維の章
維の能力について、なろうに掲載している『怨鎖編』での描写とは若干の差異がありますが、こちらが完全版で描写されている本来のかたちです。
とうとう、この子とバディを組む日が来たか。
月も光らぬ夜闇のなか、隣に並んで走る凰鵡に、維の胸は高鳴る。誇らしさと期待……そして少しの不安。
「どうかしました?」
無意識に顔がニヤけてしまったらしい。
「アンタもここまで来たか、ってね」
「維さん達のおかげです」
「あーらあら、とうとうそんな社交辞令も言えるようになっちゃったのね」
ムッと、拗ねたような表情が返ってくる。
「でも維さん、ホントは兄さんと一緒にやりたかったんじゃないですか?」
「うひょー、嫌味まで言うようになって。誰に似たのかしら」
「兄さんでないことは確かです」
顕醒がいないというのに、激戦を前に怖じけた様子を見せない。凰鵡にとっても、自分との初共闘は嬉しいのだろう。
……いや、成長しているのだ。闘者として、技量だけでなく、精神面でも。
件の顕醒は他所への応援で遠征している。他の闘者も各々の担当任務で手の放せない状態にあり、動けるのは自分と凰鵡だけだった。
「雷落山への突入、ならびに怪異現象の源泉となっている宇瑠瑠岩を、完全に破壊してください」
今度の指令は、珍しく強行なものだった。
紫藤の手に入れた資料と、朱璃の記憶から、事件の全容は明らかにされていた。
そして零子のくだした結論が「対話の余地なし。断固として討滅すべし」である。
目標の山が見えてきた。ここは瑠璃江の中心近く。すでに危険領域だ。
「できればふたりで、がいいけど……」
語調を沈めて、維は凰鵡に告げる。
「どっちかがやられても、もう片方は足を止めちゃダメ。アンタかアタシ、どっちかが例の岩に、なんとしても辿り着いて、ぶっ壊すの。いいわね?」
「……はい」
凰鵡も仔猫顔の奥底に笑顔をしまい込んで、静かに答える。
「よっしゃ! やったるわよ!」
目の前に迫った山肌に突っ込んだ。山道もなにもない斜面を駆け登る。獣道と呼ぶのも乱暴な、獣ですらそうそうやらない、山頂への直進登坂だ。
「つ──ッ!」
迷いなく駆けつつも、凰鵡が小さく呻いた。
維も全身の肌にビリビリくるような不快感を覚えていた。異空間が崩壊するときの前兆に似ている。
瑠璃江全体を包むだけでなく、空をも呑み込まんばかりの瘴気は、いま確実に、その密度を増している。この雷落山ひとつが、邪悪な意志の塊のようにすら感じられる。
零子の見立てどおりだ。
傀儡化した村民、変異する山への侵入者、目撃されるUAP──すべては、この世ならざる世界からの影響によるものだ。
異界門が、この山に形成されつつある。
そして門を生みだしている元凶が、山頂にあるという宇瑠瑠岩だ。
「ッ!」
維の脚が何かを飛び越えた。
小さな地蔵だ。すばやく周囲を見回すと、こんな獣道にもかかわらず、見渡せるかぎり、ずらりと横に並べられている。
翔の報告書にあったものだろう。孤月によると、結界の境を(かなり強引に)保護していた名残だという。
結界にも種々あるが、これは相手を内側に閉じ込めるものだそうだ。
地蔵自体かなり古いようだが、いったいこの山では、いつから、何を封じてきたのだろう。
「──! 止まって!」
不意に危機を感じて、維は凰鵡を制止した。
行く手に、何かがいる。
(妖種……?)
この山の怪異に取り込まれて変異した人間かと思ったが、様相が違う。
直径一メートルほどだろうか。歪な球体として闇に浮かぶそれは、眼を凝らしてみれば、真っ黒な縄を乱暴に絡み合わせたような姿をしている。
そして、その一本一本が、別の意志を持っているかのようにうねり、捻れ、のたうち回っていた。
それより維をたじろがせたのは、その奇怪な陰影から発せられる、圧倒的な禍々しさだった。
人智は言うに及ばず、妖理すら超えて、神々しいとさえ感じてしまう。一にして全──それ一体で、この山の邪気すべてを体現しているかのようだ。
もはや「妖種」というには足りぬ〝それ〟に相応しい呼び名を、維はひとつ知っていた。
(ッ──!)
