ここまでやるかよ……!」

 ナオトは悪態をついた。きっと、自分はもう一人の犯罪者として見なされてしまったのだ。

 家からはドアを蹴飛ばして逃げ出した。でも、息をつけたのはほんの一瞬。瞬く間に周囲に包囲網が形成されようとしていた。

 電光の間を縫い、闇の中を走り抜ける。

 走り続けた。ただ駆けて、駆けて、駆け抜けた。無我夢中で、我も忘れて。

 やがて息がきれると、ナオトは足を止めた。

「ここ……M地区か……」

 逃走の果てにたどり着いたのは、奇しくも昨日足を運んだのと同じ場所だった。

 サイレンが遠くから聞こえてくる。まだ、逃走は終わっていない。警察が持つ圧倒的追跡力を、軽く見てはいけない。

 今にも悲鳴を上げてしまいそうな足を無理やり動かして、人気の無い方角へと向かった。

 閑散としたビル街。直上に旧村田ビルが見える。

 背後から足音が聞こえた。追従者の足音だ。残された逃げ道は僅か少し。これでは、見つかるのも時間の問題だろう。

「——こっちから音がしたぞ!」

「追え! 追うんだ!」

 咄嗟に路地裏の影に姿を隠した。

「……っ、ハア……」

 どうにかやり過ごせたらしい。足音が直ぐ横を通り過ぎていった。

 ——ここ、昨日のところか……。

 やはり、奥まで闇が続いている。しかし、今の自分にとってこの闇は都合が良かった。

「行くしかないか……」

 追手とは逆方向に足を進める。雑多な障害物が足元に絡みついて、とても動きずらい。

「うわ——っ!?」

 転んだ。咄嗟に壁に手をつくと、スルッと手応えが遠のいていった。

 手をついたのは、紫色の壁。振り返れば、およそ三十メートルほど先に、入り口が見えた。

 それはまるで、取手を外された扉の様だった。立ち尽くすナオトを誘うかのように、錆びたを音を立てている。

「こっちに道があるぞ!」

 入口の方から、声がした。

 きっと自分は覚悟を決めなければならないのだと、目前の扉に手を伸ばした。


 ——一体、どれくらい進んだ?

