鏡像
夜中、保晴は突然の悪寒に襲われ、目を覚ました。普段は一度眠ると朝まで起きることなどないのに、今夜は異様な気配がまとわりつき、眠気は完全に消え失せていた。
喉の渇きを覚え、保晴は重い体を引きずって台所へと向かった。冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出しコップに注ぎ込む。水を飲む音だけが、静まり返った部屋に不気味に響き渡る。
「なにかが変だ」
漠然とした不安が心の中で膨らんでいく。
寝室に戻る前に保晴はトイレに立ち寄った。そして何気なく鏡を見た瞬間に背筋が凍り付いた。鏡に自分の姿が映っていない。代わりに背後の壁だけが虚ろに広がっている。
「まさか…」
保晴が恐怖に震えながら鏡に手を伸ばしたときに、鏡の中の死角から急に何かが飛び出してきた。それは、クラスメイトの将也だった。しかしその表情は保晴の知る将也ではなかった。苦悶に歪み何かを必死に叫んでいる。だが声は聞こえない。
保晴が将也の異様な姿に釘付けになっていると、次の瞬間、視界が激しく揺れ景色が変わった。そこは保晴の部屋の天井だった。ベッドの上で保晴は息を切らしながら周囲を見回す。
「夢…だったのか」
しかし、それにしてはあまりにも生々しい感覚が残っていた。喉を通る冷たい水の感触、そして鏡の中で何かを伝えようと必死にもがく将也の姿。あれは本当にただの夢だったのだろうか。
翌日、保晴は不安を抱えながら学校へと向かった。教室に入ると将也はいつものように友人たちと談笑していた。その様子に保晴は安堵すると同時に言いようのない違和感を覚える。
その日の放課後、保晴が一人で帰ろうとすると将也が声をかけてきた。家が同じ方向だったため、二人は一緒に帰ることに。帰り道、保晴は意を決して昨夜の夢の話を将也に打ち明けた。
最初は笑顔で聞いていた将也だったが、次第に表情が険しくなっていく。それを見た保晴は、慌てて夢の話だと強調した。すると、将也は再び笑顔を見せ、「そうだね」と呟いた。
しかし翌日から将也の様子は一変した。
授業中にふと視線を感じて顔を上げると、いつも将也がこちらをじっと見つめている。その目はまるで底なしの闇のように、何も映していないように思えた。
ある休日、保晴が一人で家にいると再びあの悪夢が蘇った。トイレに行ったとき、トイレの鏡に自分の姿が映っていない。その代わりに将也が苦悶の表情で何かを叫んでいる。
保晴が耳を澄ませると微かに将也の声が聞こえた。
「ダメ、鏡から離れて…」
それを聞いた瞬間に、保晴は何かを感じ咄嗟に鏡から飛び退いた。すると、保晴がさっきまで立っていた場所に、鏡の中から黒くねじれた手が現れ、保晴を掴もうとした。
寸前のところでその手をかわした保晴だったが、恐怖で動けずにいると、鏡の中の将也の姿が消え、代わりにニヤリと笑う保晴自身の姿が映し出された。
「惜しかったな、もう少しだったのに」
その瞬間に保晴は意識を失い、トイレの床に倒れ込んだ。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。保晴が目を覚ますと、鏡にはいつものように自分の姿が映っていた。しかしあの時見た、鏡の中のもう一人の自分の冷たい笑みが、脳裏に焼き付いて離れない。
保晴は両親に頼み、トイレの鏡を外してもらった。そしてその翌日から将也は学校に来なくなった。誰も彼がどこへ行ったのかを知らなかった。
ただ保晴だけは知っている。将也が鏡の中にさらわれてしまったことを。