5.たぶん、もう、始まっている
怒りに燃えるディミアンが一歩、男に近寄る。
その形相に、怒鳴り散らしていたはずの男の顔が青ざめた。
店員達はここが地獄へと変わることを覚悟し、ごくりと唾を飲み込む。
「ケホ、ケホケホッ」
ミレニアの咳き込む声に、ディミアンは一気に柔らかな物腰へと変わる。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
転んだまま座り込んでいたミレニアの傍により、背中をさすってやる。
ミレニアは咳の合間に頷きを繰り返し、早くここから出たいことを告げた。
ディミアンはミレニアの身体を抱きかかえるようにして、店を出た。
チラリと振り返り、接客にあたってくれていた老練の店員に目配せをする。言葉は発せず、ただ店員は頷いた。ディミアンの意図を完璧に読み取ったこの男は、この後、暴力を振るおうとした男に過剰なまでの制裁を加え、この男の情報を余すことなくディミアンに報告する。
ジュエリー店から出るとほどなくしてミレニアの咳は落ち着いたが、心配したディミアンは近くのカフェで休憩することを提案する。
温かな飲み物がテーブルに揃うと、ディミアンが頭を下げた。
「怖い思いをさせてごめん」
ミレニアは不思議そうに首を傾げる。
「あなたのせいではありませんでしょう?」
「けどっ」
「どこにでも傲岸不遜な人はいるものですわ。誰もケガをしなかったですし、お店の方にお任せして出てきてしまいましたし。ディミアン様から謝られるようなことは何もありません」
そう言って、ミレニアは自分の分のオレンジティーの入ったカップを持ち上げた。
柑橘の爽やかな匂いに満たされ、自然に笑みが漏れる。
オレンジの輪切りが浮かんだ紅茶を飲むミレニアを、ディミアンはぼんやりと見ていた。
「それ、好きなの?」
「はい。美味しいですよ」
ディミアンの反応を不思議に思いながらも、ミレニアはまだ熱いそれをちびちびと飲む。
「ミーナは、僕が蜜柑の皮を剥くといつも逃げ出していたから」
ディミアンの言葉に、ミレニアは納得して微笑む。
「猫だった頃は、柑橘類は嫌いな臭いでしたものね。でも、人間になった今は、むしろ好きです。さっきの男性の煙草の臭いは変わらず苦手で、咳き込んでしまったけれど」
猫だった頃のミーナは、特に臭いに敏感だったように思う。煙草臭い哲弥の友人が遊びに来た時は、段ボールハウスにずっと身を潜めていた。
「あいつが来た時に出てこなかったのは、煙草の臭いのせいだったのか」
ヘビースモーカーな友人は、哲弥の部屋では喫煙しなかったものの、体や衣服に臭いが染みついていた。けれど、ニャアとしか言わないミーナからは、どうしてその友人が嫌いなのかまでは伝わっていなかった。
「当たり前だけれど、きみはミーナだったけれど、今はミレニアという人間の女の子なんだね」
しみじみと言いながらディミアンは紅茶のカップを持つ。敵情視察、と言いながら、公爵領が産地ではない茶葉を選んでいた。
「がっかりしました?」
ミレニアの言葉に、ディミアンは目を丸くする。
「どうして?」
少しの沈黙の後、ミレニアはポツリと呟くように言った。
「……ミーナとは違うから」
ハハ、とディミアンは思わず笑う。
「僕も哲弥とは違うよ。きみがミーナだったから求めていることは否定できないけどね」
ミーナだったから、という言葉に、ミレニアの心がチクりと痛んだ。
「哲弥だった頃の経験も価値観も、僕の記憶に残っている。けれど、ディミアンとして生きてきた僕は、哲弥とは違う考え方もする人間としてここにいて、それでも、ミーナだったきみに惹かれてやまない」
ディミアンの真っ直ぐな瞳がミレニアを見つめている。
「きみの婚約者候補にしてもらったあの日、きみは『ミーナじゃない』と言った。それで考えたんだ。僕はミーナを愛していた。可愛くて愛しくて、僕だけに甘えて欲しくて、大事に護りたくて。けど、人間の女の子になったきみは、この世界では見たことがなかった猫カフェを経営して、領地のハーブをお茶として売り出そうとハーブの効能を調べたりしたと聞いた」
言葉を切ったディミアンは紅茶を一口飲んで、ふむ、と紅茶の風味に一瞬気を取られた。
ミレニアは黙って彼の言葉の続きを待つ。
「わくわくしたよ。ミレニアっていう女の子のことが知りたくなった。でもきみを目の前にすると、まだ、どうしても哲弥がミーナを求めてしまって、制御出来ないんだけどね」
「わたしも、わたしの中のミーナがあなたに身体を擦り付けたくてたまらないのを我慢しているの」
ガチャンと音を立てて紅茶のカップを置いたディミアンは真剣に言った。
「それは、遠慮せずに行動に移してほしい」
「やりません。人間のわたしは、そんなはしたないことはしないの」
冷たくミレニアは言い返す。
「でも、貴族だから叶わないかもしれないと思っていたけれど、恋はしてみたいわ」
恥ずかしくて、窓の外を見ながら、ミレニアは自分の気持ちを言葉にした。
ディミアンも、窓に目を向ける。
「手紙の返事が来ると嬉しくて、会える日を心待ちにして、自分の色のネックレスを贈れることが嬉しくて、僕は今、けっこうドキドキしている」
窓ガラス越しに、二人の目が合った。
「たぶん、もう、始まっているよ」
ディミアンは正面のミレニアに向き直る。
「ねぇ、ミレニア」
名前を呼ばれたミレニアも、ディミアンに向き直る。
「でもね、誰かを守るためでも、暴力男の前に出て行ったらダメだよ。僕とか護衛とか、他の人に任せて」
「だって、さっきは店員さんが殴られちゃうと思ったら身体が勝手に動いてしまって」
「次からは我慢して。僕はミレニアが一番大事だから。少しでも僕のことを気にかけてくれるのなら、僕の大切なきみを大事にして」
ね、と真剣な眼差しのディミアンは神々しいまでに美しくて、ミレニアは慌てて視線を外す。
両手で顔を挟まれて、返事をするまで見つめられたミレニアは、そのまま昇天してしまうかと思った。




