9.焦れる想い
一通の手紙を前に、ディミアンは項垂れていた。
前世の最愛猫ミーナだったミレニアと出会い、彼女の婚約者候補になってから半年が経過した。
その間に会えたのはたったの一回。
毎日のように手紙を送り返事を貰えてはいるが、会えていないせいか、三か月程前から手紙の文章が素っ気なくなった気がする。
新規事業を立ち上げるため忙しくしているようだと侍従から報告を受けているが、詳しい内容はなかなか入ってこない。
やっとミレニアと会う時間を取ることが出来そうだと、来月招待されている夜会への参加を打診したのだが、断りの返事が来た。
ディミアンの勤務先である宰相補佐室は出世コースの花形部署である反面、休日も勤務時間もあってないような状態だ。
独身で仕事以外に趣味ややりたいことは特になく、自宅の猫を愛でている時が一番幸せだったディミアンにとっては、やりがいのある仕事場に配属されたことは喜びですらあった。
しかし、ミレニアと出会ってから自由になる時間を捻出することの難しさを嘆かずにはいられない。
幼い頃から勉強も運動も特に苦労することはなく、たいていのことはやれば出来て、さらに褒められた。
褒められれば嬉しくて地道な努力もしたけれど、たいして興味も持てないことばかりだったので、いつしか本当にそれが好きな人に追い越される。
自分は秀才であっても天才ではないと、いつの頃からかディミアンは気が付いていた。
華やかなパーティーも煌びやかな衣装も、公爵家嫡男として必要な部分はこなすけれど、自宅で猫と過ごす時間以上に惹かれるものはなかった。
それでも、それだけでいいとはなぜか思えなくて、心が何かを求めていることを感じていた。自分に懐いてくれている猫達、大好きだけれど、何かが違うと頭のどこかで声がする。
そんな時に、猫と触れ合えるカフェがあると聞き、わざわざ予約をして仕事の都合をつけてその店を訪れた。
そうして、前世、飼っていた猫のミーナだったミレニア・ランドリック子爵令嬢と出会う。
心が全力でこの子だと叫んだ。
思わず抱き着いた瞬間、前世を思い出した。
今とはまったく違う世界で哲弥という人間で、ミーナという猫と暮らしていたことを。
自分に足りなかったのはミーナだった。
目の前にいるのは小さな黒猫ではなくて、黒髪の小柄な女の子だけれど、すっぽりと自身の腕の中に収まる心地よい温もり。
思わず猫だったミーナにするように彼女の匂いを深く吸い込む。もふもふの毛ではなかったが、すべすべの肌に顔をうずめると心が安堵感に包まれた。
腕の中の女性は「ミレニア」だと主張しながら、ディミアンに体を預けてきた。ひとしきり彼女の匂いと温もりを堪能した頃に、ミーナだった女性が気を失っていることに気が付く。
やや身分を振りかざしつつ、強引に店の者に彼女の素性を聞き出し、屋敷へと送り届け、在宅していたランドリック子爵に彼女を託した。持病はないということで、ただ眠っているように見えることもあり、一晩様子を見てから侍医を呼ぶか判断するということだ。
また様子を見に来ることを伝え、ディミアンは馬車に待たせていた幼馴染でもある侍従にミレニア・ランドリックについての調査を命じる。
ディミアンはそのまま屋敷に戻らず商工会に顔を出し、日が暮れる頃には仕事を終えた友人達が集まるサロンに出向いた。夜更けに屋敷に戻ると公爵家の蔵書が詰まった図書室で地図を開きランドリック領の場所、地域との関係を改めて確認しながら侍従から現状の報告を聞く。
さきほどミーナだった女性を送り届けたランドリック子爵家は古い家柄というわけでも歴史の浅い貴族家でもなく、これまで特別印象深かった記憶はない。
しかし、突然カイザー公爵令息であるディミアンが訪れても、彼女の父であり当主でもあるランドリック子爵は、驚きは隠せていなかったものの言動は落ち着いていた。
商工会や友人から聞いたランドリック子爵は数年前に代替わりをして以降、安定して堅実だった経営が少し変わってきているという。
今日訪れた猫茶カフェをはじめ新規事業にも積極的に取り組んでいるらしい。新たな取り組みは失敗がないわけではないようだが、実験的に小規模で運営してみたり、少しずつアレンジを加えていったりと、損害を最小にとどめる工夫をしながら着実に商売の幅を広げていっているようだ。
