雲
現在書こうとしている小説の真ん中に当たるチャプターです。一応下書きなので、どうかお手柔らかに。
私自身の話ですが、二十歳のドイツ人です。四年前から日本語を勉強しています。独学です。
そのため、不自然な言葉遣いがあれば、どうかご叱正の程を。
※翻訳機やAIは一切使っていません。
宜しくお願い致します。
盆地にある山小屋を後にして、私の旅を続けるうちに、一つ印象に残ることがあった。盆地の縁はというと、それは遠くに、霞に覆われた山々と連接している、一つの山脈を成す、全貌を見ては極小さな一貫にすぎぬのに、登りきってその縁を越えると、夢のような壮大さそのものという景色を私に見せてくれるのだと、私は認める。
ここへ辿ると、わずか二日前にそばに存在した大海さえも忘れるほどの場所であると、流されてきた旅人は誰もが感じうると言ってよい。ここの土は、好い茶色を帯び出し、殆ど黒のような色であるのに対して、極めて深緑の草とが、そこら中にある野花の鮮やかな色彩と相まう。草は翠雨の粒々を、長い剣に乗せ転がらせ、又、異彩を放つ花々といえば、それらは、啓蟄の候の蟄虫啓戸の虫たちを宿し、この原は生きているという深い印象を私の心に刻み混む。人間の眼差しで見渡しうる限り、いつまでも続きそうなその草原は、遠くに聳え立って、麓の辺り半分雲に食われ、中腹上方からは半分雲を峰々で切り裂き、山々のあるのを伝えてくる。
低迷や、棚引く、とかいう人間の言葉だけではない足りぬばかりか、むしろそういった人間の語彙に限られる雲の景色の見方に当たっては、句をも絶するほど美しく、雲のころりとした動きとは、草原の決して絶ゆぬ向こうを滑らかに滑るように、或いは歩むように、地平線を辿るのだ。その雲は、私と同じく旅をしているだろう。雨を降らせに、空を飛んでゆく。滋養に富むだろうと思わせる土だけでなく、生き生きとした野花でも草でもなく、私の心を最も惹こうと努める美しさは、空をも、草原をも、大山をも完成させる雲なのだ、と私は実に神妙に思う。
その雲はまるで生き物のようで、高次な聖神な役目を果たそうがために、いつまでも、漂っては、千切られ。千切られては新たに形成され続けるのだ。それは正に、人生や存在、という、変わり続け完成形のない、ことそのものなのかもしれないと私は疑う。
私は見惚れ、やや冷たい山気を嗜みながら、タバコを咥える。ああ、こんなに綺麗なものがあったのか、とさえ思うようになる。港町には戦争があるからこそ、ここは美麗な場所であり続けられるのかもしれない。ここだけは特別に残された世界の秘密ともいうべき、生き生きとした空気をたっぷり持った故郷である。人類の故郷であるが、人間はとっくに巣離れて,つまらない戦争ばかりを念頭に置きながら、つまらない罪を犯す、と言う時代に我々は生きている。
そのような考えを縁を乗り越えてから頭に巡らしながら、ただ感嘆してぼんやりと夢の景色を見た。歩み始めると、いつの間にか私は壮大な高原の真ん中に立っている気さえして、振り返ると登りきったばかりの縁はもう、私が遠ざけて遠くへ行ったかより、縁は自ら離れて遠ざかって見える。というのは、私は嵐気に包まれ聯亙した山々に引き寄せられているとも言える。まして私の帰心はそういった感情を促すのであった。それは実に不思議なことで、一歩一歩を連ねて、真ん中から見晴らしを確認して、当然のことだが、私以外は一人っ子一人もいない。人影こそは見当たらぬが、雉の鳴き声が時々する。自由な気持ちも哀愁な気持ちも呼び寄せる事実であるが、もし他に一人の人間がいるとしたら、魔法が解けるのかしら。人間がいるべきこの場所こそは、人類の母胎であるが、甚だしいことに私だけはそう感じているらしいものだ。
私は、ノートとペンを持ち歩いていないばかりに、深い劣等感を抱き、書きたい気持ちを育てているのに、今は書けないのだ。慌てふためいて逃げてきたせいだから、私のせいでもあるが、書けないというのは如何にももどかしいことだ。
しかし、私は思い出す、かつて偉大な作家は言った。画家になろうがために筆を手にせずとも画家なり、と所以のことで、私は一時安息を得て、ピアニストが暗譜したり、ピアノがなくともキー一つ一つをイマジネーションで弾けたりするように、私は幾つかの詩歌やポエムを反芻するように、誦じたものを唱える。それから、身を足に運ばせて完全に空想上で形而上の世界へ飛び込み、自分なりの言葉を繋ぎながら心身が互いに無関心そうに働くという。かわるがわる嵐気と煙を肺に入れながら。
気づくと、上空にかかった霧が薄くなって、日が燃えるように、グレーに穴を開こうと淡く青色を覗かされようとし始める。それ故か、私の気持ちみというのも、それから変化をしていったのだ。まだ深い紺色に覆われている遠き山と、青空になろうとしている天下の私は、かけ離れた別の世界に置かれているようで、暗澹たる前途の印なのか、この一刹那に溺れてゆくがよい、というサインなのか。