その瞬間、脊椎をまるごと凍り付かせるような怖気が来た。
〝それ〟にとってみれば、すっと腕を上げて伸ばすていどのことだったかもしれない。
だが、維はとっさに凰鵡に体当たりし、抱きかかえながら藪のなかに突っ込んでいた。
足先を、闇の腕がかすめていった。
維の全身が汗を噴いた。
怖い、と感じた。だが理由がない。その感情を、脳から無理やり引き出されたようだ。
紙一重でかわしても、これだけの影響があるとは。じかに触れられれば、訓練を受けた身でも正気ではいられまい。
「維さん大丈夫です?!」
〝それ〟から距離を取り、散開して様子をうかがう。
「ええ! 気をつけて、あいつ普通の妖種じゃない──凰鵡!」
と言っているあいだにも、追撃が来た。
二本、三本と、闇の腕が凰鵡を襲い、空振りする。
維は気付いた──〝それ〟は凰鵡を狙っている。
なぜだ。たしかに凰鵡の秘める霊力は強大だが、それを隠すための呪符を身につけてもいる。
糧が目的なら、より霊力が多く視える自分が狙われるはずだ。
「ちッ」
理由はわからないが、悩んで足踏みしている場合ではない。
──ううぅゥるるぅぅ──
あたりから幾重もの、人間の声とは思えない呻きが湧いた。
ガサガサガサ──と、落ち葉や土を掻いて、いくつもの人影が四方八方から、もの凄い速さで這いずってくる。
その誰もが、頭や、上半身、下半身……とにかく体の一部を、うねうねとのたうつ闇の縄に変えていた。瑠璃江の怪異に取り込まれた犠牲者達だ。
だが彼らの進軍を、思わぬ存在が阻んだ。
──ゥゥアアァァアア──
金切り音のような悲鳴をあげて、縄人間達が消されてゆく。
狩人の正体は、あろうことか〝それ〟だった。
だが、自分達を守ってくれているのではない、と維は即座に理解した。
「ちッ!」
念を籠めた拳で、維は飛び掛かってきた縄人間を粉々にした。
〝それ〟は、凰鵡を狙っている縄人間だけに闇の腕を伸ばして、次々に霧散させてゆく。維を襲う連中におとがめはない。
これは粛清だ。主の獲物に手を出そうとする僕を処しているのだ。
そう、〝それ〟こそが、この怪異の主なのだ。
だが維の霊感は「〝それ〟をここで倒しても意味がない」と教えている。
「行ってください、維さん!」
〝それ〟の腕を縦横無尽に(だが優雅に見えるほど無駄なく)避けながら、凰鵡が叫んだ。
維はハッとなった。
そして、この期に及んで、自分がまだ凰鵡を侮っていたことを思い知った。
最初に「絶対にどちらかが」と言ったはずが、いま自分はとっさに凰鵡を守る手立てを講じようとしていた。
(子離れしなきゃね、アタシ)
バディである以上は助け合うべきだ。だが時には信頼によって、それを超えてゆかねばならないこともある。
それをまさか、凰鵡に教わるとは。
「わかった! アンタも無理しちゃ駄目よ。そいつ、山神だから!」
投げ返された言葉に、勇ましげだった凰鵡が一転して「えっ?!」と目を丸くする。
「岩ぶっ壊して、すぐに戻ってくるからね!」
そう言い残して維は斜面を駆け登った。
(大丈夫。あの子なら大丈夫よ)
不安を殺すよう、自分に言い聞かせる。
〝それ〟の初撃を避けたとき、維が本当に驚いたのは凰鵡の動きだった。自分が庇おうとしたときにはもう、避ける動きをとっていたのだ。
反射で先を越された──否、まるで〝それ〟の動きを読んだかのような…………
その後の追撃も、地形の剣呑さを感じさせない動きで回避し続けていた。
あれは完全に、不動の動きだった。
──ゥゥくルルルゥゥぃぃ──
行く手に、縄人間達の群れが立ち塞がる。たまたま山頂に集っていたのか、それとも主の命で守りに就かされたのか。
(御免してよ──!)
