紫籐の章
事務所は持たないようにしている。クライアントと会うのはいつもカフェだったり、レストランやカラオケボックスだ。
「……それで、どうしようもなくなって……僕だけ逃げてきたんです」
向かいの席に座った少年の声は小さく、そして震えていた。昼食時の喫茶店にあっては、店内の喧噪にたやすく消されてしまう──聞き手が一般人なら、だが。
第一区支部の管轄域外にある山間部、瑠璃江──その南端に広がる、二十六棟・約千二五〇戸の大型団地に、依頼人の住まいがある……のだが、その全棟がまるまる怪異の巣窟と化してしまったという。
最初は、団地のとある一棟に〝緑色の女〟が出没するという噂からはじまった。服だけでなく、肌、髪まで何もかもが緑色なのだという。
正体は定かでなく、別の棟や屋外からしか目撃されない不可解さから、幽霊だ、いや外部の不審者だ、住民のイタズラだ、とさまざまな憶測が飛び交った。
だが、やがて幽霊説を面白半分で受け止めた団地の子供達のあいだで「ゴーストハンター」という名の肝試しが流行るや、事態はまたたく間に悪化した。
参加した児童の住んでいる棟にも、緑の女が現れるようになったのだ。
当然ながら町内会でも問題視され、霊能者や祈祷師への依頼も検討された。だが非科学的な行為に会費が使われることで反対する意見も多く、実害もなかったため、女は放置されることとなった。
そうして一ヶ月が経つと、こんどは住民のなかに、奇怪な行動をとる者が現れ始めた。
ある者はベランダや屋上に佇んでじっと何処かを見つめ、ある者は棟の壁や廊下に体をピッタリと付け、恍惚とした笑みを浮かべていたという。
少年自身は目にしていないが、部屋のなかに、泥を固めたような、いびつで巨大な祭壇を作っていた者もいたらしい。そして夜といわず昼といわず、呪文のような唸り声のような、なんとも形容しがたい言葉を発していたそうだ。
「しかし《瑠璃江》は《神羅》の管轄域です。なぜ彼らでなく、私のところへ?」
「神羅の人達にも、何度も相談してたんです。けど、いつも〝対策をする〟って言うだけで……ぜんぜん」
少年はうつむく。自分の無力を悔やんでいるのだろうか。団地の住民として彼自身も怪異に立ち向かおうとしたのだろうが、力及ばぬどころか、その正体すら掴めなかったようだ。
「神羅?」
隣に座る助手が問うた。
「衆とおなじ対妖組織だ」
紫藤が手短に教えると、翔はそれ以上、口を挟まなかった。思うところも言いたいことも色々ある表情だが、抑えるべきときには抑えられる。この歳でたいしたヤツだと褒めたい反面、こんな抑圧的な日常を送らせていることに、親代わりとして忸怩たるものを感じる。
「そうですか」話と意識を少年に戻す「では、ひとまずあなたの身柄を保護してもらえるよう手配しましょう。それから、あなたのお住まいを我々で調べます」
調査の概要、連絡方法、いくつかの規約を説明し、同意を得たところで本件は正式に契約成立となった。
電話で依頼人の保護を要請し、車が到着するまでのあいだ、雑談に興じる。依頼人の不安を和らげるのが目的だが、何気ない会話のなかから、思わず事件の核心を拾うこともある。
「UFO?」
少年の言葉を、紫藤は思わずオウム返しにしていた。
「雷落山ってご存知ですか?」
「瑠璃江の中心にある山ですね」
「ええ。そこ、昔からUFOがよく目撃されてるんです」
これは不勉強だったな、と紫藤は心のなかで唇を噛む。あとで瑠璃江に関する怪異例を朱璃に送ってもらわねばならない。
「それって」翔が言う「宇宙人の円盤なんです?」
「そういうのじゃなくて、真っ黒い球とか、変な動きをする光とか……そういうのが山頂のあたりをグルグル回ったり、ふわふわ浮かんでたり…………」
そう聞くと未確認飛行物体よりは、未確認空中現象と言うほうが当てはまるが、いかんせん、いまだにメジャーな呼称ではない。依頼人の主観にも変わりはないだろう。
「あなたも、それをご覧になったことが?」
「一度だけ。夜でしたけど、それでも判るくらい真っ黒な、丸い影でした。近くの村に昔から住んでる人達は、山神様のご機嫌が表れてる、って言ってたらしいです。影なら悪い、光なら良いって具合で」