しかし、未だに見覚えのない峰ばかりであると思いきや、やはり、その峰々の内から、その間から、一つ尖って見えるのが際立ち、私の胸に迫るのは、哀愁であろうか、懐かしさであろうか、それとも、又、単なる安堵なのだろうか、というのは、私の故郷は慥かに、その遥か上に、空を鋭く衝く山の手の、川の流れるような山裾の一部に横たわる村である。山奥の雪深い、殆ど木製のその好い香りを放つ、大原の野花みたく散らかり小さな丘に転がる故郷の家たちがある場である。
いつ故だろうか、私は長年訪れられなかった故郷は今にも掴められそうにあるほどで、私の想像の中で如何にも細緻に描かれゆく、然るにそれも誰にも制御されぬ最も勝手気儘に、まるで鞭で促された奔馬のようであり、帰心という燃料で邁進する帰路汽車のようでもある、一家一家の者の顔や、優しくひくねった坂道や、古という語を偲ばせる神社とが、走馬灯のように私の目の前を通り越してゆくのを、私は胸が突く感情をも禁じ得ざるを得なかった。今頃咲くだろうという花の色までも。だが、あの子の顔だけは、なぜだか、辛うじて乾ききれぬ画に素手で輪郭や線をかき乱されたのかのように、微妙に浮かべられやしない、、、、
しかし、案の定、私はいつもあの港町に連れ戻される。それは記憶の中だけでも、心が揺らいでそこへ行ってしまうということはある。昨日は郷愁に咽ばれていたのに引き換え、今日は新たな変化が私の心持ちを乱しに訪れた。
美麗な夕焼けがやがて朝に変わると、雲は、まるで輪郭のないまま、ぽつりぽつりと浮かんだ白の染みだけなのであった。それも又、私の晴れ始めた内心を反映しているのだと思われ、いかに快いかと言えば、快いといったらない。
しかし、その不意の、安息を得た瞬間にこそ、起きうるのはこういうものである。淡く青く白く塗られた大空に飛び渡ってゆくのは、サシビだろう。そんなサシビを、普段からよく見かける鵟とは別種と看做して見分けられたのは、私の、いつも空を夢見た友人のおかげでも、せいでもある。
そういった空への憧憬を抱いた友人は、鳥類を知悉して、機会さえ訪れたらそれに関する蘊蓄を傾け尽くしたのである。私はと言えば、愛着もあれば劣等感や、やや勝手な嫌悪というのも、そんな友人に向けて感じたことは多く有ろう。
そうはいうものの、同じ兵舎で同じ隊の戦友ともいうべき関係を培ったにせよ、正に同床異夢であったということは、後にして露わになってきた。
天空にそのような趣味と志願を持ったその友人は、どの鳥をも見るにつれて、いつもそれらを飛行機や戦機に準え比較した悪癖があったのだ。それは、空を戦場と見做しこそすれ、私みたく聖なる空気を自由の場だと捉えたことはなかろう。
私はそれを見て、思っていたことは何度もあった。ああ、この人はきっと立派な軍人のパイロットになるだろう、と所以。
とはいって、私はまるでその正反対の意思を示したのである。決して姿形にしてしまうような言葉を発することはなかったがために我らの分岐後、裏切られたその友人感情を言えば、可也のものであるに相違ないと思われる。
その中、友人の長い付き合いで幾つかの鳥の種類や飛行体の名称を覚え、渡り鳥にしろ戦機にしろ、それらは私の脳内に刻み込まれたような気さえすることがあると、不思議に思わざるを得ない。それも又、愛着と嫌悪の神妙な対立とは言える。
して、あのサビシが目の前を通り越すと、或る夏の日、雄大な翼で空中を羽搏いて鋭い嘴を熟す大鷹のような、威儀のある猛禽のその名を、友人に教わって記憶した時の想いとは、再び、しかし色褪せずに蘇ってくるのを、切なく考えた。
こういった憂慮が頭に跡をとどむと殆どに同時に起きた一つの出来事は、私が知ることのない事実だが、逡巡している私の想いに応じるがごとく、友人は遥か向こうの大海の上を飛び回っている途中で、一つの発見をするらしかったのだ。
彼はいたるところ、狭苦しい操縦席の窓から潑溂した、生まれたばかりの波がある珊瑚礁から、海水を裂くように立ち上がった石のようなものにぶつかっては消え、消えてはぶつかるという繰り返しを不思議に観察していたのである。その間に海鳥が跳び回りながら。
彼は空に円を描きながら、まばゆい夏日の太陽が潮吹きの粒々に反射されたことさえも鮮やかに覚えたに違いない。戦争の隙間に、これほどある一刹那に感動することはないだろうとさえ言えるかもしれない。または、軍を出て海辺で穏やかな生活を夢見るのに至るほどの体験だったのかもしれない。しかし、感激も、夢見た海辺も彼は、それらを念頭におかずに、教えに反するのだと、そう感じてはいるものの、その一刹那を掃蕩しようと心構え、自分の感心も本能も捨て去り、再び訓練へ忠心を向けたのであると後程わかる私の惜しい気持ちといえば、惜しいといったらなかった。
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