維は躊躇なく、異形の群衆に突っ込んだ。
ありとあらゆる角度から闇色の触手が絡みついてくる。
が、それを本体もろとも引きちぎり、斬り裂き、握りつぶし、殴り倒し、蹴り飛ばしながら、維は突き進む。
──アあァあ──いアああ──うるるぁああ──
──いたい──いやだ──たすけて──どうして──しにたくない──
──やらせろ──おんなだ──おかしてやる──
──おなかすいた──おうちかえりたい──おかあさん──
おぞましい叫びに、まだヒトの形を留めた声が混じる。
だが維は断固として、その声の命脈を断つ。
それ以外に、彼らを救うすべはない。
ここまで食い荒らされ、別なものへと変貌させられた精神が、正気にもどることはないのだ。
討滅──維の行為は、公的にはそう記されるだろう。判断の境目はいまだ曖昧だが、こうした状況ではヒトもまた妖種としてカウントされる。
だが、たとえ完全な妖種が相手でも「討滅」がやはり「殺害」であるという事実から、維は目を背けたくはない。
それでも、誰かが殺さねばならないのだ。
妖種だけではない。獣、虫、植物、細菌、そして人間同士…………理想論や御為ごかしで何もかもが共存できるほど、世界は優しくない。
その点では、この役を凰鵡に回さなくてよかった、と思う。いつかは立ち向かい、折り合いを付けねばならないことと分かっていても「今あの子が苦しまなくて済むように」と願ってしまう愚かな親心に、維はまた自分を嘲る。
ドンッ、と空気の壁にぶつかったような圧と、軽い目眩を覚えた。
目的の場所が近い。行く手の山肌は土から岩場に変わり、植物の気配もない。標高のせいではなく、生き物が根付かない何かが、ここにあるのだ。
「邪魔よ!」
木立を抜ける寸前で、転がっていた倒木を持ち上げた。
周囲に他の木がないのをさいわいに、幅五〇センチ、長さも五メートルはあろう鈍器で縄人間達を薙ぎ払いながら、ラストスパートをかける。
視線の先に、巨大な岩が現れた。
高さも幅も十メートルはあろう見事な一枚岩だ。
が、異様なことには、その表面には何重もの注連縄が巻かれ、しかもすべてが赤黒く汚れていた。
宇瑠瑠岩、あるいはたんに宇瑠瑠──瑠璃江に伝わる雷落山信仰の中枢である。つまり、御岩だ。零子から今回の作戦を聞くまで、維も名前すら知らなかった。
紫藤が神社から持ち帰った縁起録では、太古の昔に、天から雷落山へ降りたった神《宇瑠瑠》の頭部であるという。そして宇瑠瑠は山と同化して麓の人々に崇められ、山神・土地神として奉られた。
だが、宇瑠瑠はいわゆる〝荒ぶる神〟であったようだ。雷落山では立ち入った者の失踪や精神錯乱が相継いだため、人々は山中の大部分を「神域」とさだめ、神職をはじめ一部の者以外の立ち入りを禁じた。
つまり、〝神の頭〟はずっと昔から異界門を生んでいたのだ。そして、村の鎮守が主導してそれを山中に封じ込めていた。
だが、現在に至って封印はほころびはじめ、おぞましい神域は拡大している。
その事実が衆に認知された決め手は、やはり朱璃の視た宮司の記憶だった。
彼はなんとか再封印しようとしたようだが、解決できないうちに異界の気に取り込まれてしまった。なまじ妖種はヒトより霊性が強いために、その侵蝕も早かったのだ。
だが、なぜ宇瑠瑠の封印は解けたのか。
そもそも、宇瑠瑠とは何ものなのか。
いまは……どうでもいい。それは、あとからでも調べられる。
維は倒木を捨て、脇目も振らず走った。
「──?!」
岩から、まっすぐに影が伸びてきた。
避ける暇もなく、維の額に直結する。
(あ……ッ!)
その瞬間には、維は達していた。
体がはち切れそうなオーガズムと、甘美な余韻。もう一度これを感じられるなら、ここへ来た目的も、使命も、そして凰鵡のことさえ、すべて投げ捨てていい。
……と、以前の維なら、簡単に呑まれただろう。
「舐めんなボケエロ神がぁ!」
その絶頂と怒りを引き金に、腹の奥底に溜めた霊力を解放した。
《積霊法》を会得して以来、普段から余剰霊力を溜め込むようにしている。凰鵡には言っていないが、指令が下ってから作戦が開始されるまでのあいだにも、あの手この手でみずから力を重ねておいた(その最中、顕醒が一緒なら、とずっと内心で文句を言ったが)。
「いっせぇのぉーッ、砕!!」
その霊力をもって一念を拳に乗せ、岩に叩きつける。
雷が落ちたような爆音が上がった。
真っ二つと言わず、巨岩は臼で挽いたように粉みじんとなった。
それに併せたかのように、山を包んでいた瘴気も霧散した。
が、勝利を確信するにはまだ早い。
(──凰鵡! ……うっ)
維は来た道を振り返って、一瞬、息を忘れた。
縄人間……宇瑠瑠の犠牲者達は、まるで夢だったかのように、ひとり残らず消え去っていた。