当主であるランドリック子爵はなかなか面白い人物かもしれないと考えながら、ここ数年の子爵家で運営している商会の情報と照らし合わせ、カイザー公爵家と提携できそうな部門を探す。
空が白み始める頃、両家に利のある事業計画書を書き上げることが出来た。
まだ全ての情報を集められたわけではないが、一晩で上がってきたミレニアの調査報告書に、ディミアンは心躍らされていた。
猫茶カフェにいたことからおそらく猫好きであることはわかっていたが、あのカフェ自体がミレニア主体で企画運営されていた。
さらに、領地特産のハーブの新たな販路を練っているという。
これまでディミアンの周りにいた女性が求めていたのは可愛い物や綺麗な物、美味しい物、自分のステータスのための婚約者や配偶者。自分を着飾ることか自分を満たしてくれるものにしか興味を持たない生き物だった。
自身の容姿や知識で価値を示すその姿勢は、貴族女性としては正しいだろう。
しかし、公爵家跡取りであるディミアンは優良な物件としか見られていないと感じており、これまでどんなに女性に言い寄られても心が揺れることはなかった。
実際には家柄に関係なくその類まれな美貌の虜になりアプローチしてくる者もいたが、いったいどれだけ彼の内面に触れられたことだろう。
猫が好きでハーブが好きで、それを広めようと自分で考えて行動する女の子と話をしてみたいと、ディミアンは思った。
ライディングデスクに向かうディミアンの膝の上ですやすやと眠る猫を撫でながら、早くミーナだったあの娘に会いたいと、窓から昇る朝焼けに目を細める。
初回の印象とは変わり、娘のこととなると急に声を荒げるランドリック子爵に粘り、なんとか婚約者候補という地位を得ることが出来た。
見れば見るほど可愛かったミレニアに変な虫が付かないうちに、早く自分のものにしてしまいたいディミアンは不服であったが、公爵家子息という身分柄、家の承認も得ずには結婚どころか婚約すらできないことは当たり前のことだ。
普段は物事を引いてみている自覚のあるディミアンであったが、運命に出会えたと気持ちが逸り、すべてを吹っ飛ばして求婚してしまった。
家を留守にしていた両親が帰宅すると、ディミアンはすぐにミレニアのことを告げる。
喜んでくれるとばかり思っていた両親は、困ったような表情を浮かべた。
「これまで異性に興味がないと思っていたから、結婚したい相手が出来たのは良いことだが」
「人間よりも猫が好きだったから、いつか猫と結婚すると言い出すんじゃないかと恐れていたから良かったけれど」
カイザー公爵とその妻である夫人は、顔を見合わせる。
「ランドリック子爵家か」
「同格ではなくても侯爵や伯爵家にも素敵なご令嬢はたくさんいるし。我が家だったら王家からの降嫁もあり得るから、何の理由もなく子爵家のご令嬢と婚約というのは難しいかもしれないわね」
「理由はあります。僕がミレニア・ランドリック子爵令嬢と結婚したいのです」
母の言葉をディミアンは即座に否定する。
「というか、僕はミレニアとしか結婚したくありません。僕が誰とも結婚しなければカイザー公爵家の血は絶たれてしまいます。親戚から養子縁組という手は残されていますが」
子供の頃から我儘を言うことがほとんどなかったディミアンの主張の強さに、父も母もしばし言葉を失う。
カイザー公爵家の嫡男であるという自覚を持って普段から行動していると思っていた息子の突然の恋に浮かれた状態に、公爵は一つの案を出した。
「では、他の令嬢とも交流をもってみてから決めることにしよう」
「どういうことですか?」
「お前はこれまで必要最低限でしか女性と関わってこなかっただろう。自分から誘うこともなく相手を知ろうともしなかった。ランドリック子爵令嬢が本当にお前にとっての唯一かは、他のご令嬢を知ってから判断しなさい」
「では、わたくしがあなたに似合いそうな令嬢を選んであげるわ」
ディミアンを紹介してほしいと以前から頼まれていたのよね、と母親は楽しそうに話す。
こうして、ディミアンは父の命により母親お薦めの五人の令嬢と順番に会うことになった。