 あれから、入り組んだ道を右へ左へと歩き続けた。道は狭く、閉鎖的な空間に段々と呼吸が苦しくなるような感覚に陥った。

 一抹の不安が胸の片隅に浮かんできた頃、ナオトは足を止めた。そして、壁に耳を当てる。

「何かが、聞こえる……」

 壁を伝って振動が伝播してくるのが分かった。

 一定のリズムで、地を揺らすような音が、聞こえてくる。

 不気味で、不穏で、それでも進み続けていくと、やがて向こう側に光が見えた。きっと、出口に違いない。

 息を呑んで、拳を握りしめた。

「……行こう」

 闇と光の境目を潜り抜けると、再びナオトは足を止めた。

 眩い光に目を細めて、吹き抜ける風に後退りして、そうしてその光景を目にしようとした時——衝撃が身体を突き抜けていった。

「——っ!」

 耳を吹き抜けていったのは、シンバルの音色。鋭いスネアと、しなやかなギターが溶け合って、ベースライン上を共鳴する。

 取り巻くのは無数の人々だった。

 彼らは歓声を上げた。その旋律に、その調べに、喝采を以て興奮を曝け出した。

 そこにあるのは、騒然だった。

「なんなんだ……一体、ここは……」

 吹き抜けの空間で、音楽は鳴り続ける。

 反乱者の吹き溜まり。言うなれば、そんなところだった。

 そしてナオトを何よりも驚愕させたのは、視界の向こうにいるサングラスの男だった。

「田代雄一……!」

 警察が追跡していた重要人の姿が、そこにあった。

 瞬間、脳内を駆け抜ける思考の数々。

 ——犯罪者、手柄、功績、そして、正義感。気づけば、腰元に装備しているテーザーガンに手が触れていた。

「——動くな!!」

 声を張り上げる。途端に音楽は止まり、歓声はなりを潜めた。

 それから、ざわめきが伝播する。

「け、警察だ! 法令に基づき、逮捕権を行使する! 抵抗をやめて、手を上げろ!」

 彼らはざわめいた。しかし、それだけだった。なぜなら、そこにいたのは、彼ただ一人のみだったから。

 汗を垂れ流すナオトの前に、影が落ちた。ナオトを囲んだのは、筋骨隆々の男たちだった。

「なんだい、警察っていうのは、アンタ一人かい」

 睨まれた。たったそれだけで、体がすくみあがる。

 裏社会の、ヤのつく自由業の人。そんな類の人物を前に、ナオトが萎縮しないわけがなかった。

「て、抵抗するなと言ったはずだ!」

 銃を突きつけたが、まるで意味をなしていないようだった。

「じゃあ、撃ってみろよ。そいつで、俺の頭を」

 銃口が、男の額に触れた。それでも、引き金が引かれることはなかった。

 男はナオトの胸ぐらを掴んだ。

「ひぇ!?」

「なんだ、ただの腰抜けか……」

 ついに、ナオトはフルフルと頭を振った。せめて命だけはと、泣きつく他になかった。

 もはや運命は潰えたか。そう思ったその瞬間、不意に男の手が緩んだ。

「——急に演奏が止まったと思ったら、何か事件?」

 懐かしさを感じる声だった。それで、声の元をたどって、ナオトは目を見開いた。

「ボス! すみません、ネズミが紛れ込んでいたようです!」

 見た目はすっかり変わってて、声もどこか大人びてて、それでも、変わらない飄々とした佇まいは、間違いなく彼女だった。

「へえ、珍しい。ちょっと見せてよ——」

 目が合う。果たして彼女もまた、ナオトの姿を瞳に捉えて、目を丸くした。

 しばらくの沈黙。それを先に破ったのは、彼女の方だった。

「……ナオト」

 名前を呼ばれて、我に返る。

「ナオトだよね……!」

 そこにいたのは、かつての家族。かつて独りだった自分のそばにいてくれた人。

「——ハル姉……」

 神田遥香、その人だった。


 それからナオトは、地下空間にある部屋の一室に通された。

 久しぶりに見た姉は、やっぱり綺麗で、気高いくらいに、品格に満ちていた。

 口から言葉が、止まらなかった。伝えたいことが、いっぱいあったから。

 彼女が行方不明になった時のこと。その後自分が警察の仕事を継ぐと決められたこと。そして、罪の容疑を被せられたことも、全部話した。

「——それで、俺は、逃げ出してきたんだ……」

 話している間も、ハル姉は頷きながら親身に聞いてくれた。それが嬉しくて、ますます言葉が止まらなくなりそうだった。

 でも、分からなかった。

「——でも、姉さん」

 ナオトは途端に語気を弱くして、目を逸らした。

「姉さんは、どうしてこんなところにいるの……」

 傍から見れば、なんの変哲もないビル街。しかしその最奥に隠されていたのは、律令に反抗する暴徒の溜まり場だった。

 ましてや自分の実の姉が、こんな場所に身を置いているとは想像すらしなかった。

 彼女は、間も無くポツポツと語り始めた。

「……ここは、みんなから芸術街って呼ばれてる」

「芸術街……?」

「何十年も前に表現禁止令が発令してから、反対派の人たちは一箇所に集まって、コミュニティを作り上げた。それが、芸術街。そして私が、その取締役を任されてる」

 まるで、何も後ろめたいことなんてないみたいな口調で、ハル姉はそう言った。

「分からないよ。姉さん、そこが分からないんだ」

 どうしてそんなことをしているのか、何故大罪も同義のことに手を染めているのか、体を乗り出して問い詰めた。

「どうして、か……うん、こう言うのがいいかな」

 どこか言葉を選ぶようなそぶりを見せると、言葉を続けた。

「それは、私がそうしたいと思ったからだよ」

 ナオトは、喉元まで出かかった言葉を、口にできないまま飲み込んだ。

 彼女の答えは、脅されているとか、仕方ない理由があるとか、そんな希望を容易く打ち破るものだった。

「姉さん……自首をしよう」

 今ならまだ、自首をすれば減刑を望めるかもしれない。それでも、集団犯罪を主導していたとなれば、罰は重くなるだろうけど。

「ここのことも、告発しよう。厳罰は免れないだろうけど、できるだけ、俺が話をつけてみる」

 しかし、ハル姉は頭を振った。

「じ、じゃあ、俺が——」

「告発、できるの?」

 言葉を遮られて、ナオトは口を止めた。

「話を聞くに、君は今、相当な窮地に立たされているみたいだけど」

 鋭い指摘に、たちまちナオトの目線が宙を泳ぎ始める。

「もし私たちのことを訴えられたとして、牢獄行きになるのは君も一緒じゃない?」

「ぐ、ぬぬ……」

 何も、言い返せない。

「あー、そういえば父さん、あれで冷静そうに見えるけど、一度カッカすると止まらないからなー。もし今捕まったら、小指の一本くらいなくなっちゃうかも」

 それは一体、どこのヤの者なんだ。でも言ってることは何も間違ってない……!