「山神様? それは雷落山の?」
「らしいです。僕も村の人とじかに話したことはないので、よくは知りませんけど。ただ、あの山には登ってはいけない、という話もありました」
「それは、UFOや神様に関係していて?」
「そういう噂もありましたけど、山頂までの大部分が村の神社の敷地でしたから。見た目より険しくて遭難者も多いから、っていうのも言われてました」
そのとき、紫藤の端末が鳴った。
迎えの車が、店の駐車場に到着したのだ。
「行きましょうか。ここは私が」
紫藤が会計を済ませ、三人は表へ出た。
白い軽ワゴンの運転手に軽く挨拶をして、依頼人を委ねる。
「しばらくは、彼らと一緒に行動してください。調査の進捗は、都度報告します」
「よろしくお願いします。どうか、お気をつけて」
ドアが閉じられ、車が発進する。
「あの車、衆のじゃないね」
「《HOP》の人達だ。こういうときは彼らのほうが上手くやってくれる」
HOPとは[House Of Paranaturalkind]の略で、ヒトに友好的な妖種達によって設立された組織だ。衆と協力関係にあり、事件の調査支援や、被害者のためのシェルター活動も行っている。
[Paranaturalkind]は[妖種]を意味する造語だが、公的な呼称ではなく[Unhumankind]や[Spiritualic species]と呼ぶ組織もある。[Mysty]と[Species]を併せた[Myspecies]という造語もよく使われるが、[(自然界における)miss pieces]という侮蔑を含んでいるため紫藤は好きではない。
つまり、依頼人の少年も妖種である。わけあってヒトの夫婦に養子として迎えられ、愛情深く育てられた。両親のためにも今回の怪異を止めようとしたが、どうにもならず、衆を頼ってきたというわけだ。
「すぐに現地行く?」
翔が訊いた。
「ああ。運転は私がやろう。朱璃くんに瑠璃江の情報を手配してくれ」
*
支部から送られてきた情報は道中で確認した。ハンドルを握る紫藤が端末を見るわけにはいかないので、文書で書かれている部分は翔が読み上げていった。
当地を管轄に置く《神羅》は衆と同盟関係にあり、怪異報告などの情報も共有されている……はずだが、瑠璃江に関しては二・三の(どこにでもあるような)目撃例が記されているのみだった。今回の依頼人の話も、記録には上がっていない。
UFOについても神羅側の言及はなく、むしろネット上のオカルト愛好家界隈で語られる都市伝説に(山名こそ明記されていないまでも)その一端が見られた。
瑠璃江については、かつて雷落山中に高速道路を建設する計画があったものの、付近の村民からの強い反対で中止されたとの公的記録が残っていた。
これに絡めてか、ネットでは一時期、当時の道路公団に務めていたという者が「住民ではないどこかからの圧力で計画は中止させられた」と風潮していたようだ。
「うっ」
峠道から団地が見えた瞬間、翔が声を漏らした。
「お前にも分かるか?」
「ハッキリは分かんねぇけど、嫌な予感しかしない」
「私もだ。これを」
懐から取り出した拳銃を翔に渡す。本人の得物なのだから正確には「返した」と言うほうが正しい。保安上、普段は紫藤が預かっているが、危険が予想される際にはこうして持たせるようにしている。
「単独行動は禁止だ」
「こないだ身に沁みたよ」
峠道を逸れ、坂をまっすぐに駆け下りた。
車は隣街のコインパーキングに入れてある。そこから、ふたりして雲脚で移動してきたのだ。
こちらの動向は支部にも共有している。零子からは「神羅については気にせず調査してほしい」「危機を感じたら偵察に切り替え、生還を優先するように」と告げられていた。
場合によっては他組織の〝縄張り〟を侵してでも、術者や闘者を送りこむ可能性があるということだ。
「どっちから?」
「依頼人の住まいからだ」
団地のなかで調査すべき棟は二ヶ所、と事前に絞っている。もうひとつは〝緑の女〟が最初に目撃された棟だ。
