2.婚約じゃなくて結婚です、お義父様
ミレニアは前世、哲弥という名の男と暮らす一匹の猫だった。
一つの記憶を思い出すと、次から次へと猫だった頃の記憶が蘇る。
哲弥の膝の上で丸くなって眠るのが好きだった。
哲弥が外から帰ってくると、嬉しくて身体を擦り付けた。
哲弥の姿が見えないと寂しくてミャアミャア鳴いた。
背の高い身体を少し丸めるようにして抱きしめ、ミレニアの首筋に顔を埋めているこの男が、かつての飼い主、哲弥であると、なぜだかわかった。
会いたかった会いたかった会いたかった
猫だった頃の感情と記憶に支配されたミレニアは、大好きだった飼い主の生まれ変わりの男に抱きしめられた幸福な気持ちのまま、意識を失った。
◇
なんだか騒がしいと目を覚ますと、そこは自宅の自分のベッドの上だった。
ミレニアは欠伸を一つして、起き上がる。
猫だったわね。と、独りごちる。
これまで猫の行動や好き嫌いがなんとなくわかることが自分でも不思議であったが、前世が猫だったのなら納得だ。
ぼんやりと猫目線の記憶が蘇ることはあったが、それが何かはよくわかっていなかった。
猫カフェを思いついたのも、きっと前世で哲弥と一緒にテレビで見た情報の一端が記憶に刷り込まれていたからだろう。
猫だった頃の記憶に支配された時は、目の前の哲弥だった男の傍から片時も離れたくない、と思っていたが、一晩眠り、記憶が落ち着くと、人間となって生きてきた十六年の現在の価値観が勝つ。
恐らく、カイザー公爵子息であろう元哲弥もそうだろう。昨日は転生後の再開に高揚してしまったが、今頃は良い思い出として胸にしまっておくことに決めているに違いない。
だって、同じ国の貴族とはいえ、カイザー公爵家は王家の血流も汲んでいる王家に次ぐ権力を持つ筆頭貴族だし、ミレニアのランドリック子爵家は、下位貴族としては裕福とはいえ、貴族としての地位は低く、何もなければ一生口を利くことすらないだろう。
公爵家令息と子爵家令嬢では、大規模な夜会で顔を一瞬見ることがあったかもしれない程度の間柄だ。
ミレニアの部屋の扉を叩く音が聞こえ、返事をすると、使用人のオリザが入ってくる。ミレニアが幼い頃からメイド長の母と庭師の父とともに家族で住み込みで働いてくれているため、姉の様に慕っている彼女は遠慮がない。
「ミレニア様、起きました?」
返事を聞くこともなく、ミレニアの口に一口大のサンドイッチを突っ込み、布団を剥ぎ、寝間着を脱がせにかかる。
「自分で脱げるわ! 何!?」
「では、わたしは顔を洗う水を持ってきます。お客様を待たせていますので、超特急で準備いたしますよ!」
「お客様って、どなた?」
部屋の外が何やら騒がしいのは、急な来客のためらしい。約束がなかった相手だとしても、屋敷中が慌てるお客様とは。
嫌な予感がして尋ねたミレニアに、オリザはにやりと笑うだけで答えず、準備のため忙しそうに立ち働く。
そして、来客が誰かは教えてくれないまま、本当に超特急でミレニアを余所行きスタイルに仕上げてくれた。
指定された応接室へ行くと、部屋の外で待機していた執事が扉を開け、中へと促される。
華美ではないが清潔に保たれた子爵家の応接室に不似合いな神々しいまでに美しい男が、そこにはいた。
ソファーにゆったりと座り、膝の上には猫が、寄り添うように隣にも猫が。
猫?