 そうだ、自分は今他人がどうこうとか、気にしていられるような状態じゃないんだった。

 汗を垂れ流していると、ハル姉が小さく微笑むのが見えた。

「ここなら、ナオトを匿えるよ」

「え……?」

「芸術街は、ずっと警察の目を避け続けてきた。ここなら、ほとぼりが冷めるまで君のことを隠していられる」

 なんて、なんて魅力的な提案なのだろう。垂涎物とはまさにこのことだ。

 脳内で繰り広げられる天使と悪魔の大戦は、始まるよりも先に決着していたも同然だった。

「その、参りました……」

 きっと、弟は姉に勝てない。それは世界が始まるより前から決まっていたことなんだ。

「それでいいんだよ、我が弟よ」

 ハル姉の自慢げな顔は、七年経っても変わらないままだった。

「——でも、一つだけ条件がある」

 彼女は人差し指を突き出して、ナオトの方を指した。

「条、件……?」

「何も、私たちだってタダ働きで人を住まわせるわけには行かない。だから、ナオトには働いてもらわないといけないの」

 ハル姉は片目を閉じて、こう続けた。

「ナオトには、アルバイトをしてもらいます」


 ナオトは手を引かれるままに、芸術街へと足を踏み入れた。

「あそこにあるのが、ここ一番の絵画店。あっちは西洋舞踊研究室で、中央広場にあるのが楽器屋だよ」

 どこかレトロで、エキゾチックな雰囲気の街並みに、ナオトは奇妙な感覚を覚えた。

 大都会の裏に、こんな場所があったなんて……。

「そしてここが、我らのライブハウス」

 こじんまりとした、豆腐型の建物だった。黒塗りの壁面は少し掠れて、その前には控えめにプラントが飾られている。

「今日からしばらく、ナオトにはここの人と働いてもらうから、紹介するよ」

 ハル姉はご機嫌そうにステップを踏みながら、中へと入っていった。

 ——正直、まだ分からないことはいくつもある。

 ハル姉が、どうしてボスなんてやっているのか、そして、どのようにして彼女を説得するのか。

 しかし、これも致し方ない。結局、ここから出たら、芸術街のことは告発する他にない。姉のこともだ。

 それまでは、この立場に甘んじてやるのもやぶさかではない。

 つまり——潜入調査だ。

 さて、鬼が出るか蛇が出るか、ドアを開け放った。

 中にいたのは、一人の少女と、一人の青年だった。

「二人とも、アルバイトを連れてきたよ!」

 ハル姉は彼らの元へ駆け寄っていった。

「またですか? ボス」

 真っ先に振り返ったのは、少女の方だった。

「ナオト、紹介するよ! この子は岸波ナツ。うちの優秀なベーシストだよ」

 会釈をされた。一体どう反応すればいいか分からなかった。

「それから、こっちがドラマーの——」

「うわあああ!?」

 上がったのは悲鳴だった。

「け、ケイサツ……!」

 指を指してくるそいつは、見覚えがあった。

 そう、クラスメイトのタクミの姿がそこにあった。

「その、タクミ、一旦落ち着いてくれ……」

 無害を主張しても、あまり効果はなかったようだ。

「タクミ、バカな真似はやめてください。大切なバイトさんですよ」

 少女に首根っこを掴まれて、タクミは項垂れた。

「でも、でもよぉ」

「文句言わないでください」

 なんだか、二人の間にある上下関係が垣間見えた気がした。

「うん、どうやら仲良くできそうだね」

 どこを見てそう思ったのだろうか。

「それじゃ、私は行かないといけないから! あとはよろしくねー」

「え、ちょっと、待——」

 引き止めるよりも前に、ハル姉は行ってしまった。一人取り残されたナオトは、呆然と立ち尽くした。

「可哀想に……あの人に振り回されて、こんなところに連れてこられたんですね」

 気がつくと、少女は呆れ顔で横に立っていた。

「私のことは、ナツって呼んでください。アナタは?」

「俺は……ナオトだ」

 岸波ナツ。そう名乗った少女は、何だか手慣れた様子だった。もっと、非常識なヤツが出てくるんじゃないかと身構えていたから、そのせいで余計に困惑した。

「ナオトですね。ほら、タクミも挨拶してください」

 いまだに首根っこを掴まれていたタクミは、借りてきた猫のように縮こまったまま目を逸らした。

「その、ナオト……よろしくな」

 あまりよろしくしたくなさそうな顔だった。

 

「いいですか、私たちの仕事は、この街の充実を補助することです」

「充実を、補助……?」

 街に出て早々、ナオトを待ち受けていたのは仕事のチュートリアルだった。

「はい。要は、困っている人を助けるってことです」

 慈善活動、みたいな物だろうか。しかし、なぜそんなことを?