団地そのものは新しく、居住者も少なくはない。が、休日にもかかわらず敷地内は閑散としていて、公園にも子供の姿はない。
「鳥もいねぇ」
翔が囁く。本当に勘のいい子だ、と紫藤は感心しつつ頷く。
棟という棟が、常人には感じられない腐臭と幽咽を発している。鋭敏だけが取り柄の霊感能力者なら、こう言うだろう──一秒もここにいたくない、と。
「なるべく壁には触れるな」
気配を消しながら目的の棟に足を踏み入れた。
たちまち、翔が顔を青くして嘔吐いた。
建物のなかは、それこそ瘴気の真っ只中だった。紫藤も軽いめまいを覚えた。こうまで身体に触る空間はめったにない。
棟の廊下は三階より上が開放型だが、一階と二階は閉鎖型になっている。
そして、依頼人の住まいは一階だ。
翔は外で待たせようかと思ったが、やめた。こんな空間での別行動ほど、危険なものはない。甥を激励しながら数メートル先の戸口を目指した。
目的の扉を見つけ、インターホンを押した。
数秒待っても返事がないどころか、室内から物音もしない
出掛けているのか──と思った瞬間、
「──!」
気配を感じて、紫藤も翔も、視線を上にやった。
鉄扉の真上にある欄間……半開きになった磨りガラスの隙間から、巨大な女の顔が、こちらをじっと見つめていた。
その髪も、肌も、眼すらも、すべてが緑一色だった。
翔が立ち竦む一方で、紫藤は依頼人から預かった鍵で、すばやく扉を開けた。
同時に銃を抜いて、両眼に意識を集中する。
が、引金を絞る直前で思いとどまった。
玄関には、なにもいなかった。
「消えた……おじさんが開けた瞬間に……」
甥の震える声を背中に受けつつ、土足のまま室内に踏み込む。
「はじめて見た。あんなハッキリ……デカすぎンだろ」
翔もあとを追いながら、独り言のように呟く。声は震えているが、叔父の死角をカバーするよう立ち回っている。
「ああ、そうだな。力を増した霊は、巨大に見えることがある」
紫藤も甥に言葉を返しつつ、室内を見回ってゆく。人の気配はどこにもない。
最後に入った居間は、猛獣でも暴れたのかという荒れようだった。壁も床もズタズタ、布団の羽毛と綿が散乱し…………
「うッ」
悪臭に翔が鼻を覆い、紫藤も眉を顰める。
部屋の片隅に盛られた、うずたかい黒茶色の山。匂いの源はまちがいなく、それだった。
「なんだよ、これ?」
「あまり言いたくはないな」
長年の情報分析と捜査経験で養った紫藤の鼻は、その塊の構成物にあるていどの見当を付けていた。腐肉、血、唾液、精液、帯下、大小の排泄物……だが、ほとんどは土らしい。
むしろそこに違和感を覚える。人体から出せるもののオンパレードに混じって、ただの土とは。住民の何人かが造っていた〝祭壇〟とはこのことだろうか。
このなかに何か埋められているのか。確かめてみたい気もするが、深追いは禁物だ。
部屋を出て、緑の女が最初に出没した場所を探すことにした。
(ここか)
遊歩道からその威容を見あげた瞬間、紫藤は眉間の皺を深くした。
常人の眼には、他のそれと同じ、静まりかえった一棟に見えるだろう。だが紫藤には、五階のとある一室を中心にして、緑色の毛細血管のような筋が、棟全体に、幾重にも張り巡らされているのが感じられた。
「……おじさん、どうする?」
翔にも片鱗くらいは視えているようだ。
「応援を呼ぶ。予想以上に深刻だ」
あそこを調査するなら、先にここ一帯を封鎖すべきだろう。不用意に突入すれば、怪異の元凶を曝くどころか、外に解き放って被害範囲を拡大させかねない。
懐から端末を取り出して────
「みち」
背後からの女の声に振り向いた。
巫女服のような和装に身を包んだ、長身の老女が佇んでいた。
「孤月大師……なぜ、ここに?」
紫藤の問いに、女は柔和な笑みを浮かべる。
「たまたま零子んトコ行ったら、お前に合流するよう頼まれてなぁ。その子が拓馬の倅やね。こないだは顔合わす暇がのうて残念やったわ」
「親父の知り合いですか? いや、それより……」
翔が眼を円くする。無理もない。
「なんで、朱璃ちゃんも一緒なんです?」
「お仕事に決まってるでしょ」
フルフェイスのヘルメットを抱えた朱璃が、眉を上げて、フンと息巻いた。