ランドリック子爵家には三匹の猫がいる。基本的には自由にさせているが、お客様のいる部屋には入らないようにしているはずだ。
だというのに、なぜか猫のフロワはお客様である男の膝の上に丸まり、レジュは座る彼にぴったりとくっついて安心しきったように目を閉じている。
人見知りの激しいミュスクルだけは彼の傍にはいないが、部屋の隅で箱座りをして、目線は見慣れぬ男へ向けている。
「どうして猫が……」
「どうしたもこうしたも、俺の膝でグルグル言っていたフロワが突然玄関へ走り出して、追いかけて行くとすでにジュレが彼の足元に擦り寄っていたんだ」
あまり我が家の猫に懐かれていない父がギリギリと恨めしそうに男を睨みつける。きっと同じ部屋に長い時間いて、やっとフロワが父の膝の乗り、喜びを噛み締めていたときだったのだろう。
「気が逸るあまり先触れを出さずに訪問してしまい、すまない。僕はなぜか猫に好かれる体質? みたいで。一番好きな猫は黒猫なんだけどね」
男の言葉に、前世黒猫だったミレニアは身体をビクリとさせる。
ミレニアの父でもあるランドリック子爵が、気を取り直し、男を紹介した。
「こちらはカイザー公爵家のディミアン殿だ。昨日、店で倒れたミレニアを屋敷まで送り届けてくれて、今日も心配してわざわざ見舞いに来てくれたそうだ」
ミレニアは昨日、店でディミアンに抱きしめられたまま気を失い、一晩眠りこけて、目覚めてすぐ、この部屋に呼ばれたらしい。
「改めまして、ランドリック子爵が娘、ミレニアでございます。昨日、今日と、ご迷惑をお掛けいたしました」
「迷惑なんかじゃないよ。昨日は僕も困惑したからね。もう起き上がっても大丈夫なのか?」
ディミアンと父はテーブルを挟んだソファーに腰掛けており、ミレニアは父の座るソファーの横に立っているため、触れることが出来ない距離だ。
彼の手がそわそわと落ち着きなくグーパーを繰り返している。おそらく、猫であったミーナを頭から体にかけて撫でまわしたいのだろう。
哲弥は帰宅後、いつもミーナを頭から尻尾の先まで手を添わせて撫でた。猫のミーナもそれが嬉しくて頭からぐいぐいと彼に身体を押し付けた記憶がある。
「ええ。健康で頑丈なことが取り柄ですので、もうすっかり」
思わずディミアンに擦り寄って行きそうな身体を制御しながら、令嬢としてはあまり自慢しないような長所を述べる。
その言葉にディミアンはホッとしたように笑みを漏らす。
「それは良かった。では、僕との結婚を進めてもいいね」
「はい、もちろ……」
予想外の言葉に、用意していた返事は途中で止まる。
自分の耳を疑いたいが、確か今、『結婚』と聞こえたような。
ミレニアはぎこちない動きで父を見る。驚いた表情のまま、父は首を横に振った。
「よかった。うちの両親は所用で他国へ出ているからすぐに報告することは出来なかったけれど、昨晩のうちに文は出しておいた。きっと数日後には喜びの返事が届くだろう。家族が揃ったら顔合わせをして婚姻届けを出して、結婚式の準備はそれからゆっくりと進めようと思う」
ディミアンはニコニコと今後の予定を語り出す。
「ミレニア、いつのまにカイザー公爵家の方とそんな仲に?」
冷や汗を流しながら、父がミレニアに小声で問いかける。
「お父様、カイザー公爵令息様とは、昨日が初対面です」
「えー、じゃあ一目惚れ?」
自分の娘なので、ミレニアのことは天使のように可愛いと思っているが、社交界で輝く花も蝶も見ているランドリック伯爵は、信じられない、といった顔で娘を見る。
「運命です。お義父様」
親子のこそこそ話を聞いていたディミアンはにっこりと微笑み、強く言い切る。
「お嬢様とお会いしたのは昨日が初めてです。会った瞬間、僕が探していたのは彼女だとすぐにわかりました」
無言で首を横に振る娘に、ランドリック子爵はコホンと咳ばらいをした。
「お気持ちは嬉しいが、まずは公爵が戻られてから正式に婚約の釣書を持ってきていただきたい」
どうせ若造の一時の気の迷いだろう。公爵家では通らない話だろうから、とランドリック子爵は冷静に答える。
「いえ、婚約ではなくて結婚です。お義父様」
「は? 結婚!?」
「はい。本当は今すぐ屋敷に連れ帰りたいところですけれど、さすがに未婚の男女が理由もなく同居は不味いですからね。結婚してしまえば誰にも遠慮はいらない、彼女は僕のものだと堂々と言える」
「誰が結婚など許すかーーーー!!」
冷静に話し合おうとしていた父だが、元々気が短いため、ついに大声が出てしまった。
驚いた猫達がディミアンから離れ、部屋の隅へと走り出す。