「まあ、疑問に思いますよね」

 どうやら表情に出ていたらしい。

「単純な話ですよ。我がライブハウスは経営難に陥っているんです。そのため、資金を集めないとならないんです」

 思いの外親近感の湧くような理由だった。

「それって、その、俺みたいな余所者がいてもいいのか?」

「ボスがよく分からない人をバイトに連れてくるのは、いつものことですから。問題ないと思います」

 ハル姉、そんなことをしてたのか。

「——それで、一件目は、ここです」

 ちょっと古びた感じの、一軒家だった。軒下に、『タジマ絵画店』と書かれている。

 正直気は乗らないが、条件を呑んでしまった以上、仕方がない。

 中に入ると、ほのかにフェノール臭が鼻腔をついた。

「田島さん、失礼します」

 すると奥の方から、柔らかな声が聞こえた。

「いやあ、すまないね。来てもらっちゃって」

 出てきたのは、髪の毛を爆発させた突飛な輩の男だった。

「——いつもの、任せちゃっていいかな」

 恐る恐る、誘われるがままについていくと、こじんまりとした一室に連れてこられた。

 室内には、絵の具が乱雑に山積みにされている。

「では、始めますか」

 それらを見るや否や、ナツとタクミは寸分の迷いもなく絵の具の山に手をつけ始めた。

「ナオトには、絵の具の分別をやってもらいます。こうやって、色ごとに分類してください」

 瓶型の絵の具が、みるみるうちに整理されていく。

 しかし、ナオトは絵の具を手にしたまま固まっていた。

「ナオト、大丈夫ですか?」

「ああ、いや、大丈夫だ……」

 慌てて、絵の具を台に置く。

「そっちは、赤ですけど」

 ナツが首を傾げた。

「その、間違えただけだ……」

「そっちは黄色です」

 ついに、ナオトは汗を垂れ流して、動揺を露わにした。

「ナオト、もしかして……」

「——色盲ってやつか!」

 結論を口にしたのは、タクミだった。

 ナオトは黙って、首を縦に振った。

 色盲。または、色覚異常。色を通常通りに捉えられない、異常体質。まさしくナオトはそれを患っていた。

「……タクミ、色盲は表現としてあまり良い言い方ではありません」

 仕方がない、と嘆息と共にナツは頭を振った。

「しかし、なるほど。これは私の配慮が足りていませんでした」

「いや、こっちこそ……」

 申し訳なさと、後ろめたさが、胸のうちに湧き上がってくる。昔からそうだ。自分は色を見分けることすらできないで、誰の役にも立てない無能だった。

 そのせいで、何度他人の神経を逆撫でしたか分からない。

「良いんですよ。気に病むことではありません」

 ナツは意にも介せず、棘のない言葉で応えた。

「そ、そうだぜ! 警察を呼ばれちゃ困るけど、それとこれとは別だ!」

「タクミはいいかげんそのことから離れてください」

 ——優しさ、というやつなのだろうか。

 しばらく感じたことのなかった感覚に、ナオトは自分の意思の揺らぎを覚えた。

 

「田島さん、全部終わりました」

 部屋を出ると、待ち受けていたのは感謝の嵐だった。

「ありがとう! 本っ当に、ありがとう! いや、物の整理にずっと手こずっててね——」

 ボサボサの髪が、掻かれるたびに揺れ動く。

「そうだ、久しぶりに、描いていかない?」

 流れが変わったのは、そんな提案をされてからだった。

 

