11.手が滑りましたわ
ミレニアが夜会の会場に入ると、衆目が集まるのを感じた。
高位貴族が集まる夜会に出席するのはデビュタント以来で緊張する。ミレニアを見て驚いた顔の知り合いを何人かみつけ、その表情にくすりと笑い、少し気持ちがほぐれた。
ミレニアの手を引いてくれているのはしっかりした体躯のロマンスグレー、前グレイマーク侯爵だ。猫茶カフェで出会い、今では仕事の相談にも乗ってくれる年の離れた友人は久しぶりの夜会だと言っていたが、その立ち振る舞いは堂々としている。
「オーギュスト、久しぶりじゃないか」
「オーギュスト元参謀長官殿、お元気でしたか」
前グレイマーク侯爵のファーストネームを呼んで懐かしそうに声を掛けてきたのは、たいていが大きな体つきで声も大きい男性だ。
普段は優し気な印象の前グレイマーク侯爵だが、いかめしい彼らを前にすると心なしか威厳を感じる。
軍の参謀長官だったというのは本当だったのだな、と傍で様子を見るミレニアは実感した。
前グレイマーク侯爵が昔の仲間に囲まれだしたので、ミレニアはそっと離れ壁際に寄る。
普段は自分が経営に関わっている猫関係の店舗と、その関連の取引先とが主な関わりのミレニアは、高位貴族が中心の今夜の夜会は華やかすぎて腰が引けてしまっていた。
それでも、気が付くと美しく着飾った貴族達の中に美しいシルバーグレーの髪を持つ彼がいやしないかと、つい探してしまう。
数週間前、ディミアンからサンドリー侯爵家の夜会に誘われたミレニアは、思わずその手紙を破り捨てた。
自分を誘っておいて急遽キャンセルしたという夜会に、サンドリー侯爵家のご令嬢と参加したと聞いている。そのご令嬢の屋敷で開かれる夜会に一緒に参加しようとは、いったいどの面下げて言っているのかと、ミレニアは前グレイマーク侯爵に愚痴を言ってしまった。
「では、私と一緒に参加するかい?」
爵位を譲った息子には招待状が届いているだろうし、特に固執するような夜会ではないから当主代理として自分が参加しても問題はないだろう。
そう言って、前グレイマーク侯爵はニコリと微笑んでミレニアを誘ってくれた。
「ついでに新しい店の宣伝もすればいい」
そのように言われては断る理由もない。
では、よろしくお願いいたします。とミレニアはペコリと頭を下げた。
ミレニアが前グレイマーク侯爵と夜会に出ることを聞いたクロエが、嬉々としてドレスを用意してくれた。
淡い水色のベルラインのドレスで、ウエストマークにドレスと同色の水色とレモン色のレースリボンが巻かれている。
物語の中から出てきたようなどこかメルヘンチックなそのドレスはミレニアによく似あっていて、慣れない人混みに窮してしまいそうになるミレニアに勇気を与えてくれた。
ミレニアは、前グレイマーク侯爵が友人達に囲まれている場所からほんの少し離れ、会場全体を見渡す。
熱帯魚の尾のようにとりどりの色のドレスの裾がヒラヒラと揺れる様をぼんやりと見ていたミレニアの視界に影がかかる。
顔を上げると、オレンジの髪に赤目という非常にエネルギッシュな色合いの女性が目を吊り上げて目の前に立っていた。
まるで炎のような色彩の女性。
おそらく彼女はマドリック伯爵令嬢。ディミアンがサンドリー侯爵令嬢の次に夜会にエスコートしていたと噂で聞いた。
「あ~ら、手が滑りましたわぁ」
ミレニアの顔面に向けてワイングラスをゆっくりと傾ける。グラスの液体をすべてミレニアに掛け終えると、目の前の女は嘲るような微笑みを浮かべた。
「しがない子爵令嬢がいていい場所ではなくってよ。この場を汚さないうちにお帰りなさい」
「手がお滑りになったのですか?」
ミレニアは額にかかった髪を手で撫でつけるように避ける。ドレスと揃いの淡い水色の手袋がワインの色に染まった。
「この人混みですから手に持ったグラスを傾けてしまうこともあるのかしら。子爵令嬢のわたしですら、そんな初歩的なミスはしないのに、どこのどなたか存じませんが、夜会に出て来られる前にマナーのレッスンを受け直したほうがよろしかったのでは?」
マドリック伯爵令嬢は、予想外の反撃に一瞬言葉を失う。特に有名でもない子爵家の小柄で素朴な顔立ちの令嬢が、伯爵令嬢である自分に口答えをすると思ってもいなかったのだ。
「恥ずかしながらこれまで社交を疎かにしていたこともありまして、先日、ご縁があって優秀なマナー講師の方に教わる機会がありましたの。とても優秀な先生でしたので、よろしければご紹介いたしましょうか?」
ミレニアが始めた新しい店は、高位貴族の来店も視野に入れている。自身の社交のためもあるが、店での接客マナーもそれ相応にする必要があったため、前グレイマーク侯爵の紹介で令嬢教育に定評のあるご婦人を店に招いてスタッフ一同、マナー講習を受けた。
「ディミアン様のために……?」
マドリック伯爵令嬢は、ディミアンがミレニアの婚約者候補であることを知っていた。そのため、公爵令息の婚約者となるため、上流階級に相応しいマナーを身に着けるためだと捉えた。
