凰鵡の章
(本作は、長編作品『降魔戦線』シリーズ(https://ncode.syosetu.com/s8577g/)の外伝作品です)
あらすじで「ほぼ時系列」と言いましたが、
凰鵡の章は、全6章中の4or5番目にあたります。
いきなりクライマックス感。
だって「いや最初は凰鵡でしょ」と思ったので……
※本作にはグロテスク及び性的表現が含まれます。
※また宗教的なニュアンスを想起する語句がありますが、本作はいかなる宗教および団体とも関係はありません。
闇が爆ぜた────凰鵡にはそう見えた。
(──うッ!)
次々に伸びてくる触手のような黒い腕をかわしながら、倶利伽羅竜王の光刃で斬り祓ってゆく。
夜の山野に浮かぶ敵は、まるで暗黒で編み上げた注連縄を幾重にも(そして乱雑に)からみ合わせたような異形だ。
その体も、そこから生みだされる腕も、反射率ゼロの真の漆黒。目で捉えても遠近感など働かない。彼我の距離は、拡げた念によって感知するほかない。
空間のなかに何があって、どう動いているか、その今の状態を〝因〟として、その一瞬先、はては数秒後に起こる〝果〟すらをも捉え、流れのなかに自身を置く。
少しずつだが、《不動》の闘法が身についてきているのを、凰鵡は感じていた。
それでもまだ、この力を防御に使うのが精一杯だ。兄のように反撃を織り交ぜたり、機先を制して相手の攻撃を潰すような余裕はない。
伸びてくる腕をいくら斬り落としても、後から後から、いくらでも生えて、執拗に凰鵡を狙ってくる。無尽蔵とでも言うのだろうか。だとすると、いずれ自分のほうに限界が来てしまう。
「くッ!」
思いきって凰鵡は闇の球から跳び退き、倶利伽羅竜王の刃を納めた。最大限の注意を払って気配を断ち、木立のあいだに身を隠した。
こちらを見失った闇塊が暴れて、周囲の木や岩を破壊してまわっているのが音で分かる。
別の方角からは、激突音や、恨みがましい悲鳴の連鎖が聞こえてくる。維が妖種達を蹴散らしながら進撃しているようだ。
(なのに、なんでアイツだけはボクを狙う?)
接触した瞬間から、闇塊は凰鵡ひとりに狙いを定めてきた。この体に秘められた強い霊力に引かれてのことだろうか(力を隠す呪符は身につけているはずだが)。
言葉が通じている様子もない。攻防のさなかにも、何度となく対話は試みたが、聞く耳持たぬとばかりに襲いかかってくる。
(信じられない……あれが、本当に…………)
敵の正体については、維に心当たりがあったらしく、接触時に教えてくれた。
その名に、凰鵡は以前から想像していたものとの差に愕然とし、いまも困惑から脱せきれていない。
あれは、妖種であって妖種ではない。
ヒトで無いことは論外。また妖種よりもなお霊性に強くかたむき、しかし幽魂のように不安定でもなく、いにしえよりこの山に根を下ろし、山の気脈と一体化したもの。
かくなるものを衆ではこう呼ぶ────《山神》と。
その名を聞いたとき、凰鵡は最初、由緒ある神格や、徳のある霊性が、何らかの理由で荒ぶってしまったのだとばかり思っていた──対話をして、怒りの理由を解決すれば静まってくれると。
その予想は、無惨にも破られた。
一帯を覆いつくす禍々しい邪念の首魁は、人の意思など遠く及ばぬ……いや、推し量ることそのものが人の傲慢とも言える存在だった。
それがなぜか執拗に自分を追ってくる。あえて囮となって維を先に行かせたはいいが、なら、いまの自分の技量で、どうすればあれを討てるだろう。
あまりにも苛烈な攻撃を前に、どうやって反撃の機を掴めばいいかも分からない。
(いや、大丈夫……できる。ボクなら出来る)
怯む心につよく言い聞かせ、左手を握りしめる。
バキ、バキッ、と木々の折られる音が近づいてくる。たったいま手のなかに込めた小さな気弾。それだけで、あいつはこっちに気付いたのだ。
(怖がるな……流れを感じて……)
闇塊がこっちの隠れ場所に狙いを定めた。黒い腕が一斉に繰り出される。
(いま!)