「これは……」

 一枚の画用紙と、一輪の花。それから、一本の筆。

「写生ってやつですよ。ナオトもやってみてください。案外楽しいですから」

「写生……」

 ゴクリと生唾を飲み込む。本当に、これはやらなければならないことなのだろうか。

 まるで、踏み絵でもさせられているかのような感覚に陥る。

 いやしかし、この流れで拒否するというわけにはいくまい。

 恐る恐る、筆を手に取った。

 ——ゆっくりと、筆先で描く。まるで、頭の片隅にあったイメージが、体を伝って映し出されていくような、珍妙な感覚だ。

 しばらくして、筆を置くと、完成した絵をタクミがじっと見つめていた。

「ど、どうした……?」

「ナオトの絵……良いな」

 とんできたのは、想定外の賞賛だった。

「俺、コイツ、気に入ったぞ!」

 不格好で、どこか色調のズレた絵を、タクミはやけに嬉しそうに掲げた。

 分からなかった。自分の作ったものの、何が良いのか。でも、彼には少なくとも何か良いものが見えているらしい。

「分からないな……」

 理解できなかった。

 彼が見えているものと、自分が見えているものとの違いに、何を感じれば良いのか、分からなかった。


 それから、ナオトのアルバイト生活は緩やかに進んだ。

 大抵は何かの手伝いで、たまにゴミ拾いなんかもやらされた。面倒だけど、しばらくすると慣れた。

 無論、潜入調査は依然続行中だ。今は、この地下街の弱点を考察しているところである。

「今日は、草刈りをしてもらいます」

 そんなこともあり、突拍子もなくそんなことを言われても、さほど驚きはしなかった。

 柵に、蔦が絡み合っている。ひどく乱雑とした光景だった。

 しばらくすると、嗄れた声と共に、老婆が姿を見せた。

「迷惑をかけますね」

 ナツとタクミは、いつものように断りを入れると、庭の中へと入っていく。

 庭には、幾つもの生花が置かれている。

 しかし、当の蔦が生い茂っているせいで、景観は良いものとは言い難かった。

「……っ、ふう」

 草を刈り続けていると、じんわりと汗が滲んでくる。

 葉を切っては、根を断つ。その繰り返し。こんな単純作業は、嫌いじゃなかった。

「——よし、こんなところでいいでしょう」

 やがて、柵を侵食していた蔦は全て取り払われた。残骸の山が、地面に大きく盛り上がっている。

「私とタクミはゴミ捨てをしてくるので、ナオトは報告をお願いします」

 これも、いつもの流れだった。

 二人が去っていくのを見て向き直ると、縁側に老婆が座っているのが見えた。

「あの——」

「ご苦労様です。おかげさまで、お庭が綺麗になりました」

 どうやら、報告は要らなかったらしい。

 老婆はこちらを見て、それから縁側に目を向けた。座れ、ということだろうか。

 一抹の気まずさに煽られながら座ると、徐に老婆は口を開いた。

「貴方、とてもお若いですね」

「はあ、まあ、そうですね」

 少なくとも、彼女からしてみれば若造だろう。

「私にも、若い時代はありましたが、随分と歳を重ねてしまったものです。その分、背負う物も多くなりました」

 ナオトは目線を落としたまま、彼女の言葉に耳を傾けた。

「貴方に、大切な人はいますか?」

「それは……いないことも、ない、ですけど……」

「私には、大切な人が居ました。もう居ませんが、ちょうど貴方と同じくらいの、可愛い一人息子だったのを覚えています」

 どう反応したらいいのか、分からなかった。余計なことを言ったら、もっと気まずくなってしまう気がしたから。

「この花が、何の花が分かりますか?」

「テンジクボタンですか?」

「まあ、よくご存知ですね」

 老婆が抱える花束を見て、答えた。

「テンジクボタンは、私が一番好きな花です。何せ、息子が贈ってくれた唯一の花ですから」

 綺麗な花束だった。多分、彼女はこの花を、何よりも丹精を込めて育て上げたのだと思った。

「あの子にとっては気まぐれでも、私にとっては一生の宝物です」

「だから、花束を?」

「ええ、好きなものは、できるだけ綺麗に飾りつけるのが正道でしょう?」

 なんだか、気持ちが分かる気がした。

「しかし、私がこの花を庭に飾りつけたとき、隣人が示したのは、非難と苦情でした」

「それは……」

「これが、着飾っているように見えたのでしょうね」

 老婆が言ったことは、想像に容易かった。

「今の時代、最も尊重されるのは、節制とか、倹約とか、そういう物ばかりですから」

「そうですね……」

 きっと、非難を受け続けて、彼女が最終的に辿り着いたのが、ここだったのだろう。

「私は、正道を踏み外しているのでしょうね」

「そう、ですね……」

 そうだ。彼女が加担しているのは、間違いなく法に背くことだ。

「でも、それでは納得できないのです」

 老婆は、花束を胸に抱いた。

「私は、好きなものを、好きだと言いたいのです」

 それは、心からの抱擁だった。

「ただ、それだけなのです」

 ナオトは、俯いたままで、彼女と目を合わせることができなかった。

「……老人の無駄話に付き合わせちゃって、ごめんなさいね」

「いえ……お気になさらず」

 最後まで、ナオトが目を合わせようとすることはなかった。


「告発、か……」

 広場のベンチに腰掛けて、小さくつぶやいた。

 告発をしてしまったら、ここで日常を享受している人々の生活は、奪われてしまうのだろうか。

 きっと、奪われてしまうのだろう。

 そう思い至った時、ナオトの思考に生まれたのは、何かが違うという違和感だった。

 自分の中核にあった常識が、まやかしであるとすら思えた。

 そうして、しばらく茹だるような思考の波に飲まれていると、ナツとタクミがやってくるのが見えた。

「お待たせしました。報告は無事済んだみたいですね」

 とりあえず、頷いておく。

「よーし、それじゃ、今日の仕事は終わりだな!」

 肩の荷が降りたような様子のタクミに、ナツが制止を入れた。

「いや、まだ一つ残っています。ボスから、ナオトへの仕事です」

 姉さんから、だと?

 何故直接じゃなくて、わざわざ経由する必要があったのか。甚だ疑問ではあったが、そこは甘んじて受け入れるとする。

「ナオトには、私たちの、最後のバンドメンバーに会っていただきます」


 空はやっぱり、灰色だった。

 ——高い。ビルの中層に位置する昇降機。都心のランドマークの上に立っているのだと気づいた時、ものいえぬ感動を覚えた。

 しかし、直後にその先にいる人物を視界に収めて、その感動はかき消された。

「田代……」

 その人もまた、こちらに気づくと、気さくに手を上げてきた。

「ナオト、この人が——」

「オレこそが、紹介に預かった、田代雄一だ」

 なんなんだ、この偉そうな輩は。

 写真で見た冷静そうな容貌とは一転、ナルシストの権化みたな奴が出てきた。

「田代財閥の後継にして、この芸術街の所有者、そして、最高のギタリストとは、オレのことだ」

 真顔で言い切った。

「じゃあ、紹介しましたね。ナオト、行きましょう」

「ああ……行くか」

 踵を返すと、

「ちょ、ちょっと待ってくれ!?」

 田代が正面に回り込んできた。

「これから、一番大事なところだろう!」

 これから?