マドリック伯爵令嬢はカイザー公爵家のディミアンへずっと憧れを抱いていた。
そんな彼から誘いを受けた時は、舞い上がるほど嬉しかった。恵まれた家柄に生まれ、仕事も優秀だと聞く評判の高い美貌の公爵令息。社交界での人気は高かったが、女性関係の噂はなく、もはや観賞用と言ってもよかった彼からの誘いはたったの三回で突然終わった。
会っている間は始終笑顔で礼儀正しく接してくれていたというのに、三回の誘いが終わると、では次と言わんばかりに他の令嬢を同じく三回誘い、また次の令嬢を誘っていた。
どういうことかと調べてみると、ディミアンはいつの間にかランドリック子爵の令嬢という社交界でも姿を見ない娘の婚約者候補になったという。
だというのに、なぜか他の良家のお嫁さん候補ともいわれる令嬢を次から次へと誘っている。
ランドリック子爵令嬢とは会っていないようだったが、手紙のやりとりはしているという。何のカモフラージュか知らないが、マドリック伯爵令嬢は会ったこともないランドリック子爵令嬢は憎悪の対象になった。
そんな憎い小娘が夜会の会場の片隅にいるのを見つけた。彼女とは初対面だったが社交界では珍しい黒髪の小柄な少女がランドリック子爵令嬢だと、すぐに気が付いた。マドリック伯爵令嬢は感情のままミレニアにワインをかけた。
人畜無害そうな目の前の令嬢は、突然見知らぬ令嬢にワインを掛けられても平然と言い返してくる。その自信は、ディミアンに愛されているからだろうか。
マドリック伯爵令嬢の頭に血が上る。
「調子に乗るんじゃないわよ!」
カッとなって振り上げられた手に、ミレニアは思わず目をつむる。
パシャリと液体が勢いよく落ちる音がした。
ミレニアは痛みが襲わないことを不思議に思い目を開けると、なぜか濡れたマドリック伯爵令嬢と優雅に微笑む令嬢がいる。
「ソフィーナ様……」
マドリック伯爵令嬢の呟きを聞き、ミレニアは彼女が今夜の夜会の主催者の娘であることに気が付く。
「小さな火花が見えましたので、消化活動ですわ」
ソフィーナは空になったワイングラスを顔元に近づけ、可愛らしく笑う。
赤い液体を滴らせるミレニアとは違い、白ワインをかけたのは、冷静にグラスの中身を選んだからだろう。
「このままでは風邪を引いてしまいますわ。残念ですけれど、今夜はもうお帰りになって」
ソフィーナの言葉は提案ではなく、決定だった。
ニコニコと微笑みながらマドリック伯爵令嬢に「早く帰れ」と促す。
サンドリー侯爵令嬢であるソフィーナとマドリック伯爵令嬢。二人の間には侯爵家と伯爵家の家格の差以上に、令嬢としての差があった。若いながらに美しく微笑む女神のようなこの女に逆らってはいけないと、本能が告げる。
マドリック伯爵令嬢はギリギリと悔しそうに唇を嚙み締めながらも、夜会を主催しているサンドリー侯爵の娘であるソフィーナの言葉に従い帰っていった。
「素敵なドレスが大変! このドレス、どちらの?」
ワインに濡れたミレニアを見たソフィーナがドレスの心配をする。
「まぁ、スィートブレスの!! わたしもあの店のドレスを二着持っているんですけど、予約待ちでなかなか次が作れなくって」
今回のミレニアのドレスは、スィートブレスのデザイナーであるクロエが頼まずとも作ってくれたものだったので、なんと返していいか返事に困り、ミレニアは曖昧な笑みを浮かべた。
「あなた、顔を良く見せてくださる? やっぱり、噂のカフェの方ね。いいこと思いついたわ! 着替えを貸してあげるから、こっちにいらっしゃい」
ソフィーナはミレニアの返事も聞かずに休憩室の一部屋へと連れて行く。
ディミアンはやっとミレニアに会えたと思ったが、気が付けばワインを掛けられ、友人のソフィーナが格好良く彼女を助けて連れ去ってしまった。
今は会場の隅で、ミレニアが帰って来るのを今か今かと待つことしか出来ない。
「どうしてこんなに親切にしてくださるのですか?」
休憩室に付き添ってくれたソフィーナに、ミレニアは問いかける。
「わたしの友人がね、先日とっても素敵なカフェのプレオープンに招待されたんですって。その時の様子を楽しく聞かせてくれて、わたしも是非、そのお店に行ってみたいなぁと思っていたのよ」
ソフィーナが話題に出したのは、おそらくミレニアが始めた新しい店のことだろう。招待制でのプレオープンを一度しただけで、本格的な開店はこれからである。
予想以上に好評だったプレオープンの様子を聞いて、自分も店に訪れたいとソフィーナは思ってくれたのだろう。
「でしたら、後でお店の招待状を送らせていただきますわ」
新しい店は、猫茶カフェとは違ったタイプの店だが質の良い接客を提供するため、現状は紹介者のみの予約制を考えている。
「まぁ、嬉しい! ではお着換えいたしましょう。ドレスはこの中からお選びになって。うちの侍女はメイクも得意なのよ」




