翔の章
時系列上は、この翔の章が最初です。
凰鵡達の死闘から、さかのぼること一週間────
与積大学キャンパス内…………
講義が終わり、教室からぞろぞろと学生達が流れ出てゆくなか──
「大鳥くん」
名前を呼ばれて、翔は振り向いた。
声を掛けてきた青年の名は堀田。翔とは同じ早山高校から進学してきた身で、当時から面識もある。
「このあとも講義? じつは相談があって」
なにか嫌な予感を覚えつつも、キャンパス内のカフェテラスで翔は彼の話を聞いた。
「噂を聞いたんだけど、きみ、霊とかに詳しかったのか?」
翔は拳で眉間をぐりぐりと揉んだ。
入学して早々、とある出来事が原因で、翔は「霊感男子」として少々名を知られてしまっていた。
実際、視えるのだから誇張ではないが、高校時代には隠していた……わけでもない。衆の訓練の成果だ。
もともと勘の良さという、霊力を発現させる素地はあったため、霊魂を捉えられるようになるのも速かった。
そしてそれが発揮されはじめたころ、ゼミの同輩に、よくないものが取り憑いているのが視えた。だからお祓いを勧めた。それだけだった。
その同輩も身に覚えがあったようだ。後日、言われたとおりに神社で施術してもらったと、清々しい様子で翔に礼を述べた。憑きものも消えていた。
その話が裏で広がったらしく、以来ときどき、こうして心霊関係の相談が舞い込んでくる。
「本題は?」
「うん。僕が入ったサークルの人なんだけどね……」
*
(あんまり頼られても、こちとら半人前なんだがなぁ)
と内心で文句を言いつつも、堀田の案内で、翔はそのマンションに辿り着いていた。
夜中でも煌々と明かりの灯る広いロビーに、エレベーターは四機。大学生の独り暮らしには不釣り合いな高級感に、実家の太さが窺える。
目的の部屋はこの最上階にある。家主の名は鳥塚。二回生で、堀田とおなじ文芸サークルに所属している。
いまを去ること一週間前の土曜日、そのサークルで、少し遅めの新歓のコンパが行われた。居酒屋の広間を貸し切った宴はつつがなく進んだものの、終宴後、鳥塚が自分の部屋での二次会を提案した。
堀田は辞したが、同じ一回生の立井という新入会員がこれに参加した。
そして、この宅飲みの最中に、心霊体験や心霊スポットが話題になり、立井は自分の祖父母の住んでいる集落に伝わる、ある山の話をした。
その山には、足を踏み入れてはならない場所、いわゆる〝禁足地〟が存在しているのだという。
とくに若者であるほど危険とされ「入ったきり行方不明になった」「発見されたが精神に異常をきたしていた」などの事例は数知れぬという。
立井自身はそこへ行ったことはなかったが、鳥塚がこの話に興味を示し、その真相を確かめに行こうと言い出した。
堀田によると、鳥塚は女性ながら、心霊スポットや廃墟を巡るのを趣味にしている、かなり豪胆なオカルトマニアだったらしい。
開けて日曜、さっそく鳥塚が車をレンタルして当地へ出発。前夜に飲み潰れて泊まっていた立井も同行した。他にも数人が鳥塚宅で夜を明かしていたものの、立井以外は全員、なんやかやと理由を付けて辞退した。
「そいつらをふたりきりにさせたい理由でもあったのか?」
「うん。みんな気を利かせたつもりだったんだ」
立井が入会したときから、鳥塚は彼に惹かれて積極的にアプローチをかけていたらしい。一方の立井も、距離を詰めてくる鳥塚のことをまんざらでもなく感じていた。
「僕にも、立井から誘いのメールは来てた。断ったけどね……」
歯切れの悪い堀田からは、ふたりで行かせてしまったことへの悔恨が窺えた。
鳥塚たちは車で三時間ほど走り、立井の祖父母がいる村落に辿り着いた。正確には、村からほど離れた山中の車道だったようだ。
そこで車を降り、農業用か林業用かの山道をつかって徒歩で〝禁足地〟を目指したらしいが、ここからの出来事について、立井の話はやや要領を得なかった。
進むうちに、周囲の空気が重くなってくるのを立井は感じた。
かたや鳥塚のほうは平然と、まるで平地のように狭い山道を歩み続ける。だから立井も、この違和感は幼いころから「入ってはいけない」と聞かされている先入観のせいだと考えた。