「——つまり、この昇降機についてだ」

 田代は、昇降機から見える景色を指さした。

「ここは、随分と目立つだろう。こいつを手に入れるのに、随分資金をかけたもんだ」

 それは、ランドマークなんて言われるくらいなんだから、そうだろう。

「それに、この造形、まるでステージのようだと思わないか?」

「ステージ?」

「つまり、ここで音楽をかき鳴らせば、大勢の目に留まるってことさ」

 まさか。脳裏をよぎった想像に、ナオトは訝しむような目を向けた。

「集団デモ……」

 ザッツライト、と田代は指を鳴らした。

「今までやってきたような、こじんまりした集団デモでは、同志たちに俺たちの存在を示すのが難しかった。しかし、ここまで大規模なものなら、話は別ってワケよ」

 辺りをよく見ると、無数の楽器が積まれていた。

 ギターに始まり、ドラムも、ベースも。それで、田代の言っていることが冗談でないことは分かった。

 だが、そんなの、それこそ、荒唐無稽だ。

 それでも、田代はまるで動じるそぶりを見せなかった。

「これは、オレたちの悲願だ。そのことを、ボスはお前に知って欲しかったのだろう」

 そんなの、自分に話したところで何になるというのか。

 やっぱり、ナオトには分からなかった。

「姉さんは、なんでここのボスなんてやってるんだ……」

「——それは、オレが彼女に頼み込んだからさ」

 田代は自分を指さした。

「彼女は、人の裏面を理解する力に長けている。それは、決してオレにはできないことだ」

「じゃあ、姉さんは望んでそうしてるっていうのか?」

「きっと、そう思ってもらえてるって、オレは思ってるぜ」

 田代は、確信を持っているかのようにそう言った。


 ——また、学校でいじめられたの?

