7.ディミアンの噂
ディミアンとの夜会がキャンセルになったとはいえ、もともとミレニアの日常は忙しい。
猫茶カフェは休職していたジョアンナが間もなく復職できるということで、毎日のように店に顔を出す必要はなくなる予定だ。
しかし、前世の記憶を取り戻したミレニアは、新たな事業を思いつき、そちらの準備に取り掛かり始めていた。
あれからディミアンとは一度も顔を合わせてはいないが、仕事が忙しいからと頻度は減ったものの、あいかわらず短い手紙が届き、それに返事をする形での交流は続いている。
心がザワつくような気がするが、ミレニアは仕事の忙しさを言い訳に、考えないようにしていた。
「この前の夜会、カイザー公爵令息がサンドリー侯爵令嬢をエスコートしていたって聞いたぞ」
父の仕事の会食に母が付き合って、両親がいない夜、兄のロイズが唐突に言った。
会えていなかったけれど、短い付き合いながら前世の飼い猫である自分以外の女性に興味があるように見えなかった彼の気持ちに、ミレニアは安心しきっていた。
少し考えて、深呼吸をしてから答える。
「何か事情があったのでは?」
「その次の夜会ではマドリック伯爵令嬢を連れていたらしいが?」
ミレニアは返事が出来ず、微笑んだ顔のまま固まってしまう。
ディミアンからは特に夜会への参加予定も、他の令嬢をエスコートすることも聞いていない。
「近々、王太子殿下の婚約が発表になる。それに合わせて年の近い貴族達は結婚を焦っているようだが。まさかカイザー公爵令息もだとはな」
王太子は十九歳のディミアンより一つ年下の十八歳だ。
以前より囁かれていた隣国の第三王女との縁談が無事纏まったのだろう。
成人後の王太子の婚約となれば婚約期間は長くないことが予想される。おそらく一年から二年後には盛大に挙式されることだろう。早ければさらに一年後にはお子に恵まれる。
多くの貴族達が次代の王子、姫のお相手に自分の子を、と考えるのは至極当然のこと。王太子の婚約に合わせて、自分達も本格的に結婚に向けて動き出すのも道理といえた。
「お兄様、今日はもう休みますわ。おやすみなさい」
そう兄に告げて、ミレニアはフラフラと自室に戻る。
ディミアンの行動の意味を考えても、さっぱりわからない。当たり前だ、自分はディミアンではないのだから。
突然の前世の主との再会、熱烈な求婚に夢を見ているようなフワフワとしたミレニアだったが、現実を思い出す。
わたしはランドリック子爵令嬢。
身分がそう高くないことから、ありがたいことに結婚は自由にしていいと言われていた。
猫茶カフェの事業も父の手を借りてだが立ち上げることができて、軌道に乗りつつある。
ミレニアは考えてもわからないディミアンのことを考えるのはやめた。
恋に浮かれていたが、ミレニアはやりたいことも、それに向けてすぐに出来ることもたくさんあった。明日からの予定を頭で組み立てながら、眠りについた。
翌日からのミレニアは、これまで以上に忙しく働いた。
新店舗を出すことを父に相談していたが、新しい事業のため慎重に、という父に「今が好機ですわ」と力強く言い、すぐに出店場所も決めてしまう。
店のコンセプトを明確に打ち出し、外装や内装にもこだわる。新しい店は食事も提供するため、雇った料理人とアイデアを出し合い試食を重ねた。
スタッフも揃い、ミレニアが作成した接客教育マニュアルを元に試行錯誤しながら接客サービスの向上を進めている。
それとは平行して、猫茶カフェにも毎日とはいかないが頻繁に顔を出した。
のんびりとしたスタッフ達、自由気ままな猫達のための空間。そこは経営者であるミレニアにとっても心休まる場所になっていた。
昼過ぎに猫茶カフェに出勤すると、すっかり顔馴染みになった常連客の老紳士が来ていた。