だが、やがて奇妙なものがふたりの目の前に現れた。
膝下までの高さの、小さな地蔵だった。
それも、ひとつではない。
山道を塞ぐばかりか、見えるかぎり右から左まで、土のうえにずらりと、いくつもの地蔵が、列をなしていたのだ。
ここから先が、そうに違いない……と立井が感じたのも束の間、鳥塚がヒョイと地蔵を跨いで先へと向かった。
「ぜったいヤバいですよ鳥塚さん」
慌ててあとを追い、止めようとした立井だったが、
「大丈夫だって。あそこに女の人いるじゃん。あれ地元の人でしょ」
と、鳥塚は行く手に見える、開けた山肌を指さした。
だが、その方角を見ても、立井の目には誰ひとり映らなかった。
そう、映らなかったのだ──人間の姿は。
立井に見えたのは、太い縄をグチャグチャに絡めたような〝何か〟だった。
「あ、手ェ振ってる。こんにちはー!」
その〝何か〟に向かって鳥塚が挨拶した瞬間、立井は彼女の手を取って、一目散に山道を降りた。鳥塚はなおも先へ進みたがったが、言うことをきくわけには行かなかった。
「あッ」
と鳥塚が声を上げた。どうやらさっき跨いだ地蔵を蹴り倒してしまったようだ。だがそれでも立井は止まらず、車まで戻った。
さいわい、立井も運転免許は持っていたため、いぶかる鳥塚を助手席に座らせて、その場を離れることが出来た。
そして山裾がはるかに遠ざかったとき、鳥塚の様子がおかしくなった。
「え、私……なに見たの? あ、え…………いやぁ!」
さっきまで揚々としていたはずが、とつぜん悲鳴をあげ、体を震わせはじめた。
「なんだったのあれ? あの人達なんだったの?!」
頬を引き攣らせ、運転中の立井に掴みかからんばかりに連呼する。そんな彼女をなだめながら、立井は往時の倍近い時間を掛けて、鳥塚のマンション宅へと帰りついた。
だが、鳥塚の錯乱は治まらなかった。
そればかりか、恐怖を振り払おうとするように、立井に身体を求めてきたのだ。
もともと押しに弱く、相手を憎からず思っていたことと、助けたい気持ち(そして幾ばくかの下心)もあって、立井はそこで鳥塚に応え、性交に及んだ。
「それがずっと続いてるらしい」
「はぁ?」
堀田の言葉に、翔は頓狂な声を返していた。
「つまり、あれか? 一週間、大学にも来ず、部屋でやりまくってる?」
我ながら無粋な言い回しだと思ったが、奥歯にものが挟まったような堀田の表現を引っ剝がすにはこれくらい必要だ。
「ああ、うん。まぁそういうことだ」
堀田が付け加えて言うのには、交わっているか眠っているかしないと鳥塚が錯乱し、ときには自傷にすら及んでしまうため、立井もやむなく応じている状態らしい。
最初こそ、心のすみでは美味しい思いをしていた立井だったが、それが数日も続くとなると流石に焦燥が募ってくる。だが同時に、鳥塚に迫られると、色香か何かに当てられたように自分も理性的でいられなくなり、際限なく興奮できてしまうようになった。
今ではろくに食べることもせず、睡眠と排泄以外では常に性交に明け暮れ、シャワーですら交わりながらだという。
そして鳥塚が眠りに就いたころ、立井はふと理性を取り戻しては恐怖に苛まれ、同輩の友人である堀田に相談してくるのだ。
なにか自分ではない別の意志が、この身体を操っているような気がする、と。
「ふたりが来ないのはサークルでも心配されてるけど、こんな話、誰に聞いたらいいか。それで心霊に詳しい人を知らないか、って周りに聞いてたら、きみの名前が」
心霊スポットと異常行動とを即座に「イコール霊障」で結びつけるのは短慮だとは思うが、むしろ〝絶え間ない性交〟と聞けば、どうしてもチャクラメイトの名が脳裏によぎる。
残党がいるとも思えないが、その禁足地とやらで天風鳴夜がまた何か企んでいるとも限らない。
ちょうど衆関連の予定もなかったため、その日のうちに動くことにした。叔父には「高校時代の友達と会ってくる」と伝えた。
すこし後ろめたくはあるが、嘘は言っていない。本物だとしても、報告するのはこの目で確かめてからでも遅くはないだろう。