 姉さんは、いつもたった一人の味方だった。

 泣きじゃくる俺を、彼女は手を引いて連れ出してくれた。

「これは、内緒だからね」

 ある日、姉さんは誰も居ない倉庫に俺を連れ込んで、あるものを持ち出してきた。

 それは、六つの弦が張られた楽器。ギターだった。

「それ、ダメなヤツじゃ……」

「しっ、ダメなんて言ったら、本当にダメになっちゃうじゃない」

 姉さんが言うには、それは大人のルートから取り入れた、超レア物だった。

「いい? 今日は、私が、ナオトのためにこれを弾いてあげるから」

 そうして、彼女は不格好にも弦を鳴らして、下手くそな歌を口ずさんだ。

 ——嬉しかった。不格好でも、下手くそな歌でも。なんだか楽しくて、嫌なことも忘れて、気づけば彼女の弾く曲が好きになっていた。

 それからしばらくして、また彼女は、俺を倉庫に連れ込んだ。

 今度は、もっと自慢げな顔をして。

「ナオトには、これをあげます」

 姉さんが見せてきたのは、もう一つのギターだった。

 戸惑う俺に、姉さんはこう言った。

「一緒に、弾こうよ」

 やけに嬉しそうに、それでいて、期待するように、姉さんはそれを渡してきた。

 そして俺は、それを受け取った。それが、絶望の種になるとも知らずに。

 ——姉さんからもらった大切なギターは、地面に叩きつけられ、粉々に砕け散った。

「これは、なんだ。説明してみろ」

 父さんは、罪を犯した俺たちを、ただ冷酷に見下していた。

 見つかった。全部バレた。それで、終わりだ。

「私は、アナタを侮蔑するよ」

 姉さんは、父さんにそう告げて、それ以来何も話そうとしなかった。

 やがて彼女は、父からも、俺の前からも姿を消した。そこで俺は、真の絶望というものを思い知った。

 全ては、いずれ無に帰る。あがこうが、抗おうが、最後には敗北によって、全て奪われるのだ。


「分からないんだ」

 どうして、彼らは表現を止めようとしないのか。

 不意に立ち止まったナオトに、ナツは振り向いた。

「どうかしましたか?」

「……いや、なんでもない」

 ライブハウスの正面を、じっと眺める。

「このプラント、ボスが集めてるんですよ」

 徐に、ナツがプラントの花弁に触れた。

「ナオトには、この花は何色に見えますか?」

「それは、赤だけど」

「……ナオトには、そう見えているんですね」

 ナオトは、再び不安な気分に陥った。

「やっぱり、俺は間違ってるのか?」

 しかし、ナツは頭を振った。

「じゃあ、同じに見えてるのか?」

 と、そう聞くと、またも彼女は頭を振った。

 掴みどころがない。堂々巡りだ。これ以上、何を聞いても仕方がないと思った。

「ナツは、どうして表現を止めないんだ……?」

 一瞬、沈黙が流れた。しかし、まもなく彼女は言葉を重ねた。

「……私は、ナオトに何が見えているか分かりません。私がそれを知るすべはただ一つ、ナオトに教えてもらうことのみです」

 当然のようで、当たり前のようで、しかし、その言葉には何か深く核心をつくような鋭さがあった。

「たとえば、タクミはバカなことばかり言ってますけど、彼にしか見えない世界を持っているんです。それは、私も、ナオトも同じです」

 きっと、それが他人が私でないことの証明なのだ。

 そう言われると、その通りであるような気がした。

「タクミの表現は、彼が彼である印です。私の表現は、私が私である印です。ならば、きっとアナタの表現は、アナタがアナタである印なんです」

「……」

「間違ってるとか、不快とか、ましてや背徳感でもありません。ただ、その人にしか分かり得ない世界を知り合えるって——とてもステキなことだと思うんです」

 ナツは、瞳を輝かせて、どこか自慢をするようにそう言った。

 それが、彼女が表現を止めない理由なのだろうか。姉さんが、そうしたいと思った理由なのだろうか。

 だとしたら、自分が見ていた世界は、いかに狭かったのだろう。

 困惑と羞恥が混ざり合って、ナオトは黙りこくった。

 そんな自分を見て、ナツはフッと笑った。

「せっかくですから、一緒に写真を撮りましょう」

「……え?」

「我がバンドのモットーは、思い出を大事に、ですから。仲良くしてくれる人には、最後まで楽しんでもらえるようにしてるんです」

 なるほど、業務以外で写真なんてしばらく撮っていなかったから、新鮮な感覚がした。

 自分を苛む奇妙な恥ずかしさから逃れたかったものだから、彼女の提案はありがたかった。

 しかし、スマートフォンを取り出したところで、ナオトは顔を顰めた。

「そうだ、電源を切ってたんだ……」

 電源をつけたままだと、位置追跡機能で場所が割れてしまうから。

 仕方がないと、端末を仕舞おうとしたところで、液晶に光が灯った。

「——は?」

 電源が強制起動され、同時に嵐のような不在着信の通知が流れ込んでくる。

 『見ているぞ』最後に表示されたメッセージが、無機質に目に映り込んだ。

「……え?」

「ナオト……?」

 サッと、血の気が引いていくのを感じた。


「——突入命令だ! 突入しろ!」

 ドア蹴破る音。防護服を完全装備した自衛隊が、侵攻を開始する合図だった。

 たちまち鳴り響く悲鳴。阿鼻叫喚の地獄が作り出される。

 神田宗一郎は、それを遠目に眺めていた。

「……父さん、一体ナオトに、どれだけの仕掛けを仕込んでるの?」

 宗一郎は、静かに目を細めた。

「携帯端末の強制起動システム。それから、小型GPS発信機も複数持たせている。決して、抜かりはない」

「ハハッ、それはちょっと、厳重だね……」

 引かれているのも知らずに、宗一郎は鼻を鳴らした。

「しかし、泳がせていたら、随分と大物がかかったものだ」

 都市に身を潜める芸術街。その全貌を、ついに手中に収めた。

 反抗はもはや意味をなさない。全て、残党一人残らず捕縛する。容赦は無用だった。


「ボス、マズイことになった」

 田代は、どよめく芸術街を背に、そう告げた。

「——ハル姉!」

 息を切らして、ナオトとナツ、タクミは一室に集結した。

「ごめん、ハル姉! 全部、俺のせいなんだ……携帯が、急に起動したせいで……!」

「ずいぶんな焦りようじゃない。ナオトは、もとより告発するつもりじゃなかった?」

 口角を上げる姉に、ナオトは言葉を詰まらせた。

 それを見て、ハル姉はますます嬉しそうに笑ってみせた。

「ボス、あまり余裕をこいてる時間は無いぜ」

「うん、わかってる。ここの住民の避難は、任せてもいいかな?」

 田代は大きく頷いた。

「無論さ。だが——」

 彼は続けてこう言った。

「分かってると思うが、ここを手放せば、集団デモの計画は全部頓挫することになる」

