泥舟を漕ぐ
鋭い風が、頬をなでている。僕はスマートフォンを耳に当てたまま霞む目を細め、延々と続く都市の明かりの果てを探す。
しばらくして、不意に呼び出し音が止んだ。
「はいはい、どうした如月」
親友の深みのある声に、ふっ……と体のこわばりが取れた。
「なんか声聞きたくなった」
「おいおい、ちゃんと休んでるか?」
「いやぁ、やっぱり休みたいけど休めないもんだね」
ため息交じりに続ける。
「なんか国会議員って面白くないよね」
「党の言う通り動いて、挙げ句尻拭いばっかしてるからだろ」
「うん、そうだね」
傍らのテーブルのワインを取り、グラスに口をつける。
「僕はこんな事するために議員になったわけじゃないんだけどなぁ」
「たしか日本を変える、だったか?」
まだ三十になったばかりの頃の話だ。自分で起こした事業が失敗し、莫大な借金を背負った。そんなとき、党から事務員としてののスカウトがあった。それに飛びついたのが、すべての始まりだった。
――如月くん、国会議員になってみる気はないか。
大震災が起こり、親友は投資に失敗して会社を売却した。それでもなお、借金は残っているらしい。
許せなかった。苦しんでいる親友に、何か大きな助けをしてあげられないということが。
如月がいてくれるのが助けだ。そんな彼の言葉は、ただのやせ我慢のようにしか聞こえなかった。新卒で同期として出会ったあの時から、彼の瞳の奥には野心が燃えていた。道半ばで第一線から退かなければいけない、そんな悔しい思いをにじませ、彼は妻子とともに地元へと戻った。
彼が東京を立つ日、自分の無力さに唇をかみしめながら高速バスを見送った。
成功できないまま、名もないままに消えてゆく者。震災で被った損失にもっと援助があれば、親友はまだ東京にいられたはずだった。
今思えば、それは現実逃避というか、責任転嫁だったのだろう。けれど、あの時僕はそれを正義として政治の世界に飛び込んだのだ。
「ま、党首でもない僕みたいな議員に、そんな力はなかったけどね」
椅子から立ち上がり、ベランダの手すりに寄りかかる。視界の端で、スカイツリーのライティングが切り替わった。
「もうどうせ泥舟なんだから、もっと楽に生きろよ」
「いや、やるからには全力で、でしょ?」
親友が笑った気配がした。
「如月、相当疲れてるな?」
「まあね」
「よし、三日後東京行くか」
「お」
親友と会える。突然の朗報に、思わず頬が緩んだ。弾む気持ちのままに言葉を紡ぐ。
「待ってるよ」
「いっしょに飲むぞ、だからそれまでに体調整えとけ」
「わかった」
「いいか、体調万全じゃなかったら強制的に休ませるからな。で、俺はお前を置いて飲みに行く」
はは、と声を上げて笑った。
「けっきょく飲みたいだけか」
「お前の心配もしてるぞ……一応」
肺いっぱいに深く吸い込んだ風は、仄かに冬の香りがした――。
1, 8, 2025