玄関前で堀田がメールを打つ。起きて待っている立井が、なかから鍵を解いてくれる手はずだ──鳥塚が寝ていれば、だが。
(ただの精神障害だったら、いったん拘束して救急車。本物だったら、おじさんか零子さんに連絡)
手順を脳内で反復しつつ、翔は数秒待つ。
かちり、と錠が解かれた。
開いた戸から漏れてくる室内の臭気に、翔は眉を顰めた。時間が経った精液の匂いだ。
暗い沓脱に、背の高い青年がいた。ふだんならスラリとした優男と見えるのだろうが、憔悴しきった細面は生気に欠け、彼自身が幽鬼の類ではないかと思わせる。
ジーンズ一枚。ウエストがガバガバで、ベルトもしていない。こっちを出迎えるために慌てて履いたのだろう。
「その人?」
「うん、大鳥くん。高校の同級生」
堀田の紹介に、翔は無言で手を上げて挨拶する。
「入って」
促され、翔が先に玄関をくぐった。
(やばい)
その瞬間、濃くなった精臭どころではない、生々しい瘴気が、翔の第六感を突いた。
「だれ?」
部屋の奥から女の声がした。ばさり、とベッドから布団の落ちる音。
こちらが察したように、向こうもこちらを察して目を醒ましたらしい。
「出ろ!」
堀田達に叫びながら、翔は土足のまま廊下に上がった。
奥の部屋から、女が現れた。
それが鳥塚本人かどうか、翔にはもうどうでもよかった。
全裸の下半身は、まだ人間だった。
だが上半身は──そう、立井が見たのもこれだろう──太い縄をグチャグチャに絡めたような異形だ。
「大鳥くん?」
「鳥塚さんッ」
背後では、堀田が不思議そうに翔を呼び、かたや立井は嬉しそうに彼女の名を呼ぶ。
ちっ、と翔は舌打ちをして、すぐそばの立井を後ろに蹴り飛ばした。
打ち出された体が堀田にぶつかり、ふたり揃って廊下に飛び出す。
「アアアアアア!!!」
ドアを閉めて鍵を掛けているうちに、鳥塚が飛び掛かってきた。避ける暇もなく、鉄扉に押しつけられる。
(クソっ!)
こちらを包み込もうとしてくる縄の群れに顔を背けながら、右手首をスナップさせて、袖の内側に隠していたものを掌に出した。
ボールペンだ──だがノックした瞬間、先端から出てきたのはインクの詰まったペン軸ではなく、銀色に光る太い針だった。
いまの翔が携行を許されている、対妖暗器のひとつである。純銀の針には、妖種の肉体を破壊できる霊力が封じられている。
(触手は、趣味じゃねぇっての!)
怒気をこめて、ヒトの形を保っている腰に突き刺した。
「ああぉおおううるうぅぅうういい!」
意味不明の母音の羅列を吐き散らして、鳥塚が跳び退いた。腰を穿った穴からは、一滴の血も流れない。
「てめぇ、何してる! 開けろ!」
ドアの裏から立井の怒声がして、ドンドンと叩かれる。あの異形の咆吼が、乙女の悲鳴にでも聞こえているのだろうか。
「ううぅう!」
と、鳥塚が部屋の奥に逃げた。
嫌な予感がして、翔は追いかける。
──ガァァン。
リビングの窓ガラスが派手に割れ、異形の影がベランダの柵を越えて、宙に跳んだ。
そして、下へと消えた。
(クソッ!)
翔もベランダに出て、待ち伏せを警戒しながら柵のしたを覗く。
十二階ぶん下の芝生へ落ちてゆく鳥塚の影が見えた。
鈍い音をあげて地面に激突するが、影はすぐさま真横へと動き出した。
そして、街の片隅に垂れこめる闇へと消えていった。
(なんなんだ、ありゃ)
追いかけたい欲求と怖気を抑え込んで、翔はきびすを返した。
(あー、またおじさんに怒られる……)
玄関に向かいながら、スマートフォンを取り出して紫藤の番号に発信する。
ざりッ……というノイズが、受話口から漏れた。
「……うるい」
明らかに叔父のものではない声。
そもそも、呼び出し音すら、まだ鳴っていない。
「うるうあうるううるいえうるうるうるうるうん」
声は次第に、何人もの人間が呪詛を斉唱しているような音色になる。
(なんだこりゃ……)
と、翔が訝っているあいだに、それはもう一度ノイズを響かせて終わった。
「翔、どうした?」
聞き慣れた声に、ようやく翔は安堵の溜め息をついた。