木の陰から、凰鵡は飛びだした。
同時に、左手を振り抜く。
広げた手の平から、いくつもの小さな光の礫が飛んだ。
気の弾幕──師や兄のような必中必殺の一発を撃てない凰鵡にとっては、これが精一杯の反撃だ。
だが、ひとつの威力は小さくとも、因果に沿って放たれたとき、その光の群れは、強力な防壁となる。
凰鵡の気弾たちは、闇塊が伸ばした幾本もの黒い腕を一本残らず正確に撃ち据えて、それらの進行を止めた。
その瞬間には、凰鵡は闇塊のふところに飛び込んでいた。
「唵──ッ!」
地摺りの構えから振り上げられた光の刃が、闇塊を両断した。
「えッ?!」
倒した、と感じる間もなく、凰鵡の目の前で、分断された闇がピッタリと、もとにくっついた。
「つぅッ!」
湧き上がった怯みと混乱を振り切るように、凰鵡は歯噛みしながら、剣を突き込む。
ずむっ、という鈍い音がした気がした。凰鵡の手首までが、闇のなかに埋まった。
「あッ!」
捕まった──そう悟ったとき、背後に迫っていた腕の群れが、逆に凰鵡を刺し貫いた。
「あ……ああ……!」
凰鵡の呻きは、叫びにならない悲鳴だった。
目が限界まで開かれ、背が反り返る。
実体をもたない腕という腕が、音もなく体に潜り込んでくる。
血は出ない。肌を裂かれたわけでもない。
闇の腕が蹂躙したのは、凰鵡の精神だった。
(やめ……て…………いや……)
それは陵辱と同義だった。
肉体を姦通されたのではなく、心を無理やりに繋げられたのだ。
果てしない怒り、憎しみ、嫉み、そして復讐心。一方的に叩きつけられ、捻じ込まれてゆくドス黒い思念に、凰鵡は自分の意識がズタズタに引き裂かれ、食い荒らされてゆくのを感じた。
「え──?」
気が付くと、そこは自宅のベッドだった。
「目が醒めたか」
そばに、兄がいた。
「兄さん、ボクは…………」
体は、何ともないようだ。夢を見ていたのだろうか。
「山中から、お前だけが救出された」
夢ではなかった。最後の記憶を思い出してゾッとすると同時に、耳を疑った。
「ボクだけ……維さんは」
顕醒は黙って首を振った。
「そんな……うそ……」
愕然として頭を抱えた。
維が、死んだ? それこそ本当の悪夢だ。
「なにがあったんですか……? ──兄さん?」
呼吸がとまった。
起き上がった凰鵡の体を、顕醒がつよく抱きしめていた。
「すまなかった。お前だけでも無事で、よかった」
胸が痛い。だが、哀しみの痛みではなかった。
兄に、こんなふうに抱きしめられたことなどなかった。維が死んだと聞かされたばかりだというのに、体じゅうが熱くなって、心臓が頭に響くほど、つよく跳ねている。
「お前を、闘わせるべきではなかった。これからは私が守る。ずっと、そばにいるんだ」
耳元で囁かれるたびに、目眩がするほど心が湧き立つ。
「兄さん、でも、ボクは……」
「何も言うな」
腕をゆるめ、顕醒は弟の顔を正面から見つめた。
「もう、私にはお前しかいない。たのむ、愛させてくれ」
ハッと呑んだ息で、凰鵡の頭は火が付いたように熱く湧いた。理性が溶ける。
されるがままに、服が脱がされる。唇に唇が重ねられる。大きな手に肩を掴まれ、ゆっくりとベッドに押し倒される。
(ボク……兄さんとエッチするんだ)
この瞬間をどれだけ夢に見ただろう。いったい何度この光景を夢想して、おのれを慰めてきただろう。
それが、いまようやく現実のものになる。
いつもは自分で触っている場所を、兄の指と舌が愛おしむ。
自慰とはまったく違う、甘い羞恥と興奮に、体が強張る。陰茎は痛いほど反り立ち、陰部からは愛液が漏れ出た。
「凰鵡、いくぞ」
兄の下腹部が、自分の女にグッと寄せられる。彼我のペニスが並び、凰鵡はそのサイズの差に息を呑む。
(おっきい……あれ、入るんだ)
不安と緊張が高まる。破瓜は痛いらしい。
だが恐れる必要はない。
兄が、求めてくれるのだから。
──本当に、そう思う?
声が、自分に問うた。
それは、わずかな猜疑が生んだ自嘲だったのかもしれない。
だが途端、凰鵡は目が覚めたように、心の熱が引くのを感じた。
都合がよすぎる──何もかもが──兄への愛欲や、維への嫉妬に対して。
(違う!)