足繫く通ってくれる老紳士に店の猫達も信頼を寄せ、四匹いる猫のうち、オス猫のガルは猫じゃらしのおもちゃを持つ彼の手に飛び掛かってじゃれている。他の二匹も彼の前や後ろをおもちゃを追って走り回っていた。白猫のスノウだけは相変わらず距離を取っているものの、目線はおもちゃを追って忙しい。
いつも穏やかな老紳士が実は高貴な身分であること、ミレニアが貴族令嬢であることは、お互い言葉で確認せずともいつしか暗黙の了解となっていた。
老紳士は若い令嬢が父の手を借りているとはいえ事業を起こし店舗経営していることを立派だと言ってくれるような人だった。
話しやすく博識な彼に、ミレニアは時折顔を合わせた際に新店舗の話をすることもあった。
「新しいお店では制服を着用しようかと考えているんです。全部同じ、というわけではなく、コンセプトは同じでもそれぞれに合ったデザインにしたくて」
「よければこの店を紹介しよう。妻が懇意にしていて、デザイナーの女性とも友人だから親身に聞いてくれると思うよ」
そう言って渡してくれたショップカードには、ミレニアでも知っているブランド名があった。噂では人気店だがデザイナーのこだわりが強く気に入った物しか作らないし販売しないと聞く。
「いいんですか?」
新しい店は猫茶カフェよりも高級志向、上流階級の客層も見込んでいるため有名ブランドの制服は売りの一つになるだろう。
「もちろんだ。きみのことは伝えておくから」
そう言ってくれた老紳士の言葉にミレニアはありがたく甘えさせてもらうことにした。
◇
スィートブレスというその店は、子爵令嬢であるミレニアには少し敷居の高い店だった。値段もそれなりだが、何よりデザイナーのこだわりが強く、その店のドレスを着ていると社交界でも一目置かれるという評判の店。
これまで平凡に低位貴族の令嬢に埋もれてきたミレニアには縁のなかったお店だ。
しかし、実際に訪れてみると、明るく気さくな店員に迎え入れられた。
「いらっしゃいませ。ランドリック子爵令嬢様。前グレイマーク侯爵様からご連絡いただいておりますわ」
店内は広く、色とりどりのドレスを着たトルソーがたくさん飾られていた。店員は一着、一着、ドレスの前で立ち止まり簡単に説明をしてくれる。
「こちらは若いご令嬢向けにデザインされた物です」
若い女性といえば流行のデザインが人気だろうに、そのドレスはレースもリボンもないシンプルな物だった。
「新鮮な素材はそのままで勝負出来る、ということでしょうか。殿方にこのドレスに似合った装飾品を贈っていただくことでセンスの良し悪しを図る試金石にすることもできますわね」
次に紹介されたのは若い婦人向けのレースを重ねた繊細そうなドレス。
「このレースはスカイブ領独自のレースとグイリーン領伝統のレースを重ねていますのね。昨年、農作物関係で提携を結んだという二つの領地のレースをドレスで共演させるなんて面白い試みですこと」
「こちらはお子さんがお呼ばれした時用のドレス」
そう言って示されたのは五歳程度の女の子のワンピースドレス。締め付けのない動きやすそうなドレスではあるけれど、襟や袖口に可愛らしい目の細かなレースが縫い付けられている。
「とても可愛いですが、このレースでは猫の爪が引っかかってしまいますわ。レースにせずとも素材を変えるなどなさったほうが良いかもしれません」
「まぁ、確かに。親しいお家同士ですと家族同然と猫も同じ空間で過ごす場合がございますものね。あら、でしたらこの飾りも危険かしら?」
近くにあった他の洋服の前に移動する。エメラルドに似たイミテーションの宝石、それに飾りでつけられた繊細に揺れるチェーンを示される。
「光で輝く物も、いたずら心を刺激するチェーンも、猫は大好きでございます」
「あなた商売人目線かと思ったら猫目線なのね」
どちらにしてもご令嬢目線ではないわ、と店員はクスクス笑う。その後は特に他のドレスの説明をされることなくトルソーの合間を縫うように奥の部屋へと向かう。
視界の端にシルバーグレーの輝きを認め、ミレニアは思わず振り返った。