 芸術街を手放せば、必然的に村田ビルも手放すことになる。そうなれば、日の当たるところで公演できる日は、大きく遠のくことは必然だった。

「いいや、私は演奏するよ」

「は? 一体、何を——」

「今から、昇降機に向かう。それで、公演もやり切る」

 ハル姉は、まっすぐ前を見つめてそう言った。

「本気か」

「きっと、この都市には、自分の表現を押し込めている子がたくさんいる。なら、私たちが存在を示さずに、誰が示すっていうの?」

 彼女は立ち上がって、大きく息を吸い込んだ。

「雨天決行で上等。もとより、この計画は抑止不可能だよ」

 しばらくして、田代が息を吐いた。

「……分かった。ボスの意思に従おう。避難と、警察の足止めは任せてくれ」

「よし! じゃあ、決まりだね」

 そう言った時の彼女は、今までに見たこともないくらいの輝きを瞳に灯していた。


 ——走る。一刻も早く、計画を成し遂げるために。

 階段を二段飛ばしで駆け抜けて、もどかしいくらいの時間が過ぎると、ようやく風が吹き抜ける階層にたどり着いた。

「——さて、準備はできた?」

 ハル姉は振り返って、三人を見た。

「ボス、今更言うのもなんですが……」

 ナツは徐に、ポツリとつぶやいた。

「ウチのギタリストが不在です」

「あ、確かにそうじゃん!」

 タクミも思い出した様子で手を叩いた。

 しかし、ハル姉はまるで動じないで、それどころかニヤリとした笑みを浮かべて見せた。

「ギターを弾いてくれる人なら、ここにいるよ」

「ここ、ですか?」

「——そう、すぐ、そこにね」

 そうして彼女は、ナオトを指さした。

「お、俺……?」

 驚愕が、脳内を埋め尽くす。

 全く、そんな可能性なんて考えになかったわけで、その驚きはダイレクトにナオトに直撃してきた。

「——ずっと、君に会ったら渡したいと思ってたんだ」

 それを見て、ナオトは奇妙な懐古を覚えた。

 それは、大口を開けた六弦の怪物。

 体は光沢がかかり、曲線を描いた体躯の中心を、まっすぐな糸が張り詰める。

 奏でる欲望を、掻き鳴らす本能を、遥か昔から繋ぎ続け今の形へと成る。

 いつか、彼女がくれたものと、全く同じギターが、そこにはあった。

「あれからずっと、もう一度一緒にって思ってた」

 まだ、何を言えば良いかわからないナオトに、やっぱり彼女はこう言った。

「一緒に、弾こうよ」

 やけに嬉しそうに、それでいて、期待するように、姉さんはそれを渡してきた。

 懐かしい感覚が、手にスッと馴染む。何度も指に触れたヘッドに、何度もかき鳴らした弦に、記憶が歓喜の声を上げた。

「……姉さん、でも、俺」

「——行こう」

 後ろ向きの言葉を吐くよりも先に、彼女は手を引いた。

 瞬間、風が吹き上がる。肌の表面を、蒼い風が撫ぜていった。

 直後、直下に都会の街並みが広がった。人々がこちらを見上げ、視線を向けてくる。

 パトカーが並んで、サイレンが街中に鳴り渡っていた。

「ナオト、覚えてる?」

 ——覚えてる。あの日弾いた曲のことを。忘れるわけがない。あの感覚を。

 でも、大切な一つが、ナオトには足りなかった。

 足がすくみあがる。他人の視線に晒されているという事実に、際限のない恐怖が湧き出てくる。

 彼らはナオトに、まるで異物を見るような目向けた。

 その視線は、ナオトが鳴らそうとする音のことごとくを否定し、沈黙を強要した。

 冷めた静けさが、敗北を想起させた。

 ただ、その静けさに——つの音が混ざった。

 鋭い、スネアの音だ。タクミはドラムスティックを振り上げ、何もなかったはずの空間に、リズムを作り出した。

 そして、そこに低音のベースが音を乗せる。

 軽快に、愉快に、ナツの指先から、ベースラインが奏でられた。

 シンバルの音が、メロディ上を周回するストリングの響きが、小節の間を巡り循環する。

「じゃあ、ナオト、お先に行かせてもらうよ」

 ハル姉が最後にそう言い残すと、アンプ越しに、弦の揺れる音が鳴り渡った。

 そのギターの音色は、懐かしくて、焦がれるほどに優しかった。

 ……待っている。みんなが、自分の番を待っている。

 沈黙はまだ、脳裏にこびりついて離れない。

 でも、ほんの少しだけ、ここに音を乗せたい。そう思えたのは、彼女等の思いの丈が、理解できた気がしたから。

 ピックを空に掲げて、ナオトは顔を上げた。

 息を吸う。目を瞑る。あとはもう、鳴らすだけ。

 沈黙が縋り付く。敗北の予感が囁く。でも、その全てを置き去りにして——

「俺は、自由になる」

 ——今、沈黙を掻き消した。

 瞬間、脳髄を揺らす衝撃。神経の端まで震える血流。

 汗が垂れて、粒となる。時が止まり、静止する。

 掻き鳴らす衝動が、叫ぼうとする本能が、弦を唸らせ、咆哮となった。

 その時ナオトが感じたのは、快感だった。感覚がなくなってしまうほどの、痺れだった。

 自分が何者なのか、分からなくなるくらい、後のことなんて、考えたくなくなるくらい、没頭に身を投げる。

 鼓動がうるさい。心臓が高鳴って、痛いくらいに鼓膜を揺らす。それでも、ここに音を乗せていたい。

 腕がもつれる。音がズレる。でも、そんなのは関係ない。

 奏でる、鳴らす、響かせる。

 沈黙を切り裂いて、静寂をつんざいて。魂の哮りは、街中に伝播した。

 まだ足りない。まだ吐き出しきれない。貪欲に、強欲に、ただ声を上げた。

 もっと大きく、もっと高く、もっと扇情的に。

 音を合わせる。音を重ねる。表現と表現が混ざり合わせる。

 全能感すら感じてしまうほどの魅惑に、ナオトは今、足を踏み入れた。

 

 気づけば再び、そこに静寂が戻った。

「ハッ、ハッ……」

 息が切れてしまった。もう、腕は動きそうにない。

 果たして観客は、歓声を上げていたのだろうか。それとも、非難を浴びせていたのだろうか。

 でも、少なくとも、ナオトはこの時、笑っていた。

 ハル姉と、顔を合わせる。

「さて、みんな……」

 彼女はニヤッと口角を上げて、こう言った。

「逃げるよ!」

 それを合図に、彼らは走り出した。

 やっぱり、いつだって残された選択肢は遁走なのだ。でも、ナオトはこれを、敗走だとは思わなかった。

 空を見上げ、目を見開く。

「——青い」

「……ナオト?」

 手を伸ばして、一身に風を感じる。

「空が、青いんだよ……!」

 敗北だ。全ては、敗北に始まっていた。

 神田ナオトという人間は、敗北により信用を失い、敗北により誇りを失い、そして、敗北により反抗する牙を失った。

 しかしこの時、たった一つを取り戻した。

 ナオトは今、空の青さを取り戻したのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