秘部の入口に先端が触れる瞬間、凰鵡は身をひるがえして顕醒から離れた。
「凰鵡?」
ベッドに膝立ちのまま唖然とする兄の姿に、凰鵡は確信し、軽く深呼吸して、言い放った。
「お前は……誰だ?」
「凰鵡? なにを……」
「ボクの兄さんは、そんな……軟弱な人じゃない」
少し考えれば、最初から分かることだった。
自分の憧れた顕醒は、恋人が死んだからといって妹に慰めてもらいたがるような、情けない男ではない。
たとえ凰鵡がそう望んでも、絶対に、ないのだ。
擬態か、幻覚か。いずれにせよ、自分を貶めようとする何らかの意志を感じる。拡げた念が、この部屋を形作る妄念の存在を教えている。
「うあ!」
凰鵡は叫んだ。
顕醒がとつぜん真っ黒く染まって、何本もの腕に分裂した。
それらはめいめいに伸びて凰鵡に絡みつき、手足を封じ、全身を撫でまわしながら、絞めあげて責め苛む。
間違いない。こいつは山で闘っていた闇塊。なら、ここはヤツの精神世界なのか?
(竜王!)
倶利伽羅竜王を呼ぶ。だが、来ない。
(どうして──ああッ!)
混乱するあいだにも、二本の腕が凰鵡の秘部を嬲りはじめた。先端と割れ目が、指のような襞に撫でられ、舐めまわされる。
(いやだ……やめて……!)
恐怖が凰鵡の心を支配した。
どくん、と脈打つように、自分のなかから、体の力がどこかへ奪われるのを感じる。
それが闇塊の目的なのだ。
辱め、貶め、苦しませて、恐怖を媒介に霊力を喰らう。それを、何年、何十年……いや、この精神世界のなかで、未来永劫、続けるのだ。
(たすけ、て……だれか)
そのときだった。
この場にありえない音が、まったく唐突に、響きわたった。
がしゃん──遊環の音だ。
「うぁッ?!」
気が付くと、あたりは夜の闇。
そして、身体から一斉に抜ける、黒い腕の群れ。
ドサリと地面に落ちた凰鵡の目に、震えながら後退る闇塊が見えた。
「え?」
そして、闇塊から自分を守るようにたたずむ巨体。
兄──ではない。
「あ……うああ……!」
戦慄が、凰鵡をふたたび震えあがらせる。
そんな凰鵡を見下ろしながら、怪僧は静かに、闇塊のほうを指差した。
逆巻いていた凰鵡の心が、フッと凪いだ。
倒せ。そう言っているように見えた。
たったいま自分の精神を現に引き戻した遊環の音……まさか雲水が助けてくれたのか。
なぜ──なんのために──そもそも、どうしてここにいるのだ。
いくつもの疑念が走馬灯のように一巡してから、凰鵡はハッとして右手を見た。
倶利伽羅竜王がない。
あの闇塊のなかに埋まったままだ。
(どうすれば…………いや)
無理に奪いかえす必要はない。ここが現実世界なら、宝剣と自分とは、何処にいても繋がっている。
(唵……竜王、ボクとともに!)
右手を剣印に結び、鞘に見立てた左の拳へと納める。
「──天魔、悪神、降伏すべし!」
裂帛の念とともに、抜刀した。
バァン、と破裂音が響いたように思えた。
闇塊のいたるところから、光が噴き出した。
ほとばしる光の粒子がすべてを焼き尽くし、無数の腕すら先端まで消滅させる。
爆発の中心から宝剣が飛んできて、凰鵡の手に収まった。
(できた……!)
倶利伽羅竜王の遠隔抜刀。前からひそかに考えていた技だった。
とくにいま、相手の体内で光刃を発動させた威力は、兄の《内破》にも負けないはずだ。
げんに、山を包んでいた禍々しい空気の淀みは、嘘のように消えていた。
そして、たった今そこにいた雲水の姿も…………
「凰鵡!」
維が隣に降りたった。向こうも激戦だったようで服はボロボロ。ほぼ裸のすごい姿だが、ケロッとした表情からは、任務を無事に遂行できたことが窺える。
「こっち片付いたから、助けに来たつもり……だったんだけど、ひとりでやっちゃったの? やるじゃない」
「維さん……!」
ほとんど剥き出しの胸に、凰鵡は飛び込んだ。
「凰鵡ッ?! ……大丈夫なの?」
困惑しながらも、維は抱きしめてくれる。
彼女の力強い胸板に額を押し当て、柔らかな乳房を両頬に感じながら、凰鵡はコクコクとうなずく。
闇塊の執念……雲水の目的……何もかもが、判らないままだ。
ただ今は、もう少し、こうして甘えながら、泣いていたい。
(ボクは、まだ……)
それが維への贖罪であり、自分への罰にもなると信じて…………