大人になっても死にたいままだった
いつもよりも家事を適当にこなしてみる。
洗って積み立てる食器は、気持ちとしてはもう二、三回水でゆすぎたいところだけれど、そう納得する手前くらいで引き上げたもの。
背よりも少し高い位置に干した下着の類は、皺まで伸ばして均等な位置に洗濯バサミを挟みたかったけれど、やっぱり半端な塩梅で切り上げてとりあえず宙ぶらりんにすることを目標にした。
外出する時は玄関の鍵を開けっ放しにする。流石に日用品の買い出しは時間がかかるので、数十分だけ散歩する時だけ。
どれもこれも不安でしょうがないけれど、それでいいらしい。不安への耐久値を高めることが目的だと心理士の先生は言っていた。完璧主義で潔癖の私が、あえて不安を残して行動するのは自分でも新鮮で信じられない。
そして行動して初めて実感する。本当に不安の九割は実現しない。どころか、今のところ十割が実現していない。知ってはいたが、改めて思い知る。
完璧主義と潔癖がいかに過剰でむしろ自分の首を締めていたかを実感して体感して体験する。
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私の思春期は、大人ぶる思春期だった。
何処も何故も説明が難しいが、その頃からずっとぼんやり自分が嫌いで、なんだか死にたくて、そしてそういう自分のことが誰よりも好きだった。特別な気がしたし、かっこいい気がしたし、と同時にそれが、厨二病の拗らせという自覚もあって、だからやめられなかった。
「今はまだまだモラトリアム、若気で説明がつけられる。甘えられるうちに、この厨二病をたっぷり味わおう」「大丈夫、この私が本当に自分が嫌いな訳がないし、本当に死にたい訳がない」そんな気持ちで十代のほとんどを過ごしていた。
またいつかの理想も描いていた。可愛いよりも綺麗めな、知的な恋人が欲しかった。就くならブルーカラーよりもホワイトカラーの職業が良かった。肉体派よりも頭脳派になりたかった。田舎よりは都会に住みたかったし、男よりも女にモテたかった。趣味に仕事に生活を充実したかったし、朝は一枚の食パンから初めて、夜は一杯の白湯に終わりたかった。元気はなくとも溌剌な、お仕事ドラマに出てくる小粋な同僚くらいなポジションにおさまる社会人になりたかった。
二十代になって、大学を出て、大人になって気付く。
大人になってもまだ、何故だか自分のことが嫌いで、凄く死にたい。然し大人になったので、そういう厨二病はやめにしたいと、大人びて行動しようとする。が、そのうちに少しずつズレてくる。まるで自分が自分じゃないみたい。綺麗なほどほどの自分が確かにいるけれど、一方で自分がより深く死にたくて大嫌いな気がする。いつかこの幼稚も無くなるだろう、と思っていたのに恥ずかしい。なくならない原因が分からないから恐ろしい。私が恐ろしさを感じていることは傍から見ても分からないらしい、それはそうだ隠しているのだから。
大人な私の自己嫌悪や希死念慮は、子供の頃のそれよりもずっと輪郭が色濃くて質量が重たくて到底無視出来ない。厨二病、と笑う体力すらいつの間にか残っていなかった。
そのうちに潰れて、動けなくなった。自分を大嫌いと思う、死にたいと思う自分に押しつぶされた。
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子供の頃は「大丈夫、この私が本当に自分が嫌いな訳がないし、本当に死にたい訳がない」という確信が私の味方だった。大人になれば無くなる思春期特有の拗れだから大丈夫、という理屈が負荷を減らしてくれたし、厨二病である以上は、いつかの終わりが見えることに安心もしていた。
だからツケにされた大人側の私は頑張って採算をつけようとしたのだと思う。なにせ多少の無理は効果があった。子供の頃思い描いていた理想のいくつかは叶ったし、叶ったからこそ、私の自己嫌悪や希死念慮や完璧主義や潔癖という悪癖も、簡単に解消できると信じられた。叶った夢をもって大人になったという実感が、実力がついた自負があったのだ。「あの時の厨二病と違い、真にかっこいいのは現に自律している社会人としての自分なのだから」と。また「それこそが、社会人としての厨二病ですらあるのだから」と。私は厨二病の位置を変えようとした。
そして酷く焦った。
焦ってなお、強引にでも幼い悪癖を終わらせようとした。
大人になっても死にたいままだとは、
自分が嫌いなままだとは、
幼さは幼さのままで、
子供な部分は子供のままだとは、
全く受け入れきれていなかったから。
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皿を適当に洗いながら、また服を適当に干しながら考えてみる。
ぼんやりと自分の死にたい気持ちの輪郭をなぞる。
なぞってみると、案外学生の時と大差ないように思えた。
学生の時はノートの隅に気休めと「死にたい」と綴った。時々先生に回収されることもあるから、消しゴムで消したり修正テープで隠したりして、そんな自分が愛おしかった。
大人な今は、ノートを回収してくれる先生も都合よく心配してくれる友達もいない。
だから、それ専用のノートを取り出して書き綴る。片手サイズの薄いノート、ボールペンはサラサ以外ありえない。ジェットストリームは黒が淡くて寂しい。サラサの黒は固くて心強い。
しなびたノートの一片に、どうして死にたいのか、何がそんなに憎いのかを、書いて書いて書き残す。
固い黒で埋まっていく。
目に優しい紙面の白が段々と陰っていく。
幼かったかつての私は、大人になった自分は流石に自傷行為を卒業しているだろうとたかをくくっていた。
完璧にできないくらいで、満足できないくらいで、そうでなくとも自分が嫌いなくらいで、自分を傷つけてどうするのさ。
馬鹿な私め。
大人な私、後は頼むよ。
大丈夫、流石に大人になっても残るレベルの傷は残さないから。
ノートを支える左手の首には、いつかの溝がある。
視界の端に置きながら、当時のいじらしい私に送るつもりで書き残す。
残念ながら、これが大人になった私の、相も変わらず自傷行為に他ならない。
幸いなことに、私はそれでいいと思っているし、そうして今日も生きている。




